しんぼる ★☆☆☆☆

ちんこ型のスイッチがいっぱいある部屋に閉じ込められた男と、メキシコ・ルチャレスラーの話。

松本人志監督二作目。処女作「大日本人」は笑いの方法やコント仕立てのラストに賛否両論巻き起こり(どちらかと言えば否が多い)、作品の評価は人それぞれだが「無難でなかった」という点において良い作品だった。俺個人はその当時の感想に書いたとおり、笑いの部分は基本に忠実、それより映画作品としてよく出来ていると感じたので二作目もあると確信し、評価としてはニュートラルな★3にした。二作目である本作は、それを受けての評価となる。鑑賞は前回の教訓を生かし、DVDリリースまで情報封鎖。

「しんぼる」はダブルミーニングで、一つは「男のしんぼる」=ちんこ、もう一つは「人類のしんぼる」=神、である。閉じ込められた男は言わば神に成り得る、成りかけの男であり、ちんこスイッチのある密室から、試行錯誤して脱出しようと試みることで、神様修業をしているのだろう。

ケツから出る出前一丁のように、ちんこスイッチを押す=何かが出てくる、という構図は、何かの誕生・組成を意味している。ここからは推測だが、ある日、主にキリスト教系のモチーフとして見られる天使に、ちんこがついている事を発見した。「天使て男なんかい」と軽くつっこんで、そこからちんこスイッチの着想を得たのかも知れない。

一方、ストーリー上長いこと謎の存在だったルチャレスラー及びその家族は、神成りかけ男の成長によって終盤にようやく結びつく。言わば男の成長過程は、ルチャレスラーの「首伸び」に至るフリであり、あの瞬間、新たな神としての可能性が芽生えたことを意味している。神の些細な好奇心で、人間の首だって伸びるし、火も噴くし、犬とも会話できるのだと。

そうして神は新たなステージへと上り始めた。ちんこスイッチをつかみながらロッククライミングのように上っていく過程では、様々な生命の誕生・人類の営みが描写され、ここで本作の主題が明確に伝えられる。やがて上り詰め未来へと向かう神には、また別のちんこスイッチが眼前にあり、彼はやはり押そうとする=未来を切り開く、のだった。

以上のように、本作は一言で言えば神誕生を描いた作品である。そのような観念的な世界を描くのに対して、その描写が全体的に大雑把というか、底が浅い。例えば前述した神が未来へと向かうシーンでは、過去の映像を切り貼りして、その中を神成りかけ男が通過していくのだが、なぜああいう明快にわかりやすい、誰でも思いつくような方法を採ったのだろうか。ラストシーンもそうだ。わかりやすい程の未来、それに対する行動、全て想像の範囲内だった。

これは松本本人の世界の浅さ・狭さゆえであるように感じる。過去の実績からして、彼は間違いなく笑いに関して独特な観点を持った、感性で勝負して勝ってきた人だ。本作のように神を描くのであれば感性だけでこなすのは難しいだろう。森羅万象あらゆるものへの興味・知識、自己がこれまで培った思想・死生観、様々な要素が自分の引き出しに入っていて、ようやくなんとかなるレベルだ。松本に果たしてそういう部分の蓄積があったのかどうか。ダウンタウンの番組で見る程度でしかないが、実際彼は言葉やモノをあまり知らない。誤用も多いし、それを指摘され恥ずかしがるシーンも結構ある。同じお笑い芸人でも、例えばタモリやビートたけしに感じる知性は、残念ながら松本には無い。つーかそもそも求めていないし、いまさら獲得する必要もない。ただ本作のように、複合的要素が絡み合う作品では、それが無いのは大きなマイナスとなっていた。

だからこそ、松本は狭い世界で勝負するべきである。要するに、またそれかという話にはなるが、「システムキッチン」の世界を突き詰めれば良いのである。良いというか、より一層の高みに至るにはそれしかない。狭い世界を、とことんまで突き詰め、一般に媚びず、もちろん(本作のように)外人に媚びず、「日本の笑いの機微が世界一」という自負を持って、狭い世界を追求して欲しい。


東京物語 ★★★★★

広島・尾道から東京にいる子供らを訪ねた老夫婦の話。

今回小津初体験ということで、代表作の本作を選んだ。もともと小津についてはヴェンダースから逆戻りして知ったということもあり、自分の大好きな監督が尊敬する監督、それも代表作ということで敬意を込めて、見る前から★5は決定済みだ。

敬意はさておき、率直な感想としてはとても素晴らしい映画だった。映画の世界に小津ブランドが確立されているのもよくわかる。映画監督が、これほど映画そのものを支配できる様は中々見ることができない。たぶん日本一世界で有名な黒澤明作品でさえ、監督の力だけでなく、志村喬や三船敏郎、あるいは仲代達矢あたりが強烈な個性を発揮しないと、推進力は損なわれただろう。しかし小津作品では、主役の笠智衆や当代のトップアイドル原節子ですらも、色は消され、小津色にすっかり染められている。

だから小津作品にとって、俳優は恐らく映画を構成する一つの要素、コマでしかなく、たぶん、たぶんだが、監督の指図通りにやってくれたなら、誰でもいいんだと思う。それを物語るように、登場人物のセリフは棒読み気味で機械的であり、そこに俳優個人の色付けや感情は表現されない。もちろん、本作で言えば美容室をやっていた長女や、大阪にいる次男のように、「家族関係の崩壊」を明示する記号としての、感情の表出はあるが、それは監督のコントロール下にある。

そうして(商業主義とは別の意味で)機械化されたオートメーティッドな作品は、監督と俳優が互いに強調・協力して作り上げる一般的な映画とは異なり、独特の印象を見る者に与える。老夫婦の淡々とした語り口、現実離れした現実との関わり方は、機械化された故幻想的であり、また感情が無い分、世間に生ずる様々な情景を、客観的に描写してくれる。長男や長女の身勝手な態度や、自分で「ずるい」と言った次男嫁の態度を、我々は日々の生活で自分の中に見つけられる。

サッカーファンの俺からすると、これは1974西ドイツワールドカップにおける、リヌス・ミケルス率いるオランダ代表のローテーションフットボール(後のトータルフットボール)を初めて見た衝撃に匹敵するかも知れない。笠智衆にクライフほどの奇抜さはないが、この時代にこういう作品を作っているのは、とても先進的なことだ。

さすらい ★★★☆☆

大型トラックで移動しながら映画を上映する男と、自暴自棄になった男の旅話。

見終わるのに3日かかった。180分の映画なので通常の映画の1.5倍のボリュームがあるが、それ以上に体感時間がものすごく長く感じる映画だ。見始めては退屈になり途中で止めて、またしばらくして見て、止めて、そういう風に見ても、この映画は良いように感じられる。

しかも見終わっても何も残らない。何の追加的知識を得られるわけでもないし、もちろん感動するわけでもないし、印象的な何かがもたらされる事もない。ただただ浪費、このゆったりした時間に身を委ねるのが、本作との関わり方だ。

しかし本作のように、映画そのものにマジメに取り組んでいる作品はあまりない。例えばハリウッド、その作品は多かれ少なかれ、消費できるように”制作”される。消費に値する明確な何かが必ずある。それはストーリーだったりキャストだったり、映像の奇抜さだったりと、まあ色々あるが、確実なシンボルがなければならない。

ロードムービーということで旅に例えるなら、それはまるでパック旅行だ。シンボリックな観光地があらかじめ決まっていて、一旦そのパック旅行に参加すると必ずそのシンボルに到達できる。それをどう受け手が感じるかはそれぞれだが、とにかくシンボルを拝めるのである。ヴィム・ヴェンダースの映画は、その点行き当たりばったりの無計画旅行と言ったところか。

無計画ゆえ無駄が多い。なんで野グソシーンをあんなにマジメに撮影するのか。このダルさとマジメさは、映画そのものが持つ映像作品の魅力を感じるには良いと思う。ただほんと、退屈で長い。それもコミで面白い。

肉体の門(1964) ★★★★☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。次は1964年、鈴木清順監督作品。

清順監督と言えば、色彩の美麗さや奇抜な演出で、世界的にも名の通っている人だが、今作でもそのエッセンスは感じられる。まずパンスケ4人を赤・緑・黄・紫のワンピースで色分けして、それぞれのキャラクターもその色が持つ印象に仕立てているのが技巧的だ。例えば、五社版では主役だった小政は直情型の赤、清順版の主役であるボルネオ・マヤは緑で感受性の強さを表しているし、紫はそのまま売女、黄色=デブで陽気というイメージはいつからなんだろうか。

戦争に負けて、彼女らは仕方なくパンスケになったと思うが、それが故に徒党を組んで助け合い、シノギの場では虚勢を張っていきがる女の逞しさ、そして一人の女性としての愛を望む気持ちとがせめぎ合い、その葛藤のコントラストがよく表現されていた。五社版では小政と男の関係、彼女らの儚い夢物語だったのが、清順版はより深く、内面も描いている。

おっぱいについてはかなり控えめだ。つーか五社版の1988年ってバブル絶頂期か。そりゃおっぱいも中心になるよなあ。それから20年前になると、例えパンスケを題材にしたとて本作のような控えめおっぱいになる。

「肉体の門」とは関係ないが、数年前「おっぱいバレー」という作品がちょっと話題になった。見てないので詳しい内容はわからないが、バレーの試合に勝ったら先生がおっぱいを見せる云々のやつだ。五社版のおっぱい中心、おっぱい動説からすると、20年して再び控えめおっぱいつーか、妄想おっぱいへと衰退しているのかもしれない。この20年間周期のおっぱい描写循環は意外と面白い。

肉体の門(1988) ★★★☆☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。最初は1988年、五社英雄監督作品から。

「吉原炎上」「226」の間に作られた作品と言うことで、作風はその2作に非常によく似ている。大袈裟な演出で、映像のインパクト重視つーか、おっぱい重視の描写が多い。主役級の俳優は前年の「吉原炎上」とほぼ同じで、おっぱい描写OKのかたせ梨乃・名取裕子・西川峰子が、吉原の花魁から戦後のパンスケに変わっただけだ。つーかひょっとすると、「吉原炎上」がそこそこヒットして、その要因を分析したところ「例の、女のおっぱいである」とわかり、おっぱいありきの原作を探していたら、たまたま「肉体の門」を見つけたのかもしれない。内容よりもまずおっぱいというわけだ。

うん、こう考えた方が色々合点がいく。次の感想で書く鈴木清順監督作品と比べると、鈴木版が文学的な印象を受けるのに対して、五社版は正直、不発弾とおっぱい、それからこれも吉原炎上で使われていたが、最後の口に爆風が入ってグワーってなるやつぐらいしか印象にない。女の喧嘩シーンとか、なんかよくわからん意気投合のダンスシーンは見てられないという意味で印象に残ってるが、一つの作品として果たして何を描きたかったのかはよくわからなかった。

そこでおっぱいである。女優の名をもって、大々的に公開される映画作品でおっぱいを見せても構わない女優さんがいて、しかも前述の三人のような名の知れた面々であるならば、これはもう「テーマ:おっぱい」で十分説得力がある。こんなにおっぱいと書いたのは初めてだ。