キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン ★★★★☆

気の利いた少年が小切手を偽造したり、職業を偽って働いたりする昔ならではの話。
フィクションにおける悪党話というのはおもしろい。勝手に面白くなる。例えばそういうものの代表作と言っていいルパン三世は一般的に面白い作品として認知されているし、モンキーパンチがアクションで連載していたきったない作画の漫画の範疇を飛び出して、今や山田康雄や栗田寛一らが声優をやっているアニメの方がイメージ強いぐらいだ。そのルパンで展開されるのは基本的に金品を盗難するという泥棒行為であり、現実にああいう集団がいると、おもしろおかしい温かい目で見られるのではなくて、早く死んで欲しい人達という熱い血潮が燃えている感じになる。
本作もそういう部類の「詐欺師」が主人公で、しかもこれは現実にあった話であるからなおいっそうタチが悪い。ギャンブルやりまくってサラ金に借金を作りまくり、挙げ句の果て突発的に銀行強盗をやっちゃろうみたいな軽いノリではなく、犯罪を遂行しようと本気になって取り組めば、この時代ならよっぽど馬鹿でない限り恐らくそれは高い確率で成功するということだ。それはまず、犯罪の当事者になるということは通常考えられる範囲ではないイレギュラーな事態だという点が大きい。コンビニでボーっとしてたら目の前に包丁突きつけられていたというような「犯罪丸出し」のシチュエーションではなく、この映画におけるような、まず考えもしないイレギュラーなものならば多くの人間が詐欺につかまされる。
ただこれは現代では恐らく成立しないだろう。小切手の偽造にしろ職業なりすましにしろ、前者はスキャニングとかでバレバレになるし後者はID管理でモロバレ、この点フランクは生まれてきた時代が当てはまってうまくいった感じだ。
で最後は予想通りその後のフランクについて述べられていたんだが、まあ成功したのはいいとして、彼が使い込んだ数百万ドルの金の賠償はどうなったかが気になった。かなり気になった。

ボウリング・フォー・コロンバイン ★★★★☆

アメリカ・コロンバイン校で起こった、生徒による銃乱射事件を題材にしたドキュメント映画。
話の持って行き方がかなり強引なのと、これは一応アメリカ銃社会のおかしなところを探っていくというドキュメンタリーであることから、インタビューや映像の切り口も必然的にそういう寄り方になってしまうという前提の元に、これがアメリカの全てではなく話半分で見る必要があると思う。一つ論調を定めないとエンタテイメントとしてまとまらないというのはしょうがない部分だ。
ただそういう客観的な視点に立つというのをベースとしても、最も客観的である統計を見て確かにおかしいなと感じてしまう。まずアメリカと日本を比べると人口が約3億:約1億3千に対して年間の銃による被害者が約11,000:約40。これは単純に、社会における銃の普及率と直接的に関係していると思う。要するに、あいつぶっ殺したいと思っても日本では手元に銃がないからあまり手軽ではなく、別の手段を用いたり断念したりすると言うことだ。
ただし、その後語られるように銃の普及率がアメリカとカナダではほとんど変わらないのに、人口が約3億:約3千万に対して年間の銃による被害者が約11,000:約200。人口比が10分の一だとしても驚異的に少ないことから、アメリカで銃犯罪が多いのは銃がたくさんあることが一番大きな理由であろうが、それだけではない何か背景があると考えられる。
簡単に銃が購入できるという異常さ、マリリンマンソン、NRA、アメリカの歴史、偏向的なメディアなどマイケルムーアは色々な理由を出しているが、これ自体は先進国なら少なからずあるような、社会が煮詰まった状態での汚物を論ってるだけで、それがアメリカだとどうしても銃と絡んでしまうという話だ。結局そこはワイドショーとあまり変わらない、ジャーナリスティックな視点で問題点を列挙しているだけで、根本的な解決にはならない。最後の方にムーア自身が行動する部分もあるが、なんかいいわけがましい感じがする。
とはいえ社会問題に対して考えを想起させるようなインパクトのあるドキュメンタリーを作ったというのと、ポーズとはいえそういう問題に対して自ら行動し、結果的にKマートの弾丸規制に大いに貢献した姿勢はすごいと思うし、説得力はある。一度銃というものが認められた以上今後も無くならないとは思うが、それに対し問題提起していくのはいいと思う。

アナザーワールド 鏡の国のアリス ★☆☆☆☆

いきなり鏡の向こう側に行ってしまう話。
根性がねじ曲がっているので、思春期に完全否定したものは今後恐らく一周することはないであろうと、今のところ感じている。「ダンス」しかり「ミュージカル」しかり、その中の一つが「ファンタジー」という大きくて曖昧な項目だ。この映画はその完全否定のど真ん中をぶち抜いてくれているわけで、つまりそういうことだ。
それを再確認させてくれたことは間違いないんだが、これが仮にアニメーションならまだいけるかなと思うので、完全否定にも多少のブレはあるようだ。大体がファンタジー・メルヘンといった項目は、なるべくなら現実離れしたほうがいいし、場合によってはそれがシュールな笑いの方向に向かうこともあるが元々そういう方向性を指向していないので、多くの場合は「奇抜な格好をした人が、それらしいフワフワした会話を展開する」という構成になる。要は現実と境界をばっさり引いて(今回の場合はそれが鏡だった)、いかにその世界観に引きずり込めたかが全体的な印象の違いになる。あーその時点でだめなんだなあ俺は。
例えばこの映画ではもちろん奇抜な格好をした人がたくさん出てくるが、そのたびに「あーなんでこいつこんな変な格好してんだろ」「よくそれで今日の晩スーパーで買い物できるな」「今日の昼と夜のギャップを映画にした方が絶対おもろいぞ」「はいカットて言われた直後の顔見てー」とか、ああこれファンタジーに手を付けてはいけない人種の人だろう。
ファンタジーという定義も凄く曖昧なんだが、そりゃ「NHK正午のニュースはとてもファンタジーだ」という輩はあんまいないが、「NHK教育はある意味ファンタジー」「ガンダムは立派なファンタジーだ」「渡る世間は鬼ばかりについて今までファンタジーの中のファンタジーだと思っていた」という人はいるだろうし、それは個人個人の感覚による。まあ奇抜な人がいっぱい出てくるのは、個人的にまったく受け付けられるものではないというのは間違いない。
にしても原色のコントラストを多用した画面構成は見事だし、「あーこういうの好きな人が見るといい感じなんだろうなー」というキャラ付けもされているようだ。あとアリス役の人がかわいい。
すまん。レンタル屋で目的なしの無作為抽出で手に取ったのがこれだったんだ。この映画に悪気はねえんだ。悪気があるのはこっちの方だ。

トルコ 0 – 0 イングランド

EURO2004予選の最終日、フランス・チェコ・ドイツなどすでに結果を待たずして一位通過が決定している優勝候補国をのぞき、一位か二位か、ストレートインかプレーオフかが決定する試合が多数組まれた中、試合前からもっとも注目を集めたのがこの試合だった。



イングランドはこれまで7戦6勝1分の勝ち点19、対するトルコは6勝1敗の勝ち点18、単純に考えるとこの試合の勝敗如何で一位・二位が逆転するというものだが、それ以外にも例えばトルコサポーターの凶暴ぶり、イングランドサポーターの入国禁止、アランシアラーが解説としてトルコへ、オーウェン(怪我)リオ・ファーディナンド(メディカルチェック忘れ)の離脱など、周辺の話題が盛り上がったのが注目を集めた主な要因だった。それ以外に内容面に関して、攻守の要であるFWとCBが離脱したことで、トルコが歴史上初めてイングランドに勝利するかもしれないという状況もあった。



イングランド国歌で大ブーイング、トルコ国歌では大合唱というイングランドにして完全アウェイの環境。イングランドは抜けた大看板2枚の穴埋めにヘスキーとジョン・テリー、ヘスキーはともかくテリーではCBとしてファーディナンドのバックアップ足り得ない。しかもGKはウエストハムのジェームズということで、確かに守備面での不安はかなりあった。



一方トルコは現状でのベストチョイスなんだろう。バシュトゥルクやハサンが出場しないのは戦術上のオプションとして、一度代表引退を表明したトルコのパスサッカーの要、トゥガイが戻ってきていたのはうれしい。トップは”電柱”ハカン・シュクルと、昨年の大活躍で一気にスタメン確定させたニハト。



試合開始からトルコのホームゲームとなるのだが、決定機にまで至ることがない。逆にイングランドは少ないチャンスを活かす形で、ベッカムのクロスから度々形を作った。イングランドの両SBはバランスを取る形であまり攻撃参加することはなく、イングランドの堅いディフェンスが続いた。



そして30分過ぎぐらい、トゥガイがジェラードをPAで倒しイングランドPK獲得。蹴るのは当然ベッカムだが大ズッコケしてしまいチャンスを逃した。これでそれまでのおかしな具合が見えてきた。グラウンド状態が滅茶苦茶になっているようである。確かにトルコのボールつなぎは、さばいているうちにミスでイングランドボールとなることが度々あった。トルコのやりにくさも合点がいく。



またトゥガイはいつものようにバランサーとして動いていたが、エムレが中に中に絞ってしまいセルゲンとポジションバッティングしてしまう場面も結構あった。このため左サイドの動きは左SBに任され、サイド攻撃があまり機能しない。



後半になるとイングランドは当初のゲームプランであったかのように0-0の引き分け狙いな感じになっていた。守備の時は全体が自陣に戻り、あまりアタックはかけずトルコのミスを待つ。トルコの肝であるパス回しも劣悪なグラウンド状態のせいでうまくいってなさそう。



トルコはトゥンジャイ・イルハンと2枚FWを入れて攻撃の厚みを持たせたが、またもやグラウンド状態のために持ち前のスピードが活かしきれずに時間は経過する。イングランドは一つのカウンターで決定機まで持っていく感じでかなり効率がいい。ダイアーに交代してからはそのスピードでサイドを突破する場面や、リュシュトゥと激突した場面があった。



結局トルコはイングランドに勝てなかった。イングランドは頼れる2枚がいなくなった分、全体に守備の意識があったんだと思う。またゲーム前から「アウェイであれ負けなきゃいい」という共通理解はあったはずで、そうなると2002年が思い出されるようなカウンターチームとなることも辞さないんだろう。



トルコはタレントがそろっているもののキャラが被りすぎてる感じだった。バシュトゥルクというオプションがあるなら、彼のドリブルをアクセントとして使ってもよかったのでは。あと主審がコリーナということで完全ホームの環境を活かせず、逆にバランスを取る形でイングランドの方に気を遣う判定をしていたのも見逃せないことだ。



この結果トルコはプレーオフに回り、ラトビアと当たるがまず突破は間違いない。ただこの試合を見て、あるいはチェコーオランダでの力強いチェコの様を思いだし、トルコ優勝はもちろんベスト4もきつい気がしてきた・・・。

サイト移転

この三連休、中途半端に1科目だけ大学の試験があったほかは何もやることがなかったので、暇に飽かせてドメイン取得とやらをやってしまった。ちなみに、つい先日から固定IPアドレスも取得している。

というわけで、今日からここのサイトのURLは、http://dead-pigeon.net/となります。しばらくはdead-pigeon.plala.jpでもアクセス可能にしておきますが、ISPを2社契約するのは無駄なので、今年中をめどにplalaのADSLは解約します。いきなり消えると思うので注意してください。

というわけで業務連絡>bitch

もしURLを絶対指定するなら、dead-pigeon.netの方を使ってください。

ところで、実はasahiネットのFlet’s ADSLセットを契約し、固定IPアドレスを取得したのは1ヶ月近く前なのだが、実際に使用するまでかなり時間がかかってしまった。というのも、2つのISPに同時につないだときにうまくルーティングする方法、いわゆるマルチホームをうまく設定する方法がよくわからなかったからだ。やっとわかったので、今度まとめてみようと思うが、もしかしたら俺と同じところではまっている人がいるかもしれないので、一つヒントを。

片方のISPをデフォルトルートにして、もう片方は、そのインターフェイスから外部のネットワークに出ようとするパケットをそのISPのゲートウェイにフォワードすればよい。

具体的には、ISP1: 192.168.0.1 gatewey 192.168.10.1、ISP2: 192.168.1.1 gateway 192.168.11.1、内部ネットワークを192.168.100.0/24とすると、

1, defaultrouteを192.168.10.1とする。

2, ipfwを用いて(FreeBSDの場合)、ISP2のIPアドレスから外部ネットワークへのアクセスは、ISP2のゲートウェイへフォワードする。

# ipfw 100 add fwd 192.168.11.1 ip from 192.168.1.1 to not 192.168.100.0/24 out

この2の時に注意する点は、ipfwのルールの前の方にフォワードのルールを入れておかないと、フォワードの前に当てはまるルールがあればそれが採用されてしまってフォワードが有効にならないというところだ。俺はそれではまってしまって、「設定したのにうまくパケットが流れないよーん」なんてことになり、tcpdumpしたり外部からポートスキャンをかけてみたりとずいぶん無駄な時間を費やしてしまった。

興味ない人にはつまらん話題になってしまってごめん。

日本ハム東京ドーム最終戦の話と夜間スクーリングの話はこうしの日々是勉強にでも書いておきます、と思ったらなんかつながらないな。

イグジステンズ ★☆☆☆☆

天才ゲームデザイナーが命を狙われるが、死なずに話が進む話。
結構前からハリウッド映画を見てきた。つーか日本で広く流通している映画はついこの間まで日本映画かハリウッド映画しかなかったために、自ずと映画見るなら外人が大袈裟に芝居やってるハリウッド映画という環境が構築されていたわけだが、そのハリウッド映画によくある方法で「なんかよくわからんけど物語の都合上、こうなってしまったからこうせざるを得ない」的なストーリー進行方法が用いられることがある。これは何もハリウッド映画だけでなく、そこらへんのテレビドラマや、アニメや、漫画にも多く登場するが、とりわけ「メチャクチャ金あんのに結局それかよ」という印象が強くなるのがハリウッド映画システムなわけで。
要するに話に違和感が残ってしまうのよねどうしても。おまえそこ無理矢理つじつま合わせようとしてねえか?と感じる場面が多く、今選挙カーがうわー行ってるが、その「お騒がせしてすいません自民党の公認候補山田山田男です。」てのと変わんない。
あとこの映画自体がRPGゲームを意識した作りになっているので、敢えてそういう臭いを強調させたのかもしれないが、自分自身RPGは苦手なもので、こういうベタな進行にうんざりしたというのもある。
監督はザ・フライなんかで有名な人らしいが、昔のようにテクノロジーにあこがれのあった時代ならいざしらず、現代のようなCG全盛時代に、CGでさえダメなんだから作り物のグロ映像なんか見せられてもなんとも思わんのが正直なところ。
こいつら金かけてこんなどうでもいいことやってんのかよという感覚を、映画全体を通して意識しながら見てみると、意外に笑える部分も多いかもしれない。最後の方でかわいい姉ちゃんが青い変なのを頭に付けてるとことか。

ルーマニア 1 – 1 日本

二日前のチュニジア戦では結果的に勝利したものの、チュニジアのコンパクトでテンポのいい攻撃(つかこういう感じのを辞意子はやりたいんじゃなかろうか)に苦戦した日本代表がルーマニアに乗り込んでのアウェーゲーム。スタジアムは現地ブカレストのチームグラウンドらしいが、見た感じ客席が少なめで観客のざわざわもほとんど聞こえない静かな試合だったが内容もあまりなかった。

前半はチュニジア戦同様相手に押し込まれる。どうも、相手がやや疲れるor自分らが感覚をつかんでくるまでまだまだゲーム内で時間がかかるらしい。特に相手のサイド攻撃に対するケアがイマイチうまくいってないらしく、川口がなんか絶叫してた。

またボールを奪ってからも、周りのプレッシャーあるなしにかかわらずセーフティクリアをする場面が多く、これはアウェーだからそういう指示なのかもしれんが、せっかくクリアしてもまたもや相手ボールになってしまい、こうなると攻撃陣も守備エリアに帰らざるを得なくなり、結果的に後手後手を踏んでしまう。

そしてムトゥの飛び出しに間に合わない坪井がかわされ川口がニアサイドを絞れずに失点。まあ別に悪くない。ブッフォンならどうあれ、こんぐらいの失点はありそうだ。

前半はそのまま押される感じで、何度かチャンスも作ったものの得点できず終了。

後半になると次第につなぎがよくなり、こうなれば中田のボールキープも活きてくる。その結果攻め手も増えて中田の浮きスルーから柳沢が綺麗に決めて同点。セネガル戦のズッコケ以降総スカン状態だった柳沢の評価もこれでどう変わるか。まあ彼が決定期をヘボく外すというのは昔からあることだが、このように決めれる選手であるというのも間違いない。でなきゃサンプは呼びません。

この得点後は両者攻めるにしても日本の方が決定期に結びつく場面が多かったように思う。今回のチュニジア・ルーマニアツアーで文字通りのアウェイの環境(基本的に攻めてくるのはホーム側)では、中盤から前にかける自由な攻撃というものが機能するというのは見えてきた。留意点は、チュニジア・ルーマニアともディフェンスラインを高く設定していたのでスルーパスが有効だったこと。よって恐らく今でもサイドからのクロスに合わせる形はまだまだ期待できない。

ただ、そのエンジンが掛かるのが後半からというのと、それのカギが結局中田の出来次第であるという問題も見えてきた。最近の中田はボールキープの方が目立ち、パスはハア?な感じのも多かったので、試合によってムラは出るといった感じか。

にしても今回だけでなく、辞意子JAPの最大の課題はディフェンス・特にサイドバックの使い方だろう。とりあえずサントスはやめた方がいい。ルーマニア戦でもサントスのミスで相手の決定期が生まれた場面が何度かあったし、それに彼の魅力である攻撃参加にしても、素直に精度のいいパスあるんだからそれ重視で行けばいいのに、またあのわけわからんフェイントドリブルをやろうとして抜けないので、まず左サイドバックをもう一度選び直すと。少し前ならば洗い場という攻守にして丁度いい人材がいたが、今のガンバの低迷を見るにどうかはわからん。

次に右サイドバックはもう誰でもいいや。誰にしたってコレという人がいない以上変わらんだろう。どうでもよし!

センター2枚は、今回のツアーで中澤が対人の強さで秋田の次を担える可能性も見えてきた。トルシエ時代のようにやたらとラインコントロールを気にせず、どっしり構えたCBでいくならこのオプションはありなんじゃなかろうか。後一人は今のところ適当でよし!

なんにしろ現状では辞意子が目指した楽しいサッカーにもほど遠いであろうし、それにはサイドバックによる攻撃の厚みが、また黄金4人のパス交換がカギになってくるんだろう。あとは決めてくれる人が一人でいいからいるといいのだが。ドラゴン久保の覚醒待ち・・。

引き続き本日のメインゲームトルコ – イングランドへ続く

働くおっさん人形・モーニングビッグ対談 その2

一方で別なベクトルの笑いがある。アクションを起こす側が「笑い」を意図していないものだ。つまりアクションの受け手(リアクション者・傍観者)だけが笑いの判断を感じる種類のものである。これについては始末が悪い。アクション者の意図がない以上、その判断はリアクション者に委ねられるためパターンは無限大だからである。その反面、リアクション者が適切な扱いをしさえすれば、無限大の可能性を持った得体の知れない笑いを作り出すという面がある。要するにこの種類の場合は、「ボケた」ポイントが基本的に存在しないため、リアクション者がうまく扱えるかどうかによって変わってくるのである。

つまりアクション者が意図していないものでも、「笑い」に転ぜられる部分をいかに見つけだすかがリアクション者の善し悪しを決定し、従ってこの場合に「面白い」「面白くない」の審判を下されるのがリアクション者に逆転してしまうところはおかしな感じだ。そしてこの(潜在的に)面白いかもしれない素材を捜し出し、適切に扱うことで笑いを作り出すという方法は結構見られる。

こういう笑いの第一人者が明石家さんまなんだろう。意図のあるなしにしろ、笑いの可能性からそれを増幅させる方法をとるのが好きみたいだし、実際「回し」の立場でそういうことをよくやっている。自分自身彼の作るリアクション者としての「笑い」のポイントで笑った記憶は一度もないが、そういう笑いの方法で、一般的に面白いということになっている状況は知っている。

やっと本題。つまり、これまではオーソドックスなボケで「笑い」を生み出してきた松本人志がこういうリアクション者としての笑いの方向を向いてきたようなのである。ここに至るまでには、「システムキッチン」や「一人ごっつ(厳密には新・一人ごっつが一番表れているが)」に代表される、「どこが笑いのポイントなのかよくわかんない笑い」というのがあった。これは否定的な見方ではなく、例えば「sound of cleaning」や「タイムスリップショッピングダウン」は多くの人が面白いと感じられるかどうかというと、それは疑わしいということである。

そしてリアクション者としてもこの姿勢は基本的に変わっていない。明石家さんまは、どんな小さい笑いの種でも無理矢理大きくしていこうとする、それゆえゴテゴテにならざるを得ない剛力な方法であるのに対して、松本は小粒は小粒として放っておき外堀から徐々に埋め最後は弾けさせてしまう感じのやや陰湿な方法であるのが微笑ましい。

働くおっさん人形は、松本が言うところの「素人ものAV」なのである。実際DVDパッケージもそれっぽさが出ていてよくわかる。構成としては、松本とおっさんとの1対1の面接形式で進行される。面接は松本が「回し」としておっさん達に次から次へと質問を出し、おっさんはその質問に答えていく。このときおっさん達に「笑い」の意図はない。中野さんのバナナの皮・自作曲、福田さんの嘘にしても、それがそのままそういう人だというだけで、そこにはなんら意図はない。これがかなり重要で、それがためにリアクション者次第で、プリミティブではあるが単純に見てておもろいという笑いが起こるのである。

これはバラエティ番組などで最近主流であろう「素人おもしろ番組」とはまったく異なる。自分自身ああいうタイプのものが本当に苦手で、実家にいるときに強制的に見ざるを得ない状況などでなければ確認したことがないのでズレているかもしれないがおおよそ見当はつく。この手の番組では一見おもしろい(とされる)素人が映し出されているようだが、その周りにはおもしろい(とされる)部分を強調した字幕と、画面端の小さな画面に笑っている人が多くの場合同時に映し出され、そこには制作者側の「笑いの意図」が丸出しにされていてどうにもいただけない。つまりこの場合では、実際はおもしろいかもしれない素人の笑いを、制作者の笑いの意図が丸つぶしにしているという、前の例で言うと「逆一周」してしまっているのである。

思えば高校の頃、休み明けの月曜日の話題が「ごっつええ感じ」から「さんまのからくりテレビ」にいつのまにか変わっていた状況はおそろしい。つまり、自分がそういう系の話題に入れなかったことではなく、なぜ「ごっつ」の洗礼を受けた者がそっちの方向を安易に受け入れることができるのかと。もっと言えば、「三宅・生瀬のワークパラダイス」が作り込み故の短命で終わり、その後引き継いだ「三宅祐司のどシロウト」が未だに続いているというのが皮肉な感じだ。していま番組HPを見ると、それにひがしのりが出てるというのもなんともなあ・・・。

続く

ターミネーター3 ★★☆☆☆

ダダスダスダダス その3。
いっぺん整理しよう。
パート1
後の人類の指導者であるジュニオール(仮名)の母親を殺害する目的でターミネーターが現代に送り込まれた話。人間VSターミネーター。
パート2
ジュニオールを殺すために送り込まれた新型ターミネーターと、その殺害を阻止するために人類側が送り込んだターミネーターとの戦い。ややこしいのが、シュワルツネッガーはパート1では敵だったくせに2だと味方になっているところ。
パート3(今回)
大人になって堕落していたジュニオールを狙う女新型ターミネーターと、その殺害を阻止するために人類側が送り込んだターミネーターとの戦い。ややこしいのが、2も3も味方のターミネーターはシュワルツネッガーだが中身が違うということ。
ターミネーターシリーズは一応2で頂点を極めたんだろう。当時としては液化金属のようなものを表現するためにCGを用いたのは斬新だったし、まずそのビジュアル的な凄さに驚かされたものだった。またガンズのYou could be mineがテーマ曲として使われていたのも個人的には印象深い。たしかこのすぐ後ぐらいに3話が立ち上がり、立ち上がっては消えを繰り返してついに出来上がったのが約10年後。テクノロジーも進歩し2の頃の熱も冷め、はっきり言ってこれは完全にタイミングを逃した作品である。
さらに、ぶっ壊しシーンに金を使いすぎたのかどうだか、シュワルツネッガー以外の配役がなんかショボい。そこらへんのうんこを拾って集めてきた感じで、どうもうんこだ。
要するに、ターミネーターシリーズの続編としてみるとうんこなんだ。普通の映画として見ると、というか続編である以上普通の基準で見るのは無理なのでやっぱりうんこ。

働くおっさん人形・モーニングビッグ対談 その1

テレビ等で見るものにしろ、会話の中に織り交ぜられるものにしろ、笑いにはまず「ボケ」なり「ギャグ」なりの、笑わせようとする意図が込められたアクションがあって、それに対してストレートなツッコミや、すかしや、単純に面白かったので笑って完結させるというリアクションがある。このアクション→リアクションという方法は、オーソドックスな笑いを取る方法として古くから確立されてきた。

これとは別に、ボケ→ツッコミのようなストレートなタイプではない、いわば変化球のような笑いの形が所謂「一周する」というものだ。これは例えば全然おもしろくない状況それ自体がなんだか面白くなったり、以前面白くなかったものが時間をおくと面白くなるというものである。

具体的な例で言うと、 ダチョウ倶楽部 出川哲朗のリアクション芸はそれ自体よくよく見ると面白いという感じのものではないが、そのシステム自体が面白いということで全体が機能している。これはそういうシステムの理解が浸透するまで長い間の熟成期間を要するので、体現者は実はすごいやつなんだという認識が必要である。これについては最初からフルスロットルで一周している。

次に「スベった」状況、単純に面白くない状況において、気の利いた一言でそれを笑いに昇華させる方法もよくある。具体的にはなにかボケなりギャグなりをアクションして、それに対してなんらリアクションがないため(シーンとしてしまう)、自分で「すいません」的な文言を述べ完結させるものである。これは意図してそうなる場合(平たく言えば寒キャラ)と、やむを得ずそうしないと収まりがつかない場合とがあるようである。。これについてはまず「笑うか」「笑わないか」という、いわば半周の状態を通過してから一周する。

そして時間をおいて面白くなるというのは、段々とその対象についての「笑い方」が理解されるという要因が関係している。よってこれについては幾分説明が必要な場合もあるし、最悪「面白くないもの」として過去の汚物のように葬り去られることにもなりかねない。具体的にはドリフの笑い声がある。本来誘い笑いを誘発するために挿入された「機械的なババアの笑い声」が、一度は誘い笑い故に白けてしまうという問題を出しながらも、それが一周すると「誘い笑いが挿入されている事自体が面白い」という風に転ずることもあるのだ。これについてはまず「笑わない」という状況からやがて一周する。

以上のような「一周した笑い」というものは、まずその状況を笑いの対象とするか否かという点で人により大きく異なるため、場合によってはオーソドックスな笑いに比べてわかりにくいものとなるのが欠点である。

つまりこれまで笑いの方法は大きく2つあった。一つは、多くの人にとって笑いのポイントは唯一であり、それについて理解できるけれども、そこから先「笑うか」「笑わないか」はその人次第であるというオーソドックスなタイプ、もう一つは、笑いのポイント自体がその人次第であるという変化球タイプの二つである。またこの二つに共通しているのはどんな形にしろアクションを起こす側が「笑い」を意図したものだという点である。

次回に続く