ALWAYS 三丁目の夕日 ☆☆☆☆☆

昭和33年頃の東京の話。
本作が2006年の日本アカデミー賞でアホほど受賞し、相当な評価を受けた作品であることは知っていた。また原作の方は高校時代オリジナルを購読していた時、その当時なんやったかな、「龍」「MONSTER」「浮浪雲」「玄人のひとりごと」あたりを読むついでに読んでいたので、あの独特な絵柄で戦後初期を描いた作品であることは知っていた。だから今更なぜ、こんなどストレートなノスタルジック話が評価されるのだろうかと、見る前はその点非常に興味深かった。映画なりの表現方法で、印象深いシーンでもあるのだろうと。
まず冒頭の集団就職シーンからなんだな引っかかりは。(恐らく)東北地方のど田舎から上野にやって来た女学生が、あんな堀北真希のように薄化粧をしたかわいい美少女なわけ、ないだろうが。この時点で「あーこれ系か」と見るモチベーションが相当低下した。仮にあの少女が(最後まで関わる重要な役だが)、ええーーーと今なら誰かな、、、要するにドブス、例えば森三中の村上だったら(年齢的に問題あるな)俺はこの映画のツカミとして相当モチベーションが高まっただろう。「お~エグい!リアルだな~。」とね。
うん、俺にとって情報でしか知らない昭和33年というものはこんなものではないんだ。確かにこういう面もあったろう。物質的に豊かでないがために、豊かさを求めて前進していただろうし、物質が家にやって来た時の情熱はすごかっただろうし(俺の父親も町で一番にテレビが来た家だったらしく、その話はよくする。それぐらい衝撃的だったのだろう。)、近所付き合いも頻繁だったかもしれない。だがもちろんこの理想郷には裏がある。例えば夏はエアコンがないので死ぬ。日本は下水道の整備が遅々として進まなかったので、水洗便所の普及も遅く、家々の夏のトイレは絶対地獄だったはず。さらにボットンだと誤って落ちたりもしただろう。確かに近所付き合いは頻繁だが、その分関係を失った「村八分」状態も存在する。家での会話に近所の人々のうわさ話が入ってくる。現代でも、保守的など田舎の街で生活してみるとわかるはずだ。こんなもんの、どこがいいんだろうか。物質的に豊かになった結果、「物質的豊かさ」を渇望していた時代が良く見えるなんて皮肉な話じゃないか。俺はある程度物質的に豊かな現代を受け入れるし、近所と付き合わなくても問題なく生活できる現代社会ってのは、素晴らしいことだと感じる。要は、コミュニティへの参加を決めるのも自分次第ってことだから。
ストーリーを見てみると、各々のトピックも今やモジュール化されて最早コントの前フリ設定でしか使われないような、見ていてこっ恥ずかしくなるような猿芝居の連続。これが支持されたんだから世の中すげえな。よっぽど70年代の石立鉄男系ホームドラマ、「パパと呼ばないで」や「雑居時代」の方が感情移入できる。試しにこれ、月9とかで当時のをデジタル利マスターして再放送すると意外といけんじゃねえのか。
それになー、これが評価されんのであれば、じゃあ数年前にこういう事象(大人がノスタルジックにやられてしまう)を描いた「オトナ帝国」はもっと評価されていいよ。つーか、これで感動した人には「オトナ帝国」も見て欲しいね。それこそ入れ食い状態で感動するだろう。
見終わった率直な感想としては、これが賞として評価され、また見に行った多くの人々から「感動した」「懐かしかった」などの好評価を得ていると、見るに付け、ああ俺やっぱ、これはもう間違いなく、完っっっっっ全なる事実として、マイノリティ側の人間なのだなあと、これはかつて「ゴーストワールド」などのマイノリティ共感映画でも思い知らされた事を、マジョリティ共感映画で反面的に知らされるという手の込んだやり口で、思い知らされたのだった。その昔思春期頃は、この常にマイノリティ側に居てしまうという性格を、なんだかアウトローな感じでクールであると、そういう美意識は格好良いと感じて、ある意味マジョリティにすんなり身を委ねられる人々を蔑視していたのだが、今はもうはっきりと分かる。「俺はマイノリティである。」という事実!そこにはもう蔑視などなく、ただただ、そういう事実のみが存在している!それを否応なくリマインドさせられた2時間弱だった。
「あいつらは馬鹿だ。こんなもんで感動できるなんてお前、相当お手軽な感情なんだなあ。その頭空っぽ加減は最高にうらやましいぞ。」とかもう言う気は更々無い。これで感動できるのであれば、つーかマジョリティが感動しているんだから、それはそれで本作の役割は達成されているし、需給バランスもそこで成立してるわけだから、こっち側からどうこういう事でもない。つまり結論としては、「こんなもんを面白半分に見た俺が悪い。」ということになる。あいすいやせん。

大日本人 ★★★☆☆

電流ショックで巨大化し、獣を倒すヒーロー、大佐藤(六代目)の話。
企画構想5年、総製作費10億円、監督・脚本・主演、松本人志。運良く思春期に「ごっつええ感じ」に出会い、ダウンタウンとその周辺の信者になってから約10年、ついにこれが、このときが来たと、映画見る前は実際かなり緊張していた。見る方が緊張なんて馬鹿げた話だが、本当にそうだったんだよなあ。
ゴールデン単発スペシャル番組「ものごっつええ感じ」が意外なまでに低視聴率で、一般にダウンタウンの笑いが受け入れられないと分かってから、松本の「映画を作る」「結局、映画でしかやれない」のような発言は頻発するようになっていた。それはつまり、松本(ダウンタウン)の笑いがマスに指向しておらず、皆が皆一斉に笑うというよりも、表現的に際どかったり、一見分かりにくいが発想を巡らすとジワジワ笑けてきたり、「松本VS多」ではなく「松本VS個」というミニマルな笑いの追求に注がれるという事なのかと、はじめは思っていた。が蓋を開けての「10億円」。日本映画にしては大規模な予算となると、商業ベースにのせるために、ある程度マスに寄っていかないといけなくなる。この辺の塩梅がどうなのか、信者としてどう受け止めるのだろうかと、そういう緊張のような気がしていた。
映画は中盤まで、コメディーというよりドキュメンタリー映画のような作り方をされている。大佐藤の事について、周辺に印象を聞いてみたり、本人の本音(大日本人としての本音)について核心を突いて探りを入れたりと、序盤~中盤はドキュメンタリーの手法そのもの。しかもあからさまに低予算なやつだ。セリフも冗長だったり、噛んでいたりと、妙に生々しい。これは絶対意識してる。だから、この映画は現実の日本ではなく、もうひとつのパラレルな日本、「大日本人」という種が存在するもうひとつの現実(便宜上向こう側としよう)の生態を、こっち側の日本でドキュメンタリー(低予算、てのが大佐藤の現状を示唆している)として見るという、そういう認識は必要なんだな。向こう側では「大日本人」の存在は全くおかしな事ではないし、それにつながる数々の事柄というのは別に面白いことでもなんでもないんだ。「そんな風に発想するお前が一番面白くない」という事についてはこの際置いとこう。俺はこう感じたんだから。だからこういうの映画館で見るの嫌なんだよなあ~。隣の隣の野郎、馬鹿みてえに素っ頓狂な高い声で序盤から馬鹿笑いしやがってテメエ、お前がおもんないんじゃ。
ついでに書くと、公開直前まではDVDまで待とうと決めていた。前述の通り、「松本VS個」の環境を作りたかったし。しかしほんとの直前一週間ぐらいでやたら映画監督・松本の露出が高まり、松本自身は「見てもらうしかない」という姿勢を貫いて事前情報をなるべく少なくしていたが、それでも周辺から発信されてしまう。元来俺は映画の事前情報をできるだけ排除して、ニュートラルなポジションで映画を見る方だし、ましてや松本作品となると、その思いは尚強くなる。このままDVDまで待ったとして、ネタバレを防ぐのは困難だろうと判断し、それなら早いほうが良かろうということで早速見に行ったわけだ。
で、向こう側ではなんか知らんが、たま~に獣(じゅう)という、なんつーかな、大日本人と戦うぐらいのサイズの、異形の生き物が出てきて、大佐藤はそれを倒すのが仕事らしい。こういう設定どっかで昔見たね。そう、エヴァンゲリオンなんだなあ。ヒーロー物によくある設定、例えば「地球を征服しようと画策した○○星人が、たまたま日本を標的にして色々攻撃をすると。でそれを阻止するべくなんたら防衛隊が存在し、最終的に■■マンが○○星人を倒すと。」、大日本人の世界もエヴァの世界も、これに当てはまらないというのが共通している。利害関係ゆえの対立構造ではないんだな。たまたまなぜか巨大な異形の生物(?)が存在し、それが地球にとって害を与えているため、それを取り除く存在がたまたま居ると。エヴァではざっくり言うと自分の内面と戦うために使徒と戦っていたし、大佐藤は、当面の算段として「月給80万」のために獣と戦っていると思われる。あと、四代目への忠誠心もか。
「獣と対決していく」というフォーマットが定まってからは、ドキュメンタリーもより強く、大佐藤という人間の心の葛藤に迫るようになり、ついに「中村雅俊」でこっち側で見ている奴らも大佐藤の世界に感情移入させようとしてきた。居酒屋での帰り際、「馬鹿いってんじゃないよ~、大日本人だよ。」の部分はストーリー上のクライマックスだろう。ある意味、ストーリーとしてはここで終わりなのかもしれない。そう、この映画は、見栄っ張りで、馬鹿で、酔っぱらうと調子に乗っちゃうけど、妙に律儀な、たまたま巨大化してしまう一人のおっさんの、大日本人としての美意識を主題とした話なんだよなあ。
そして突然の寸断!「ここからは実写うんぬん・・・・」の後の展開、そしてそのまま唐突なエンディングを迎え、それまで笑っていた隣の隣の素っ頓狂もあっけにとられたように口をつぐんでしまった。横にいた女3人、前のカップルも、突然の展開にわけがわからない感じになっていた。俺も最初「なんじゃこりゃ」だった。で、こっからは俺の捉え方なんだが、あれはつまり「アメリカにいる大アメリカ人」なんだろうな。あの最後の獣に関しては、外国から来たと言っていたし。大アメリカ人の登場後の展開はさすが、長年コントを作り続けてきた集団だもんで、一般的なヒーロー像を逆手に取ったコントそのまんま。実写にしたのも、純粋なコントとしての間の取り方とか空気感を出すためだろうか。あれCGのままだと想像すると厳しいもんな~。まあ、松本が作る映画だから、オチはコントでも問題なかろう。
CGのクオリティとか、どこが面白いとか、あれはああだから面白いとか、そんなんは人それぞれだからどうでもいい。もちろん出オチや、前フリがあってそれに忠実にボケるという笑いも結構多いが(ほんと、結構多いのでびっくりしたのだが)、この世界観全体はなんとなく「システムキッチン」を彷彿とさせ、それこそ見るたびに笑ってしまうポイントも変わることだろう。世界観はそれぐらい懐深いとは思った。
ただフラットに見て、ダウンタウン信者ではない一般の人にこれを勧められるかというと、俺はそう思わない。イタい選民思想とかではなく、基本的にダウンタウンの笑いについてウェルカムでないと、序盤~中盤の長い長~い「大日本人」世界観の植え付け作業が非常にしんどいだろうし、一旦そこで心の扉を閉ざしてしまうとベタな笑いもベタが故に笑えなくなるし、結局何がどう面白いのか、面白くしようとしてるのかわけわからずこんがらがるだろう。もしかすると一般の人は、「おもしろまっちゃんの作る、爆笑コメディ」を前提に見に行ってるかもしれんしな。さらにシビアなテーマとしては、プレ大日本人という意味での「Zassa」(PPV300円のインターネット有料コント)に続く、無料の地上波とは違う「1,800円払うのにふさわしいか。今ならん~~~~、、パイレーツオブカリビアン3と比べてどうなのか?」とか、そういうレベルでの話だ。
最後、総合評価について。ストーリー映画としてはおもしろかった。笑いについて個人的に初見では、大笑い(声が出てしまう)は一回も無し。基本含み笑い。まー松本のコントは含み笑いだよなあ。最後のコントは常時フフフ・・・・ぐらいかな。なんか気持ち悪いな。これはもちろん先入観、もっとすげえの、何か刺激的なのを提供してくれるだろうという思いこみが強すぎたから。信者なもんで。それとマスに寄った分、海原はるか師匠で瞬発的な笑いを取りに行ったり、後々まで作品として残るであろう映画に原西のギャグ(今流行のギャグ)を入れてみたり、こっち側と向こう側を繋げてしまう要素が散見されて純度が低下したのもマイナスポイント。これは松本どうこうではなく、マスとのバランスを考えた役割の人が介入したのだろう。それもまた大作のゆえんだ。
これが監督一作目、になって欲しい。カンヌで世界の35人(32人かも)に選ばれたビートたけしも、図らずも監督デビューとなった「その男、凶暴につき」で荒削りな自分の色を見せたし、その後「みんなやってるか」「8×3=9月(絶対違うけどこんな感じのタイトル名)」とか、自分で自分を殺しかねない犠牲を出しながら、「ソナチネ」のスタンスに到り、「HANA-BI」で評価されたわけだから。とにかくコントの拡大バージョンでもないし、凡庸なストーリー作品でもないし、スタートとしては最高だろう。★5は後々に取っておこう。