キャピタリズム~マネーは踊る~ ★★★★☆

リーマン・ショックや住宅バブル崩壊の影響により顕在化したアメリカの格差問題をきっかけとして、資本主義の本質を探るマイケル・ムーアの話。

本作が制作されたのは2009年、リーマン・ショックの悪影響が色濃かった時期であり、またオバマ新大統領の「Change」にアメリカ国民が期待を寄せた頃である。全体の構成としては、金融資本主義がいかに劣悪かを印象付け、共和党の「socialist」オバマネガキャンの失敗~民主主義の力~フランクリン・ルーズベルトの新しい権利章典と、民主的な新大統領の誕生により、未来への希望を見据えた作りになっている。

約2年後の2011年8月現在、果たして「Change」はなされたのだろうか。アメリカは国債発行可能限度額の上限に達しそうになり、上限繰り上げの代わりに、今後長期間緊縮財政政策を採らざるを得なくなった。紛糾した二大政党間の混乱が史上初めてアメリカ国債の格下げへとつながり、ドルはかつてほど基軸通貨の役割を果たせなくなっている。失業率は9%前後で高止まり、資産価値下落の逆資産効果が消費を冷え込ませ、最早クレジットカードで支払いを先延ばししてまで消費する事ができなくなっている。期待のオバマもグリーン・ニューディールやらゼロ金利+QEの金融緩和政策を実行したにもかからわず、持続的な経済成長には結果として結びついておらず、景気のダブル・ディップへの懸念も根強い。オバマ政権最大の課題と言ってもいい、医療保険制度(国民皆保険)改革は2010年3月に法案成立した。しかしそれも今後の緊縮財政で社会保障費が削減されると、メディケア・メディケイドの予算枠も削減される。「Change」でも逆の方に行ってしまったわけだ。

マイケル・ムーアが最後に呼びかけた「俺だけじゃ無理。みんなでやろう。」という試みであったり、オバマの「Change」は、約2年後の現時点では失敗であると言うべきだろう。むしろマクロ経済が停滞していたにも関わらず抜本的な変革がなされなかった(20年間それを見過ごした日本人が指摘するのは片腹痛いが)ため、本作の着眼点である「貧富の格差」は拡大している。また今後、その差は加速度的に広がっていくだろう。

こうした中で先日、アメリカの著名な投資家であり大富豪のウォーレン・バフェットが「超金持ちにもっと税金を支払わせろ」と、超金持ち自ら提言した (Stop Coddling the Super-Rich)。曰く、超金持ちの蓄財は主にキャピタル・ゲイン(金融商品の売買益や利息・配当)によるものであり、その課税率が所得税率に対して低すぎる(36%に対して17%)からだと言う。言い換えればアメリカはこの特例的なキャピタル・ゲインの低税率を推進力に、金融取引によって見せかけの経済成長をなしていたわけである。

資本主義は文字通り、「資本をより多く持っている方が良いだろ!!!!」というシステムだ。1年間で10億円稼ぐのに手っ取り早いのは、「1兆円を金利0.1%の銀行預金に預けて、1年間好きなように暮らし、1年後利息を貰う」事である。つまり資本が多ければ多いほど、さらなる資本獲得のオプションも増え、得られる・失う額も大きくなる。これにより「資本獲得」への動機が万人に生まれ、その結果みんな豊かになり、便利になり、素晴らしい将来が開けてくるという考え方である。

確かにこれこそが資本主義の本来の有り様であるし、過去になされたからこそ、今我々は100年前誰も持っていなかったものを持っている。物質に囲まれた暮らしが豊かであるかどうかは別問題として、これがそもそもの資本主義なのだ。問題は”過度な”資本主義なわけである。

本作では”過度な”資本主義の利得者を、主にマネーゲームで成り上がった超金持ち、被害者を家を失った一般の人々や倒産した企業の従業員として、明確に色分けして描いている。超金持ちが、貸すときはニコニコ金髪美女、返すときはシチリアン・マフィア(あれはたぶんビト・コルレオーネのパロディ)という二面性を持っているのは、単純化するとその通りだ。強制退去の現場を見ると、いかに自己責任とは言え、法律の非人間的な力に人として心が痛む。

だが、見る前に俺がマイケル・ムーアに期待したのはこんなステレオタイプな描写ではない。以上のような惨劇や収奪は、他の媒体で山ほど見てきた。あの、「ボーリング・フォー・コロンバイン」や「シッコ」のマイケル・ムーアだからこそ、一発かます何かがきっとあるだろうと期待していた。

マイケル・ムーアは空気を読まない突撃リポートを得意とする。中立な第三者として、一般に聞きにくいこともアホのふりして聞いてくれるから見る価値があった。俺が抱いた期待とは、

「なぜ超金持ちは、個人としてそんなに金が必要なのか?」

という点の追求である。だが結局突撃リポートはなかった。それどころか本作では突撃すら出来ず、せいぜい蚊帳の外からアジったり、よくわからんロープを張り巡らして「逮捕だ逮捕」とか、パフォーマンスのためのパフォーマンスをしただけである。この点は、マイケル・ムーアに期待したものが全くなかったので本当に残念だった。それだけ、超金持ちの壁は厚いということかもしれないが。

「なぜ超金持ちは、個人としてそんなに金が必要なのか?」。企業の場合、利潤追求のため資本はあってありすぎるという事はないから、際限なく金を得ようと(=企業活動をしようと)するのはわかる。また近代資本主義では禁欲的な勤勉さが結果的に資本の蓄積に繋がるため、職能集団である企業がその役割を果たせば自然と蓄財されるのも納得出来る。ただ本作に登場した、利権構造などで個人的に利益を得る超金持ち、まだミリオネア程度はわかるが特にビリオネア(10 億ドル)には、「そんなに金を得てどうするの?」という単純な疑問がある。

もちろん金がある方があらゆる点で恵まれるのは理解できる。上にも書いたが今仮に1兆円持っていれば寝てても1年間で10億円入る(ただし1兆円持っている人はこんなずさんな運用はしないと思うが)。それこそ資本主義本来の効能だ。欲も満たしやすいし長生きもできるだろう。

でも、それでも、個人で使える額には限度がある。金持ちになればなるほど、皮肉なことにお金の限界効用は逓減する。「過度な資本」は行き場を失し、特に目的はないがさらなる資本を得るためのタネ銭となるか、あるいは「無駄遣い」に消えてしまう。金が無ければ興味もないのに、金があるから自家用ジェット・大型クルーザー・一等地の大豪邸などに使ってしまう。アラブの石油王は”本当に”マンチェスター・シティが欲しかったのだろうか。もちろんこれはこれで消費活動であり経済に貢献しているのは間違いない。彼らが本来それらを求めて超金持ちになったのなら、否定できない。ただ、無駄遣いの自家用ジェットを一人が買うのと、フードスタンプを受給しているような低所得者に少しだけマシな食事を与える事の、どちらが幸せだろうか。

この”過度な”資本主義を抑制するアイデアとして、本作では一つのヒントがあった。「Shame on you」である。”過度な”資本を有する者は、潜在的に誰かを犠牲にした恥知らずとして、社会的に圧力をかけるというのだ。だがこれも間違っている。そうすると結局超金持ちは、鉄壁の防御を誇る金持ち集落に自らをエンクローズしてしまい、「Shame on you」を主張する連中を無視してしまうだろう。そもそも問題解決に対して、対立構造を助長するというのは正反対の方法だ。

自ら税率アップを提言したバフェットや、世界一の富豪マイクロソフトのビル・ゲイツは、ありあまる金の使い道が無くて、結局慈善活動家(フィランソロピスト)として消費する道を選んだ。これがまあ、現実的であり人間的な選択かもしれない。強い者こそ寛容であって欲しい。

ユニバG物語 ☆☆☆☆☆

原料バナバ100%の健康茶「ユニバG」を探し求めフィリピンのジャングルをさまよう、大神源太の話。

昔のファイル倉庫として使っている80GBの裸ハードディスクを整理していると見つけたので鑑賞。厳密に言うと映画ではなく販促ビデオだが、なぜか「映画」のフォルダに入っていたので映画だと思って見た。

ただ平常心でこんなの見れたもんではないので、夏の暑さを利用し敢えてエアコン停止・室内気温35度前後、雨上がりの湿度が高い、環境的に非常に不愉快な、それこそ東南アジアのような環境で鑑賞した。よって脳は基本的に思考停止状態であり、あるいはこういう状況の方が、詐欺に引っかかる人の心理状態を再現できるかもという淡い期待もあった。

知っている人は知っているが、大神源太氏はかつて「ジー・オー・グループ」という、俺ももう詳しくは覚えていないし、wikipedia等で調べる気もないので、適当な記述かもしれないが、ようするにマルチ商法的な錬金術で多数の人を勧誘し、後に詐欺罪で立件された?人である。ボディービルダーのようなプロテイン筋肉ボディに黒いシースルーのタンクトップ+迷彩ズボンというユニフォームが一部好事家の関心を集め、当時はマスコミ含めて大いに盛り上がった。

本作は恐らくジー・オー・グループ絶頂期(ちょうど自転車が上手いこと回り始めた頃ぐらいか)に作られた作品であり、ただの販促ビデオとは思えないほど予算がかかっている。ヘリコプターによる空撮の冒頭シーン(BGMはロッキーのテーマをギリギリ著作権侵害してないようなアレンジ)から、ジャングルの密林をさまようドキドキハラハラの展開、最後にはB級アクションではドルフ・ラングレンと双璧をなすほどの超ハリウッドビッグスター、ジャン・クロード・ヴァンダム閣下まで登場し(大神源太の親友らしい)、当時の熱気と潤沢な資金力の裏付けが感じられた。

でこのビデオだけで判断した場合、「フィリピンの貧しい人々にユニバG製造という仕事を与え、さらにユニバGでたくさんの人の健康状態が改善される。俺の夢の一つが国際貢献!」とぶちまける大神源太のメッセージはよく伝わる。詐欺師は詐欺師でおそらく自己暗示にかかっているようなものなので、彼の詐欺師としてのカリスマ性は大したものだ。

うーーん、暑い。もうこれぐらいでいいか。とにかくよかった。おわり。

女衒 ★★★☆☆

日露戦争の時代、香港で日本の対露スパイとなり、その後成り行きで東南アジアの女衒になった男の話(一応実話ベース)。

女衒という言葉は聞きなじみが無いが(NUMBER GIRLの「ZEGEN VS UNDERCOVER」という曲タイトルでしか見た記憶がない)、女郎斡旋業を意味するところから、売春防止法施行後の現代では使う機会が無いからだろう。今だとAV女優の所属事務所が類似する商売かもしれない。大抵のAV事務所のサイトには、「高収入」「アリバイ完備」「高級マンション寮」「安心」「楽しく」など、わかりやすい美辞麗句が並んでいる。AVを鑑賞する、主に男性はそれによって興奮を得られ性欲を満たし、出演するAV女優はそれら美辞麗句を享受できる。使い古された言葉で言うとWIN-WINの関係、理想的な職業ではないか・・・・。

ところが現実は異なる。美辞麗句で表面を覆うということは、そうせざるを得ない理由がある証でもある。その理由とはAVを見ると一発でわかるだろう。最近だと容姿のレベルもかなり高くなり、人気の単体女優はタレントやアイドルよりかわいい事も多い。そんな女性が不特定多数の人にセックスはもちろんフェラ・クンニ・オナニー・ごっくん・顔射・大量ぶっかけ・3P・二穴などを鑑賞される。日本の現行法ではなぜか肛門の映像使用はOK(たぶん医学的側面?)なのでボカシが入らず、綺麗な女性の菊座(この言葉結構良い)が映像として収められる。美辞麗句を享受する代わりに、これらの犠牲を払う、この点にどれくらいのAV女優が、好意的に同意しているのだろうか。

もちろんだからといってAV女優を卑下しているわけではない。俺自身AVを見た事がないかというと、山ほど見てるし、その点AV女優にお世話になっているわけで、彼女達がやっていることを否定できる分際ではない。結構、本音のところでたまげた女性達だなと思っている。ただ、例えば自分の家族や知り合いが「AV女優をやっている」となった場合、理屈では理解できても、気持ちの面で受け入れられるかとなると・・・・、今リアルに想像してみたが、完全に無理である。理屈と感情のギャップを埋めるのが、美辞麗句なわけだ。

本作でもその点を、女衒や女郎の存在意義・大義名分として用いている。明治時代、日本国民は総じて天皇陛下の御子であり、その天皇が統べる日本国発展のため、徒手空拳の女性達が自らの体を売って、家族に送金し、家族がその金で消費したり働いて税金を納める。さらに女郎街が賑わうと、それによって街も発展し日本の産業にも貢献できる。女郎は故郷の田舎で一生貧乏暮らしすることもなく、年季明け(借金完済)したら体一つで稼げる。理屈だけで見れば確かに筋は通っている。

だがこのような大言壮語は、実際に体を売る女郎達には全く響かない。感情の壁は乗り越えられない。このことを女衒達は「よ~く”言い含める”」と表現している。体を売るという事実は変えられないわけだから、せめて感情面だけでも、天皇陛下を引用し意義有ることのように見せかけて、説得しているのだ。

体は売っても心は売らない。これができたら理想的だ。女を買う男も、心まで求める場合はそうそうない。AVにしろ女郎にしろ、目当ては体や行為である。体と心の完全な分離を女性は割り切ってできるのだろうか。あるいはいわゆる”慣れ”の問題なのか。この点は男性には想像し難い。大勢の撮影クルーがいて、カメラのレンズが向けられる中、乳首の部分を丸く切り取られた競泳水着の股間をずらして(ちゃんとSPEEDO社のやつ。なぜか水泳帽は被っている)アンアンアンアン言っている異様な空間において、腰を曲げて大根を収穫しているばあちゃんの顔とか、さんま御殿を楽しげに見ているお母さんの顔とかよぎらないんだろうか。想像しただけでも身震いしてしまった。

この点、映画と離れていくつかの議論を見てみた。でも答えは出なかった。「AV女優のやってることは否定しない、でもそれが家族だと無理」この二面性はどう決着付けるべきか。散見された意見として「AV女優もその職業に誇りをもって立派にやってる。需要があるからやってる。」というのがあるが、そんな客観的な話じゃねえんだよな。そういう意見を持っている連中には「じゃあテメエのかあちゃんがAVやってたら、リアルに想像してお前どう思うよ?」と聞いてみたい。

で現時点の結論としては、自分の感情として解決はできていない。一方事実としてAVや性風俗は供給されている。この時俺自身の判断として、そういう類のものは利用しない、という選択肢がある。ただし性欲は人間すべからく持ち合わせており、たとえ俺一人が利用停止したところで、根本的な解決にはならない。供給の性欲弾力性はメチャクチャ小さいのだ。よって「感情の問題は黙殺!!!!!、大日本帝国統帥部ばりに黙殺!!!!!!、そして事実は供給の範囲内で活用させていただく」という、超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超独善的な結論に達した。こんなのこじつけであることは百も承知。AV女優さんごめん。そしてありがとう。

ストーリーは典型的なサクセスストーリーで、起承転結がそのまま栄枯盛衰になっているのでわかりやすく素直に楽しめた。残念なのがオチだ。「オチをどうするか困った」のがわかるほど酷いオチだった。

エレキの若大将 ★★★☆☆

エレキの若大将の話。

本作は加山雄三(若大将)を主役に、田中邦衛(青大将)を憎まれ敵として配したコメディ「若大将シリーズ」の一作である。通算では6作目とのこと。タイトルの通り、エレキギター/バンドをメインに描いた作品であり、その中で後にも加山雄三の代表曲となった「君といつまでも」がタイアップで何度か演奏される。シリーズの他の作品は「ハワイの・・・」「リオの・・・」など、当時は高嶺の花だったロケーションを前面に押し出したものが多いが、本作はずばり「エレキギター!」という、音楽を前面に押し出したのが特徴であろう。

制作には当時の時代情勢が影響していると思われる。ベンチャーズ・ビートルズの大ヒットにより突如日本で巻き起こったエレキブーム。関連する事柄を時系列でまとめてみた。

1960 ベンチャーズデビュー
1962 ベンチャーズ初来日/ビートルズデビュー
1965.01 ベンチャーズ来日→エレキブーム
1965.12 エレキの若大将公開
1966.06 ビートルズ来日

これでわかるのは、本作もまたエレキブームの一翼を担っていたということだ。それは本作で配役としてギターコンテストの司会役を演じた内田裕也が、約6ヶ月後のビートルズ来日公演でも前座・司会を務めている事からも察せられる。この「ベンチャーズのデンデケデケデケ→エレキの若大将→ビートルズ来日」という流れを知ると、当時の熱気も想像できてより楽しめる。ブームが起きて、それについての映画をスターの牽引力だけで、短期間に企画が通せるフットワークの軽さも、この時代ならではだろう。

ベンチャーズと言えば使用楽器はモズライトとなるわけだが、本作に登場するのは、恐らくこれもタイアップのテスコ(TEISCO)の機材だ。買えないモズライト(当時は1ドル=360円の固定レート)より買えるテスコ、ってところか。目視だがベースは確認できなかった。今や中古楽器屋・HARD OFFでさえ見ることは希なテスコのギターがメインで用いられているのも興味深い。やたらヘッドがでかくて、よくわからないスイッチがたくさん付いているテスコを今使うと結構目立つと思うが、それでも今やほぼ絶滅状態だ。

結局ヴィンテージとして残れていないのは、音に問題があるからの一点に尽きるだろう。ベンチャーズブームの影響からか、テスコのギターもかなりモズライトを意識した、サスティーンのあまり無い無骨な音だ。ただしモズライトが攻撃的なバキボキした音だとすると、テスコのはベコベコッて感じだ。「電気信号をそのまま出力しました」みたいな、良くも悪くも味付けのない出音である。この時代、実は家電の日立や松下電器(リゾネーターでないNationalギター)もギターを作っていたが、どれもテスコ的な、ベコベコな正直な音がする。

テスコは本作でも何本も登場するが、デザインは悪くないし、数寄者であればストライプのでかいマッチング・ヘッドに目を奪われるだろう。加山雄三が使用していたものはダン・エレクトロぽいし、他にも取っ手が付いていたり絵の具のパレットのような形のものがあったり、デザインの幅は広い。今でもビザ-ルギターとしての価値はあるかもしれない。ただ一般に、音の深みや伸び、ピックアップレベルでの加工も訴求される現代において、残るのは難しかった。

テスコのオリジナルと言ってもいいモズライトすら、現代ではマイナーブランドになっている。まあモズライトの場合、オリジナルのオーナーが死んだ後権利関係で色々あったようで、その辺も影響していると思うが、音が良ければ(時代に合っていれば)そんなのは関係ないので、やはり今の時代、ああいうバキボキ音は求められていないということなのかもしれない。またモズライトは前述のベンチャーズの印象がかなり強く、「モズライト=ベンチャーズ=おっさんのギター」というイメージがべったり付いてしまっているのもマイナス要因だ。

個人的にはあのバキボキ音はかなり好きだ。ただ、オリジナルメーカーがすでに存在しておらず、現在市場に流通している個体もいくつかのビルダーがあるようで(その中の一つが日本の黒雲製作所)、そんな状況で20数万出せるかとなると躊躇する。

映画とは完全に逸れたギターの話になってしまったが、ストーリーは有って無いようなものなのでどうでもいい。テスコのギターが色々見られると、若大将や寺内タケシの演奏が見られると、それだけでもいいんじゃないだろうか。中でもBlack Sand Beachは今聴いてもかっこいい。

Black Sand Beach


東京原発 ★★★☆☆

東京の中心部に原子力発電所を建設しようとする知事らの話。

震災から約一ヶ月が過ぎた。福島第一原子力発電所の事故は未だに収束のメドがまったく立っていない。メドどころか「収束に至るまでの道筋」すらも示されていない。この原因は初期段階の判断を間違って、現状原子炉を冷やすためまさに湯水の如く冷却水を注がねばならず、その汚水処理が当面の課題になっていることが大きい。今後数年は放射性物質が薄く広くまき散らされ、日本にいる限りは一定期間の摂取総量を低下させるために、日々風向・天候・水・食料品などに注意せざるを得なくなった。さらに最悪なことに高濃度汚染水を故意に海上投棄したことで、世界の見方は、日本人の国民性への賛辞→海洋汚染国家のbureaucracyへの批判へと論調が変わっている。

実際に確認したわけではないので確からしい事しか言えないわけだが、放射性物質が汚水として排出されたり大気中に拡散している状況から判断して、燃料プールの機能不全/圧力容器の損傷/格納容器の損傷/炉心溶融、いずれかまたは複合的に発生しているのはほぼ間違いない。さらに京大の小出教授によると再臨界の可能性もあるということで、大きな余震も多発しているし、本当に未来がどうなるかはまったくわからない。

また先日(20110412)ついに公式発表で事故の影響評価がレベル7に引き上げられた。チェルノブイリが「太く・短く」とすると福島は「薄く・長く」という違いはあるが、あのチェルノブイリに並んだわけだ。んーーー、改めて考えるともの凄い。今後数年、あるいはもっと、フクシマはチェルノブイリと同じように用いられる。今は無きDECOが昔面白半分に「チェルノブ」という面白いゲームを発売したが、「STALKER:Shadow of FUKUSHIMA」が出てもおかしくない状況になってしまった。

こんな状況下で映画なんか見てる場合じゃねえやと、実際ここ一ヶ月は一本も見ていないのである。震災後の状況や原発事故の映像は見ておきたいが、テレビはこんな大惨事でも相変わらずワイドショー的な取り扱いしかしないので、もう日本はいいやってことで、もっぱらCNN・WSJ・TIMEなんかでニュースを漁っている。

WSJは独自ソースに基づくニュースを提供しており、しかも日本版サイトがあるので見やすい。CNNは取材も独自に行っていて(東電の社員寮へのぶっ込みが一部で話題になった)、しかも映像ニュースを頻繁に更新しておりこちらもかなり使える。TIMEは一つ一つの記事がなんか知らんがすごい気合入ってて長いんだが、「海外メディアはこう見てる」というのがよくわかる。一応リンク貼っとくか。

WSJトピックス:東日本大震災 http://jp.wsj.com/Japan/node_196370
WSJトピックス:福島原発事故 http://jp.wsj.com/Japan/node_216000
CNN 2011 Japan Disaster http://topics.edition.cnn.com/topics/2011_japan_disaster
TIME The Japan Quake http://www.time.com/time/specials/packages/0,28757,2058716,00.html

わからない英単語は
スペースアルク http://www.alc.co.jp/index.html
黒猫の単語帳2nd http://www.vector.co.jp/soft/winnt/edu/se451231.html
黒猫の単語帳2ndは常駐してるとクリップボードの英語を自動抽出し、どっかの英語データベースから日本語訳を検索して自動表示するのでとても便利だ。

長い前置きからようやく本題に入るが、久々見る映画として数年前に見た「東京原発」をもう一度見て、改めて原発問題を整理してみたくなった。ここ一ヶ月のニワカ知識で、最初見たときより理解度は増しているのではなかろうかと。では以下感想。


結論から書くと、原子力、こと原発建設の是非の問題について一番重要なのは、「無関心では無いこと≒原発問題に関心を持ち続けること」である。

例えば今、まさに原発がリアルな(リアリティではなく)危機として認識されている・実感する今だと、渋谷のギャルでも原発問題について多少は考えていると思う。そりゃそうで、なんせ自分の問題であるわけだから(一番身近だと間接的ではあるが計画停電)、関心を持てない方が不自然だ。ただ人間てのは根本的に馬鹿で信用ならない生物であるから、仮にこのまま状況が、数年かかったとしても安定的に収束したとすると、人本来のアホさ全開で綺麗さっぱり、喉元過ぎると原発の事など忘れてしまう。雪印がメグミルクになると気にせず牛乳を飲んでしまうし、選挙が終わるとマニフェストなどどうでもよくなる。「いいじゃん、いいじゃん」で流してしまうのだ。

牛乳や選挙ぐらいならまあ、それでもいいだろう(個人的には嫌だが)。ただ原発に関しては「いいじゃん、いいじゃん」では済まないというのが、震災後の人災事故で身にしみて分かった。この「原発については無関心が悪」というのを最終的なテーマとして設定している本作は先見の明があるというか、制作陣が相当分かって作っている感じがする。つーか、今なぜこの映画が全く話題にならないのか不思議なんだがどうしてなんだろう。

でその「無関心でないこと」を持続させるために、本作で描かれた東京・新宿中央公園をぶっ潰して原発を誘致、発熱すら再利用する(コジェネ)という突飛な発想は、確かに良いかもしれない。今回の事故の経過を見るに、東京電力はなるべく人々の記憶に残らないように「東京の電力を福島や新潟の原発で作っている」ことにあまり言及せず、とりあえず目の前のクライシスコントロールや計画停電に注意を向けて目をそらさせている。

これまで我々は、原発は「なんとなく安全であり、CO2排出量の少ない、単位当たりコストも安い、化石燃料の無い日本にとっては望ましいリソースである」と信じ込まされ、無関心でいられた。震災後の事故が発生し、日本人にとってそれは「関心のあること」になると原発のヤバさが露呈している。

・なんとなく安全・一発の「想定外」の事故で世界規模の大惨事となる(現実として実証済)。

・構造上地震に耐えれたとしても、冷却システムが故障すると全く意味がない。

・そもそも地震多発の日本には不向き。

・使用済燃料の最終処理がよくわからん。地下に数万年格納?
・CO2排出量の少ないこれはたぶんその通り。今はガン無視されているが、いずれCO2排出規制絡みの問題は再燃するはず。
・単位当たりコストも安い・事故による補償の総額や社会的コストを含めるとバカ高い。

・もんじゅの大失敗で技術的未来も暗い。
・化石燃料の無い日本にとっては望ましいリソースであるこれもその通り。

要するに原発のメリット2点「CO2が少なくて化石燃料でない」ものがあればいいんだが、結局今の課題は「原発ヤバいから廃止するべきだが、じゃあ代替エネルギーはどうすんの」という事に集約される。

この点については本作でも最後の方に触れられている。とは言えいわゆる「クリーンエネルギー」の高効率化を目指そうという希望的観測に止まり、そういう意味では今の認識とさほど変わらない。

でも実際それしか無いと思う。電気というものが有効利用され始めてから約200年、原子力が利用されてからも70年ぐらいしか経っていない。たった200年なんだから、まだまだ大きな変革はいくつもあるはずで、そういう過渡期に「万一事故ったら数十年立入禁止」「プルトニウム24000年」みたいな激ヤバいシステムは使うべきではない。今はまだしょぼい太陽光・風力・地熱の効率を上げるよう、技術革新を模索するしか突破口は無い。それこそ、本作でも図で示されたが、エネルギー研究開発費の大半を占める原発研究予算を、それらクリーンエネルギー開発・導入のインセンティブとして振り替えればいいんじゃなかろうか。システムそのものは既に存在するわけだし、需要が増せば単位コストも低下するはずだ。


ヒゲのおっさんが解説に使った図を映画から引用

・・・・うーん。どう見ても映画の感想ではないな。でも今だからこそ、原発に関するニワカ知識が蓄積されて吸収力も高まっている今だからこそ、この作品は多くの人に見て欲しい。ちなみに最初に見た感想にも書いたが、原発についての解説以外の、ストーリー的な部分に関しては本当にクソなので飛ばして良いと思います。「言いたいことだけ表現できればストーリーなんぞどうでもいい」という開き直りにも思えるほど陳腐なので、逆に潔い。



S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl
steamではたまに4.99ドルで売ってます。

地獄 ★★★☆☆

兄妹関係で生まれた子供が、死んだ母親にかわって復讐する話。

こういうストロングスタイルなB級映画を、東映制作のメジャー資本でやれてたから、1970-1980年代の日本映画は後の現代にも”映画作品”として残るような、多様な作品ラインナップだったのだろう。現代の日本メジャー映画には「作ってみた結果、諸般の事情でB級になっちゃいました」みたいな大作映画は山ほどあるが、こういう狙ったB級で面白い作品は昔ほどなくなった。最近だと意図が達成されたのは「ヤッターマン」ぐらいか。それぐらい今のメジャーB級は本当に面白くなく酷い作品が多い。「丹波哲郎の大霊界」シリーズ3作また見たいなあ。絶賛絶版中。

というわけで、とってもくだらない事を名優が大集結して真面目に演じているわけだが、内容が本当にくだらないので、その分役者一人一人の演技がギャップで映える。「岸田今日子の無駄遣い」「金子信雄の無駄遣い」である。またこういう作品には、石橋蓮司や田中邦衛の雑な感じがとってもよく似合う。暗く陰湿なストーリーの割りにノリがめちゃんこライトで、バカバカしく、見ているこっちもそういう自分を客観視して尚のこと可笑しくなってくる。良いB級の良さは、「馬鹿な映画を見ている自分が馬鹿に思えてくる」というメタ的な面白さが付加されるところだ。

良いB級はまずストーリーの起伏に富まなければならない。陰湿はわかった、でも陰湿なまま一定の低温でストーリーが進行すると、「単なるつまらない」作品になってしまう。ストーリーそのものがつまらないのはB級以前に面白くない作品だ。B級はB級で中々難しいもので、良質なコントと同じように「馬鹿なことを大まじめにやる」のがとても重要である。最近の日本メジャーB級ではこの点を大いにはき違えていて、「おちゃらけて大騒ぎすればいいんだろ」ぐらいのノリでまさに”B級テイスト”でやっちゃうもんだから始末が悪い。

「んなアホな」「そんなわけねえだろ」と一々つっこむのも憚れるほどの潔いクソぶりが実にお見事な作品だった。今作ってもどうせ地獄のシーンはCGでやっつけるんだろうなあ。いやこの根性お見事。あっぱれ。今後もどんなに時間の浪費であろうと、こういうB級を難なく見れるぐらいの精神的余裕はキープしておきたい。そういう意味では、今の自分の精神状態は如何様か知るのに、レファレンス的に用いても良いかもしれない。

主題歌は山崎ハコの「きょうだい心中」。

フリーダム・ライターズ ★★★★☆

複数の人種が混在し互いに対立状態のクラスを担当した新米女教師の話。

ハリウッド映画は大小なりとも”アメリカ”そのものを全世界に印象づける、コマーシャル的要素も含まれているだろうから、映画冒頭で描かれたまさに戦争状態の町はあまりに生々しく衝撃を受けた。制作年は前後するが、同じようにリアリティを意識したイーストウッドの「グラン・トリノ」でさえ、本作を観ると「ああ多少はソフトに描かれてるんだな」と思えてくる。本作で描かれたロングビーチの状況は、実話ベースであることや、描写の温度の親近感から考えても、かなり実際の状況に近いのではないかと思われる。正直な感想だが、冒頭を見てこれが日常ならアメリカには行きたくないと思った。

島国・単一民族の日本人が、日本でリアルに人種差別を感じるのは困難だ。これは他の差別、例えば障害者や能力の優劣・単なるいじめなどと置き換えるのは困難な種類の差別である。なんせその根底にあるのは、単純に言うと「顔の色や髪質が違うから」敵であり、「近いから」味方であるというものだからだ。理由は明確だが決して解消される事はなく、実際には無いのと同じだ。

アメリカは人種のるつぼ・多民族国家で、先住民族(ネイティヴ・アメリカン)を駆逐した白人(ホワイト)・奴隷の子孫である黒人(アフリカン)・南米から移って来たラテン系(ヒスパニック)・アジアからの移民であるアジア系(チャイナ・アジア)が混在している。この分類もかなり大雑把なもので、例えば同じホワイトでもアングロサクソン・ゲルマン/ケルト/スラヴ/ユダヤなどルーツによって別れるし、多人種混血もいる。この分類こそが言わばアメリカ建国以来の闘争の歴史であり、その歴史は今もなお、子供のけんか(と言うには死人が出たり規模が凄いが)にまで落とし込められているというわけだ。

だから映画を観ていくうちに段々と理解できたことは、本作が描いた子供達は不良のおちこぼれでは無いという点である。もちろんグレードの低いクラスの話なので、勉強は出来ない子ばかりだが、それも人種に由来する家庭環境の悪さで、単に適切な教育を受けていないから現状出来ないだけだ。外面は悪そうに見えても教育に対する好奇心は、初めてに近く学ぶことの面白さを知ったため旺盛であり、よって吸収も早い。なにしろ素直である。ここらへんが所謂「不良」とは違う。彼らは彼らのポジションを保つため、訳の分からない敵と、訳も分からず闘っているだけであり、「そうするのが正しい」と教育されたので否応なく闘わざるを得ないのである。

従って、本作からは「不良が更正して立派になりました」系の熱血青春映画のような薄っぺらい印象ではなく、もっと根深い、アメリカが抱える社会問題も含めた描写が根底にあるので、ドラマとして非常に重厚である。であるからこそ、通り一遍の恋人とのフィクション的描写パートが異様に軽く、ハッキリ言って邪魔で箸休めにもならない。いやもちろん実話ベースだから実際ミスGがあまりに教育熱心で夫が愛想を尽かして離婚したのかもしれないが、正直映画のメインテーマとはなんも関係がないし、この恋人との離別の件だけ本当に不要だった。

人種間の対立を解消させる手段として、ミスGはユダヤのホロコーストを生徒に教えることから始めた。そもそも「ホロコースト」という言葉を知っているのが白人の子一人だけというのも、あのシーンだけでも教育の重要性を痛感させられる。知らなければ何にも始まらない。知らなければ分からないし、理解もできない。これは本作のテーマと共通する。

今日本でも適切な教育を受けていない(ただし日本の場合人種的要因ではもちろんなく、単に本人の資質による部分が大きい)子供達の中に、WWIIはもちろん原爆が広島・長崎に落とされた事を知らない子もいるという。教育も、高度になればなるほど当然専門的になり、知識の前提は増えて、より狭小化していく。これはこれで必要だが、その前に「知ってて当然」をまさにその状態にする教育、この大切さを感じさせられた作品だった。

選挙 ★★★★☆

2005年、川崎市議会議員補欠選挙に公募の落下傘候補として”自民党公認”で出馬した、山内和彦さんの話。

2010年現在、山内さんは川崎市議会の議員名簿に載っていなかったので、恐らく映画内で言っていた2007年の改選までで、市議会議員としての務めを全うされたのだろう。映画を見終わって、果たしてこの人はまだ政治家をやっているのかどうか、そこが一番気になったのですぐに確認した。いや、ある意味貴重な体験が出来て良かったですね。本作は一切演出のない素のドキュメンタリーであるから、選挙運動中に垣間見える山内さんの性格から考えると、はっきり言って政治家には向いていなかった。

驚くべきなのは、政治家としての資質や適性が無い人でも、「自民党公認」が付くと当選できてしまうという事だ。これがどういう意味かは本作を見るとよくわかるが、選挙を戦うにあたっての物的・人的リソース、作戦の展開、その他必要な要素は、すべてあらかじめフォーマット化されていて、その通りにやると実際当選できてしまう。山内さん自身の活動自体はペラペラである。日本の選挙戦ではおなじみの選挙カー・街頭握手・老人への媚び売りを使って、「小泉自民党の公認候補、や・ま・う・ち、和彦です!」この言葉を呪文のように連呼する。こういう時に「よろしくお願いします」は日本的最強の言葉だ。

正直誰でもできるし、誰でもいいんだろう。山内さんの場合は東大卒というイチゴが乗っていたから尚更良い。政治家個人としてのマニフェストや、市議としてやりたい具体的な法律や行政への提案内容は、選挙そのものとは全く関係ない。カーネル・サンダースへの握手はギャグというか、自分に向けられたメタな皮肉に感じられた。

つまり山内さんは自民党公認としての御輿であって、本作でも何度も念を押されていたが、その組織力をフルに動員して当選させてもらったに過ぎない。当時絶大な人気を誇った小泉首相が応援演説に来ても、外様の彼は選挙カーの櫓の上で並び立つことすら許されないのである。これが、ずーっと感じていた違和感の理由だと思う。山内さん個人の活動を見るだけでは、どう考えても有権者約20,000人の得票と結びついたとは思えない。組織力恐るべしである。御輿が御輿を担ぐのはとても滑稽だったが、他にもラジオ体操やゆる~い下ネタを絡めた馬鹿話など、政治とは無関係の、違和感有りまくりの選挙戦こそが、結果的に得票に繋がるのは恐ろしい。だからこそ造反議員に対する厳しい言葉は、本作で選挙戦の実態を見ると納得できる。

そういう意味ではこれは民主主義の限界を示唆している。最初の方に出てきた、酒屋のおばさんが「水路の改修をして欲しい」という願い(市議会議員に訴えるものとしてこれほど適当なものはない)を反映させる手段としての一票と、「公認だから」の思考停止での一票が、同じであるのは民主主義の限界だ。意味ある10,000票が、思考停止の組織票20,000票に負けてしまうのだ。これは日本ムラ社会による民主主義の換骨奪胎だけではないと思う。アメリカでもNRAやAIPACのようなロビー団体が選挙に大きな影響力を誇示している。

本作の山内さんの場合はあくまで例外として、一般的な候補者は、自発的に立候補するぐらいだから政治を通じてやりたいことはいくつかあるだろう。それを実行できるようになるためには、まず「選挙で勝たなければならない」のである。政治と選挙がまったく別物である事が、民主主義の最大の問題点だろう。俺は選挙カーが使われる限り、日本の民主主義には参加しない事にしているのだが、騒音以外の何者でもない選挙カーも一連の「選挙セット」の一つであり、ずーっと変更がなされないのだ。

そもそも日本に民主主義はあっただろうか。戦前は納税額による制限選挙だったので、一般市民の民意が反映されていたとは言い難い。戦後はGHQの管理下以降、しばらく間を開けて例の自民党55年体制に突入し、バブル崩壊で経済がポシャるまで続いた。こうして見ると日本は長いこと政府と官僚主導の利益誘導型政治を行ってきたのだとわかる。バブル後の今は、変化の過程における混迷期と位置づけても良いかも知れない。

今の時点で根付いてないなら、いっそもう民主主義とか止めちまえばいいのではないかとさえ思えてくる。代替手段はわからないが、当面はその道を究めた学者さん連中の合議制とかにして、違った視点も必要という意味で異色の人材を少し入れて、民主主義は今の参議院のように、補完的役割でいいんじゃねえかと。今は学者のゴールは大学教授だろうが、そのまた上にゴールを設けることで、結果的に教授のポストも空いて研究者の活性化にも繋がる。

優れた政治家もたくさんいる事はもちろんわかっている。一方で民主主義だからこそ成立している無意味な政治家も大勢いる。選挙の都度扇動家やメディアに乗せられて世論を形成するバカな連中が選んだ人間が、バカの代表であるのは至極当然である。今の日本における政治の迷走も、その一番の原因はなんであろう、その都度メディアに乗せられて現体制を批判している民衆(=民主主義)そのものなのだから。

アメリカン・ハードコア ★★★☆☆

1980年代初期、アメリカ各地でわき起こったハードコア・ムーブメントについての話。

最近再燃してきたパンク・ハードコア熱の流れで見始めたパンク系映画。前見た「PUNKS NOT DEAD」はパンク全般についての、比較的長い時代を薄めて扱っていたが、本作は80年代アメリカハードコアシーンに絞られている。FUGAZI・Youth Of Today・Discharge・Chaos UK・CRASSなど、ハードコア全体で見ると重要なバンドについても、時代や地域が違うため少しも言及していない。つまり本作は、あの時代の熱さというか、時代がもたらした衝動を描く事がメインテーマとなっている。

冒頭5分で紹介される時代背景は、アメリカン・ハードコアの精神面をよく表している。レーガン政権下のネオリベ政策は、ハードコアを志向するようなマイノリティ側の人間にとって抑圧的だったのだろう。横分け、カーディガン、ファッションショー、紹介されるアイテムがことごとく「彼ら」を象徴していて、まあなんつうか、宗教的ではあるが素直に共感してしまう。キース・モリスが語ったように「勉強して良い大学入って良い会社入って良い給料貰って、結婚して二人の子供・郊外の住宅・ペット・車に車庫・・・・、人生そんなもんじゃねえんだよ(that’s not just the way it is.)」とはもうまさに、ハードコアの神髄を表しているし、誰にも分かる表現だ。

中心となるのは、この手のドキュメンタリー映画には珍しくLIVE映像である。インタビューらしいインタビューも特になく、かつての80sハードコアバンドのメンバーが、場面ごとにちょっとずつ当時のことを(思い出話のように)話すだけで、映画作品として流れを作るような意図はない。そういう意味では本作も「PUNKS NOT DEAD」と同じように、映画としてはあまり優れた出来ではないし、また興味がない人が見るようには作られていない。各バンドの説明も一切無し。見ていくと、Black FlagとBad Brainsがシーンで重要な存在だった事はわかるが、その他はthe othersとしてまとめて、LIVE映像中心に扱われる。

これは意図的にそうしたと見るべきか、映画を作るうちにそうした方が良いと感じたのか、作者の真意はわからない。が、結果的にかなりの数の、よほどのマニアでなければ名前も聞いたことも無いようなバンドを知り、また彼らが一番熱かった頃のLIVE映像を見ることで、その中のどれかに興味を持つ人がいるかもしれない。俺の場合半分ぐらいはバンド名を聞いたことがあって、大半のLIVE映像は初めて見たが、見ていくうちにやっぱ心躍るというか、かつて自分にもあった・また未だに存在するハードコア/パンク魂が燃えるように感じられた。

音楽的にどれも似ているのは否めない。それぞれに個性があるとも、正直思えない。単純にパワーコードを3つぐらいかき鳴らすだけなので曲の面白味も薄い。一応プレイヤーとしては、この早さでコードを次々かき鳴らすのは意外に大変である(疲れる)。それをやれるのもあの時代、また10代を中心としたエネルギッシュなプレイあってこそだろう。

意外だったのがMinor Threatの扱いだ。後追いで知った限りでは、当時やりたい放題に暴れていたシーンに、「ストレート・エッジ」という禁欲的なDIY精神を導入し、「ハードコア」の概念そのものを確固たるものにした、先に挙げたBlack FlagやBad Brainsと同等、またはハードコアを象徴するバンドかと思いきや、本作ではthe othersの一つとして扱われるにすぎなかった。確かに、Minor Threatは後乗り組であり、言わばコロンブス的な存在であるBlack FlagやBad Brainsはパイオニアとしての存在感があるので、当時はその程度だったのかもしれない。マッケイ本人も「もっと評価されていい。音楽的にもチャレンジしている。」と語っていたが、やはりthe othersとして扱うにはあまりにもったいない。

あとあれだ、1シーンだけだったが、なぜかガンズのダフ・ローズ・マッケイガンがインタビューに登場した。他の連中はなんか薄汚れていて、だらしない感じだったが(=ハードコア的正装)、ダフだけはびっちり格好良く決めていて、明らかに他とは違うオーラが出ていた。これもマイナーとメジャーの違いか。

映画では「音楽的単調さもあり、3年程度で飽きられ、その後は皮肉にも正反対である商業ロック、ハードロックやヘヴィメタルに侵食された」という流れで終幕したが、やっぱどう考えてもそんなことはなく、ハードコアの萌芽はその後に受け継がれ、FUGAZIに代表されるポスト・ハードコアだけではなく、Sonic YouthやNIRVANAなどのグランジ・オルタナシーンに至る流れにも影響は大きい。やっぱ映画的にはあんまりいい作品ではない。ハードコアの息吹を感じたい、色んなハードコアバンドのLIVE映像を見たい人におすすめだ。

最後にアメリカン・ハードコアバンドをいくつか

Black Flag – Rise Above

Bad Brains – Pay To Cum

Minor Threat – Straight Edge

Minutemen – Corona

2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ 終了

スペイン優勝

ぼーっと見て良かった。結果的にワールドカップを楽しめたのだからこの見方は正解だった。どんなに素晴らしい能力を有したプレイヤーであっても、1ヶ月かそこらで作られた即席チーム同士の試合では本来の実力は発揮されない。サッカーはチームスポーツであり、チームとして機能して初めて、個の能力が発揮される余地が生まれる。数々のスタープレイヤーが窮して単騎で突撃して散る様を何度見たか。数年かけて熟成された100点満点近いチームにおいて、メッシやロナウドのような100点前後のプレイヤーは機能する。80点の代表チームでは、チームそのものがボトルネックとなってしまう。

だがそれこそがワールドカップ・代表チームの見方だと、今回のぼーっと見たワールドカップを通して感じるようになっていった。100点満点同士のタイトさとはまた違った、80点同士のブレや遊び幅が、サッカー的な番狂わせを生み出す。もちろんそこに魅力が生じるようになったら元も子もなく、あまり望ましくない状況だが、短期集中トーナメントではまた一つの魅力のように感じられたのが正直なところだ。

そんな中でチームとして機能し、その上で個の能力が発揮されたスペイン・ドイツ・ウルグアイあたりが最後まで残ったのは順当な結果だと言える。スペインはアラゴネスがEUROで作り上げたチームをデルボスケが引き継ぎ、またカプデビラ・トーレスを除く先発固定メンバーがバルサとレアル。ドイツは前回のクリンスマンのチームの実質的コーチであったヨアヒム・ルーフがそのまま4年かけてチームを熟成させていた。ウルグアイは南米という事情柄、元々守備(=組織力)の実力は高く、今回たまたまそれにフォルラン・スアレス・カバーニのような優れたフォワードがいただけだ。

逆にフランスは個が大勢いてもチームとして機能できなかったし、イタリアには個がいなかった。アフリカは、地元の利を自らブブゼラの騒音でフラットにした。あの楽器はまさしく騒音で、果たして応援したいのかブーイングなのかわかりずらい。まあJリーグ初期に「オーレーオレオレオレー」つってラッパ吹いてた日本人に言われたくないだろうが。

また希有な個はいないが、チームとして機能したスロバキア・日本・韓国・アメリカ・チリ・パラグアイが大会の帰趨を大きく左右した。グループリーグ、スロバキア・アメリカは劇的な方法によって、また日本・韓国・チリ・パラグアイはチーム力の結実としてそれぞれRound16に進出した。中でもスロバキア – イタリアは、イタリアの凋落ぶりを見事に示した、しょっぱい試合だらけのグループリーグの中でもワールドカップらしいブレ幅の大きい白熱した試合だった。

これは決勝仕様の”ジョブラニ

しょっぱい原因は何か。ジャブラニ。確かに本田やフォルランが蹴った、野球のナックルボールのようなフリーキックを生み出し、流れの中のシュートでもキーパーの逆を付いたりして(日本的にはオランダ戦の決勝点)、そういう意味では当初の狙いも一部達成されている。だがほとんどのシーンではボールの扱いづらさに多くのプレイヤーが難儀し、見る側にとっても可能性ゼロのシュート・クロス・フリーキックが目立って興が削がれ、結果的にはボールの”改良”が裏目に出てしまった。

急造スタジアム。今大会がおそらく全試合HD画質で放送された初の大会だと思うが、SDと大きく違うのは選手の顔がよく見えるではなく、芝目が結構よく見えることだ。会場名を把握して試合を見なかったのでどこがどれほどとは言えないが、とにかくグラウンドは全体的にボコボコ、試合後は穴ぼこだらけというのが印象に残った。

負けない意識。優勝候補チームのプレイヤーが、リーグ戦の疲労を残したままワールドカップに突入したため、「グループリーグを利用しながら調子を上げていく」というイタリア伝統みたいな方法を採らざるをえず、それでも勝ち点は積み上げねばならないので「先制点を奪われないこと」を最優先していた。それが結果的に調子の上がらなかったチーム、そもそも実力がなかったチームを生み出し、各試合かなりばらつきが生じた。優勝したスペインも初戦スイスに負けている。それも攻めて攻めて点が取れず、スイスの一つのカウンターで敗れるという典型的な方法で。地上波では放送されなかったようだが、全64試合の中でも、負けない意識の薄い三決・ドイツ – ウルグアイが試合としては一番面白かったという皮肉。勝つ意識を持てれば攻撃的な試合をできるチームなのに、負けない意識が作用してしょっぱくなってしまった。

決勝トーナメントに入ってからは、調子も上がり面白い試合が多かった。全て好ゲーム。それぞれに、サッカーがもつ様々な魅力を感じられた。中でもオランダ – ブラジルは、リスク管理や試合マネジメントという側面において、何度見ても面白いと思う。最高の出来だった前半のブラジルが、ハーフタイムでオランダをなめて、対するオランダは決死の覚悟をもって後半突入、アクシデンタルな失点~うやむやの決勝点~メロの退場、つまらないブラジルを選んだドゥンガの哲学が崩壊する瞬間。その顔。ダサいファッション。よく言う「流れ」の重要性や、結局サッカーはメンタルスポーツであることが、実証された試合だった。

そうしてサッカー的な勝利で決勝まで進んだオランダと、優勝候補が順当に調子を上げて、今大会ベストチームのドイツすらも退けて進んだスペインのファイナルでは、パススピードとトラップの正確さで両チームのレベルの高さはよくわかった。結果スペインが優勝したが、この試合もオランダのゲームマネジメントが展開を左右した。

個々のタレントを見ると、攻撃側ではオランダもスペインも、方法は違うが遜色ない。対して守備(組織)側では明らかにスペインに分がある。バルサの2センターと世界最高のGKカシージャス。中盤はバルサのトリデンテにXアロンソの展開力。対してオランダはどっかの馬の骨的センターとGK、中盤は世界最高のスナイデルに壊し屋二人。五分の勝負をしては勝ち目がないと判断したオランダが、ラフプレイを連発して試合を壊した。いつものパス回しが悪質なファウルで潰されリズムが生まれないスペインに対し、オランダの速攻は効果的だった。

だが結果的には、この作戦がオランダに不利に作用したかもしれない。それも含めての賭けだったかもしれないが。イエローカードの判定はほぼ順当に感じた。オランダは主審とも駆け引きをしていた。中には一発レッドでおかしくないファウルが、ワールドカップファイナルという性質上、イエローに止まったものもある。90分終了時のカード数はオランダ6・スペイン3。延長では合計5枚出た。その中で延長後半にハイティンガが累積退場。ファイナルの主審を務めたのはハワード・ウェブのイングランドセット。4thに日本の西村さん。プレミアリーグを見る人はよく知っているが、ハワード・ウェブははっきり言ってザルだ。終了間際の重要な場面で、ザルっぷりを存分に発揮した。だが大会を通じてよくわかるように、それもサッカーである。

ランパード幻のゴール

テベスのオフサイド

審判の誤審問題も色々出たなあそういえば。ランパードのシュートやテベスのオフサイドで大騒ぎしたのもなんか懐かしい。いやそういう問題じゃない。ランパードの幻のゴールについては後日談というか、過去の因縁話があったりして、本当に面白い。1966イングランド大会ファイナルでの疑惑のゴールが、44年後に解消されるとは、なんてドラマチックなんだ。そういう文脈で理解もできるが、これまたそういう問題じゃない。

判定に機械を導入するかの是非は昔からあって、FIFAもアンダーの大会でボールにチップを埋めたりゴールラインに専用の審判を配置したりして実験した結果、「現時点では必要なし」と判断している。詳しい経緯は知らないが、個人的にはサッカーのオリジナルから考えて、必要であれば機械の導入も審判増加も積極的に行うべきだと思う。つまり本来サッカーに審判はいなかった。オフサイドもなかった。選手交代も出来ず、骨折したままプレイした人もいたらしい。またむしろ審判がいない方が、互いに気をつけていたのでファウルも少なかったという話もある。

ルールの整備を行ううちに、これら追加ルールが設けられたわけで、であれば金科玉条ではなく不都合であれば柔軟に変更するべきだ。前述した二例の場合、ランパードのゴール見逃しについては、ゴールラインという定点観測なので、むしろ機械で厳密にやった方が絶対に良い。具体的にはゴールラインを完全に割った時点で主審に信号が届くとか。なんならGPSでミクロ単位でゴールラインを捕捉してもいいだろう。ただテベスのオフサイドは現状機械では難しい気がする。今のルールでは「ボールに積極的に関与したかどうか」がオフサイドの判定基準なので、その曖昧さを機械で判断するのは困難だし、ゴールラインとは違ってオフサイドラインは絶えず上下動するため捕捉が難しい。

まあー、、、ざっとこんな感じかな。最初に書いたが全然期待してなかったのもあってか、終わってみればかなり面白い大会だった。この感じは試合のクオリティだけでなく、その周辺も併せてのものだと思う。以下気になった点を挙げてみよう。

・今大会のスカパー
富樫洋一さんに捧げる番組

スカパーで見るのは2002年から3回目だが、それぞれに(地上波と比べると金銭的しょぼさは感じられるが)周辺の内容が充実していた。2002年のジャーナル、2006年のデータスタジオ、そして2010年のジャンルカなうと、誰もが楽しめるサッカー番組を提供してくれた。

長くなりそうなので以下列挙 =特にインプレッシブ

マラドーナ
初戦の勝利後会見でりんご喰ってたマラドーナ

-ゲイではありませんよ。ベロニカです。金髪です。
-マンクーソ・エンリケとのトリオ
-十字7回
-サムエルにウザがられる
-どう見ても酔っぱらい

オシムじいちゃん
日本敗退決定直後のオシムじいちゃん。スーツとネクタイは日本仕様

-・・・Fu
-エゴイストがいる
-私も戦っていましたよ。世界が終わったわけではありません。
-バルカンシンドローム
-オシムTwitter
ハニュウか?
-オスシ
-野々村の切り込み

・Ke-Nako-
・ブブゼラうるさい
・ジャブラニクソすぎ
・ワールドカップ史上最悪の誤審 → 1966年ハーストの因縁
・パッカくん
・桃色ハピニャス
素人目線っちゃあ素人目線
・amie VS ミック・ジャガー
・タコのパウルくん
・子供店長とかいう糞餓鬼
・エグザイルの歌覚えたくない
・アンビシャス覚えたくない
・見せてくれ内田 ←見れない
・アクエリアスの一人勝ち
・HDのダンディ
・サムエルのブロック
・チョンテセ号泣
・本田ドヤ顔
・ドメネク死亡
・イタリア死亡
・バティ盗難
・オリベイラのガン見
・青いセーター
・娘のコーディネイト
ドイツの変化
・ハムシクだけパンク
・ドノヴァンかっこよすぎ

マンUにいた頃がなつかしいフォルラン
・邪悪なお兄さんフォルラン
・フォルランの漢気
大会前に注目していた平畠はさすが。乗っかり芸能人とは違う。
スアレスのレシーブ
・ギャンのPK
・ギャンとザクミ
・ごっつぁんパレルモ
・テリー鮪
・ロッベンがさらにじいちゃんになっている
・アメリカ国歌斉唱の肩組み
・グリーンやっちゃった
・松井もっと良いチームに移籍して欲しい
・日本についてはきちんとトレースしていた連中が分析・評価するだろう
・マイコンみたいなサイドバックがいると超楽
メッシ/ルーニー/トーレス がノーゴール

最後に俺的大会ベストメンバー

フォーメーション:4-3-3
          FWフォルラン
          (ギャン・アルティドール

 FWビジャ             FWロッベン(ミュラー・イニエスタ)
                            

 
MFエジルドノヴァン        MFスナイデル(チャビ)
      
MFシュバインシュタイガー((Xアロンソ)
             
 
DFフシレ(ラーム)                DFマイコン(ラーム)
         DFプジョル  DFルシオ
                    ←←←テリー
        
GKカシージャス(ノイアー)
        スアレス
監督:マラドーナ

フォーメーションは今大会を象徴する4-3-3。このシステムは近年バルセロナやインテルで採用されたトレンドが、代表にも反映されている。伝統的なオランダ型4-3-3との一番の違いは両ワイド。典型的ウインガーではなく、中に切り込んでシュートを撃つフォワードやセカンドトップが配置される。

中盤の3人は流動的で、高い運動量と確かな技術を求められる、このフォーメーションでは一番難しいポジションだ。3人とも10番と5番の役割を兼務し、前の3人とも連動して攻撃する。最近では試合後にどれくらいの距離を走ったかのデータが出るが、大抵この3人が12km前後走っている。

守備の4人は役割としては4-4-2と同じだが、ここも中盤と連動するのでラインは高くなりがちだ。よってセンターの2人は足が速い。

ゴールキーパーも守備ラインと連動するので、捕球だけでなく足元が上手くないと使えない。ボールが軽量化したおかげで、キーパーからのロングキックやロングスローが重要な攻撃の起点となっている。

各プレイヤーそれぞれについても触れたいが長くなるのでこれで終わり。


現時点での結論:
ワールドカップは始まってから急に見るととても面白い