織田信長による伊賀忍討伐の生き残りである葛籠重蔵。時代は豊臣の世に移り、重蔵は俗世を離れて暮らしていた。そこに秀吉暗殺の依頼が来て、彼は依頼主の思惑を超越した、自己のための暗殺を決意する。一方同じく生き残りの伊賀忍風間五平は、忍者という隠密の殻を破ろうと、前田玄以に仕官していた。豊臣暗殺を狙う重蔵と、それを”豊臣臣下”として阻止する五平。対照的な両者を描く。
原作司馬遼太郎。ちなみにこれは直木賞受賞作らしい。原作は手元にあるがまだ読んでない。司馬作品はいくつかあるんだが、まともに読んだのは「竜馬がゆく」ぐらい。にしてもその面白さ、なにより分かり易さ・読みやすさはよくわかる。
膨大な数の人物が現れては消え、その把握がまず困難になりがちだが、司馬作品は人物が出てくるたびに前の状況をフィードバックすることはあまりなく、出てくるたびにそこで完結させる。なので周辺の人物関係にあまり執着することなく、しかもそういう自己完結的なほうが印象に残るので読みやすく感じるんだろう。
この映画はそういう原作に触れずに観た。重蔵と五平の他に主役級として女忍が二人登場するんだが、この女忍がイマイチパッとしない。重蔵以外の五平・女二人の背景を均等に描こうとしているので、ラストに壮絶な最後を遂げた五平を除く女忍二人はかなり印象が薄く感じる。それだけにもっと女忍を脇役に添えて、重蔵と五平の部分を厚くできればラストまでのストーリーがもっと観れたんじゃないかと思う。
それにしても凄いのはラス直前からラストまでの移ろい。重蔵が大阪城に忍び込む~五平の大花火、この辺までの緊迫感や話のつながりは面白い。五平バンザイ!っちゅう感じである。
終わりよければなんとやら、自分にはこの映画は面白い作品として原作を読むその時にフィードバックされるんだろう。
復活の日 ★★★★☆
1982年、人類は人類によるウィルスのために死滅した。世界中が廃墟と化す中、ウィルスが零度以下だと機能しなくなるという特性のために生きぬいたのは、南極にいた各国の調査団。人類の生き残りは彼ら八百余名だけである。人類は果たしてどうなるのか、スケールはやたらとでかい。
どうも自分には70~80年代のカドカワ映画が合うみたいだ。今のところ観た映画でハズレはない。まあそういう映画ばかり狙って観てるというのもあるが。最近も「リング」シリーズがヒットしたが、小説の映画化、そして時代の要求を刈り取る、こういうのは得意なんだろう。
それにしても、この映画はスタッフから演者までビックネームが連ねる。監督深作欣二、原作小松左京、撮影木村大作、音楽羽田健太郎、そして演者は、主役草刈雅雄、他の主役級はすべて外国人なんだが、脇役に緒方拳、渡瀬恒彦、千葉真一など、もうすごく豪華なんである。これだけの演者に先ほどのスタッフ、いい映画に仕上がるのが仕組まれてるような感あり、それに被さるは小説家の原作。万全である。外国人演者もかなり良くて、中には「人間の証明」のあの刑事もいる。
肝心のストーリーはしっかりした原作があるので面白い。しかも原作映画の必然であるハショリについては、この映画は2時間半をフルに使い、肝心な部分は遠回しで見せ、ハショれる部分はニュアンスで伝える、これも監督のなせる技で見てて間延びしない。
世に数ある大作のうちそれがポシャるか成功するかは、大作ゆえの自己主張がいかに押さえられるかという点も大きいと思う。この映画では主人公をヨシズミ(草刈雅雄)にしぼり、名優を名脇役として花を添えてもらう、後はスタッフが仕上げる、こういう連携のなせる技でかなり面白かった。ラスト、「Life is ・・・・・・」これがくるとわかっていても感動してしまう、これは面白いという証拠だ。
ただいかんのが、日本映画だけども外国映画ともいえる外国人演者の多さ、それに伴う字幕の多さ、その字幕がメチャクチャ見づらく、これはどうしようもなかった。そんな戸田奈津子系字幕係に-1。
地雷を踏んだらサヨウナラ ★★★★☆
カンボジア内戦において行方不明となった戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の話。
まず見終わった率直な感想として、カンボジアに行きてぇなと思った。一ノ瀬泰造を写真家として駆り立てたアンコールワットを是非見てみたいなと単純に思った。現実に一ノ瀬が最後の最後にアンコールワットの写真を撮ることができたのか、それはわからないが、映画での終わり方は結構好きだ。
当時でもポル・ポトを中心としたクメール・ルージュの凶暴さ、気にくわなかったらすぐに殺すという情報は伝わっていたはずなのに、それでもクメール・ルージュの本拠地に向かわざるを得ない心境、それはまったく理解できない。命を賭してまでせねばならないことは今のところ、無い。それは多くの人がそうだろう。
一ノ瀬が、ただアンコールワットを撮りたいというのならなにも戦争中で無くてもいい。彼が撮りたかったのは戦争中の、クメール・ルージュの象徴としてのアンコール・ワットなのだろう。物語でも描かれているように、戦場カメラマンに求められるのは感傷的な写真だ。しかし彼を突き動かしたのは、戦争はダメ、カワイソウという感傷的なものではなかった。彼がフリーの立場で撮りたいものを撮る。たまたまそれが戦場だったなんて言うと聞こえがいいが、本当にそうだったのかもしれない。
双生児~GEMINI~ ★★★★☆
軍医として戦地で活躍した雪雄は、故郷に帰り医者として人々から信頼される存在である。帰郷の折に出会った妻おりんを実家に連れてきてから、雪雄はこの家に何者かの存在を感じる。具現化された光と影、それが解け合い入り交じる様を描いているのだが、じりじりわき出る恐怖感が痛い。
雪雄が井戸に放り投げられてから、捨吉が雪雄になりすました時から、お互いの存在の入れ替わりのようなものは始まっていたんである。自分の同胞が貧民窟で生きてきたと言うこと、また今の自分がその捨吉の手にゆだねられている、雪雄は捨吉に激しい憎悪を感じてしまう。また捨吉はおりんとの関係から、だんだん悪で無くなっていき、ついには雪雄の手にゆだねられる。そして足のあざは消え去り、多分雪雄に乗り移ったのだろう、最後は雪雄が貧民窟に消えてゆくのである。
見所は井戸でのやり取り。光と影をうまく演じわけ、またその融合具合も見事だと思う。雪雄が雪雄でなくなり、捨吉が捨吉でなくなる。これを映像に納めるのに、なんだか芸術チックなものを感じた。
北北西に進路を取れ ★★★★☆
広告屋のソーンヒルは、カプランという男と間違われて、ある男に拉致されてしまう。殺されそうになりながら、辛くも生き延びたソーンヒル、自己に及んだ厄災の原因を突き止め、拉致した男をみつけだそうとし、キーキャラ「カプラン」とは何者かを捜しに出かける。
展開に御都合的なものはあるけれどもそんなのは枝葉末節、話が進むにつれ盛り上がるように常に盛り上がりを持続させるようなストーリーがまず凄い。物語の序盤にいきなり主要キャラが多く登場し、しかも拉致した側は所々しかその後出ないので最初からとまどってしまう。イマイチわけがわからぬまま物語は進むうちにまたいきなり重要なシーンがなにげなく出される。
そうして、クライマックスに近づくにつれ前のシーンを思い出す、前後関係のつながり、おおおおお!なるほどなるほど。あとは自動的にハッピーエンドへ。ヘコミがない。
21世紀、現代に生きる者がこの1959年製作の映画を楽しんで観れるのは、恐らくこれがこの後の映画作りの教科書的作品になっただろうと思えるから。現代の映画でも脚本骨子はこの方法が主流だと思う。そのオリジナルがこれ。青は藍より出でて藍よりも青いのだが、やっぱり藍も青いんだな。
鳥 ★★★★☆
ある女性が九官鳥を買おうとペットショップへ。そこに偶然男性が入り、彼らは運命的な出会いを感じる。そうして女性は彼のもとを訪ね、ダンガ湾へ。彼に会い、彼の家族に会い、いよいよ気分が高まってきたときに、鳥の反乱が始まった・・・!
鳥パニック。一言で言えばこうなんだが、果たしてこれはパニックムービーなんだろうか?鳥が襲いかかってくるシーン、とても怖い。これは建前的なホラー映画ではなしえない純度の高いリアルさを兼ねた恐怖表現なので、いっそう感じるんだろう。我々の身近にいる鳥、まあ普段からカラスには警戒心を持つけれども、この映画のように徒党を組んだカラスたちをいざヴィジュアルで見せつけられるとそれはそれはもう、ゾッとする。
これだけじゃない。結局最後まで鳥パニックの原因らしきものは語られず、さらにラストはかなり尻切れた感あり、ヒッチコックさんよ、これは現代人へのメッセージなのか、うぬらで考えよっちゅうことですか?いやいや違った意味でビックリしたラストですよ。
考え得るのは、女性と彼の母親との心情の移り変わり、そしてラストにしたがって随所に抜かれる女性がプレゼントしたインコ。どうもこの辺があやしい。女性と先生とのやりとりにも、母親の気難しさは語られていたし、映画のはじめから怪しげな鳥の抜き画は何回も観られる。非常に気になった。
怖い、そしてなんだこのモヤモヤ?時間をおいて再見だ。
レザボア・ドッグス ★★★★☆
ギャングのジョーのもとに集まったブラック・ホワイト・ブラウン・オレンジ・ブルー・ピンク(仮名)の6人のチンピラ。彼らは宝石強盗を計画するが、ある一人の裏切りで計画は頓挫、互いが互いに文句をタレる最悪の状態に。刑事は誰なのか?そしてどうなる?
クエンティン・タランティーノ監督作品第一弾。これが後のパルプフィクションにつながるとして見ると、なるほど一作目からそのテイストは溢れている。
まず手法としての時間ずらし。物語の随所に各人物の場面を織り込み、また会話のニュアンスにストーリーの骨子を入れることで、それまでの経緯、その人物の過去などが無理なくわかる。導入が全然わざとらしくないっちゅうこと。
「小話はディティールにこだわれ」とニグロの刑事は言ったがそれは映画についても言える。タランティーノ作品のどうでもいい話、小話のおかしさはそれだと思う。オープニングからそれだから、しかも「like a versin」はデカチン好きなヤツの歌だなんて面白すぎる。またそれについてギャングのおっさん達が真剣に話す、時にはブッ殺す、妙な部分にこだわりがある。
肝心のストーリーは登場人物の言葉で語られ、映像には映し出されない。この映画では人物の描写重視、それだけにラストの破綻ぶりは痛ましいほどだが意外にサバサバした感じだった。
黒い家 ★★★★☆
昭和生命保険に勤務する若杉のもとに女性の電話「自殺でも死亡保険金入るんですか?」。その後、菰田重徳という男から呼び出しがあり、行ってみると子供の自殺体が。前に電話した女性とは、重徳の妻、幸子だった!子供は自殺か他殺か、こいつらフツーかサイコなのか、そして若杉はどうなる?
金融腐蝕列島といい、当時の新作であるISORAといい、このころの角川映画は現代社会に現実にあるヴィヴィッドな問題をテーマに映画製作を行っているようだ(たまたまかもしれんが)。金融~は銀行の不良債権問題、ISORAは多重人格、そしてこの黒い家は保険金殺人のサイコパス。ISORAは観てないのでなんともいえないが、これらの近時のテーマをプロモーションには巧みに使いつつ、いざ観てみるとただの話題性だけでない、作品としてしっかりとしたものに仕上がっているのもまた、角川の特徴である。
配役が面白い。ピカロの菰田夫妻に西村雅彦と大竹しのぶ。キレたサイコ野郎として西村雅彦はもうそのまんまOKだけども、大竹しのぶはちょっとどうかと思った。大竹といえばいいお母さん、若い頃を知らないだけにそういうイメージがつきまとい、こういうサイコ野郎はチョット無理あるんじゃなかろうか、こう思ったわけだ。
しかししかし、西村雅彦の印象をナシにするほどサイコである。逆にこういう映画にも関わらず西村がオーバーアクションに見えるほど内面的サイコをすばらしく表現している。段々と彼女がテンションをあげていく様、それまでの経緯からくる怖さなど、すばらしいもんだ。同時期に「鉄道員」を撮ってたんだから、幅は相当広い。大竹しのぶは凄い。
そして相対する若杉、こちらもテンションが高い。顔が面白かった。
演出として、「いつか観た風景」を後半で両極端的に出す効果(便所とか)が映画の怖さを増幅している。ホラー映画はほとんど観ないので、これが斬新かどうかわからないが、これは怖かった。
ただまあ、サイコ野郎に「シャイニング」があるが、こちらは場面(ホテル)が醸し出すサイコな雰囲気、最後までなんだかよくわからなくて怖さ満点なんだが、本作は精神分析なんぞがこれ見よがしに菰田夫妻の心理を説明する、いわばサイコの説明があって、それより周りの状況から観る側に嗅ぎ取ってもらう方が面白いんではないかと思った。
それと死体は映し出さなくていいんじゃないか?若杉の表情とかで、観る側に想像させた方が凄いものだし、死体が人形とかだと「うまく出来とるな~」「あすこ変だ」とか、少し引いてしまうのです。
金融腐蝕列島 -呪縛- ★★★★☆
朝日中央銀行の総会屋への利益供与が明るみとなり、頭取一同トップの行動が問題となった。その中ミドルクラスの北野・片山らが主導し、頭取人事からメディアアナウンスまで、旧態依然の呪縛から逃れようとする。時代の産物か、それとも時代の臭いを紡いだ作品なのか、それは己の目で確かめよ!
金融ビッグバンをモチーフにした映画である。現実の金融機関は、不良債権を公的資金で賄うという「社会性」をタテにした愚挙に及んだようだが、当方税金未だ払わずの身、「国民の税金が私企業に使われるんですよ」こういう声も甚だ耳に遠い。あっそう、だってしゃあないだろ、後で返しゃあいいじゃねえかてなもんである。
大体の原因が、異常な状態(バブル)に酔いしれた金融機関、歯止めをかけない管理側(MOF)、酔いしれた金融機関とともに酔った大衆、もう総懺悔するしかない。その過去の廃棄物を処理するのが現在であり、その現在ちゅうのがイカンといってるわけだ。しかし搾取されるのはいつも大衆だし踊らされたのも大衆。しょうがない。とにかくなんでもいいから、こっちは負の遺産を処理した汚くない状態で次代に渡して欲しいと思うておる。
現実ではなし崩しに呪縛をときはなった(一部)ようである。さて本作では、いささか過剰演出のシーンも多いがそれがまた呪縛を解き放とうとするパワーを物語っているようで、少なくとも変わろうとしている体質のもどかしさ、難しさを全体的に緊迫感ある画で映している。
特に株主総会、孤軍奮闘の新経営陣とミドルクラス、彼らの変わろうとする姿勢に感化された株主の姿勢、これはもう単なる時代の産物でなく、北野を中心とした革命者の闘いを描いた作品として見応えがある。
ただこれは、朝日中央銀行が呪縛を解き放つというものでなく北野という男の奮闘の物語と見て取れる。それだけ登場人物が膨大で、彼らの心情も浮き彫りにはされない。結局北野は呪縛を解けたのか?それはラストが物語る。
バッファロー’66 ★★★★☆
刑務所から釈放されたボーン・ブラウンは5年ぶりに親に会いに行く。彼はその5年間、政府の仕事に就いているとウソをついていた。ボーンは帰路、女を拉致してウエンディと命名する。ウエンディに妻を演じさせ、二人に奇妙な関係ができてくるのだが、やがてボーンは服役の原因となったある人物を殺しに出かける・・・。
ヴィンセント・ギャロ脚本、監督作品。調べると彼はアナスイとかのモデルでもあり、画家でもあり、本作のような演者でもあり、またバンドマンでもある。ヴィジュアルも格好良く、さらにマルチな才能があるんだから、もう羨ましいを通り越して、これからも頑張れよ、って感じには素直にはならない。
この映画、会話の一つ一つや手法はとても面白い。特にグーンとボーンの電話はおもろい。しかしストーリー全体をみればとっても悲しいのである。ラストはある種のハッピーエンドになったが、あれがハッピーエンドで終わらなければ、ヴィンセント・ギャロちゅうヤツはマルチなくせにこんな陰湿なのかいって思ってしまうところだった。
而してそのハッピーなエンドに至るまでの話、これは見ているうちに段々きいてくる。ボーンがあまりにもかわいそうで目も当てられないほどに。そのバックグラウンドは恐らく両親にあると思うが、ボーンが「親友」というフレーズを多用するのがなんとも痛ましい。
そこに表れたのがレイラ=ウエンディである。このクリスティーナ・リッチという女優、良く言えばグラマラス、否デブで短足の女なのだが妙にかわいい。全身みると「デブってるな~」「足みじけ~な」とか思うんだが、あの顔とあの体型が妙にソソる。
この女はボーンに拉致られるということになんの抵抗もなさそうだし両親にも愛想良い。同情が愛情に変わったなんて単純なもんじゃないが、とにかくボーンをほっとけない気持ちになったんだろうか。それはボーンの表面的には表れない優しさ、誠実さをレイラが感じたのかもしれない。
そういう顛末で、悲しさ全開の男ボーンがハッピーエンドに終わった。正直よかったよかったと思いました。ほっとしたと言おうか、ハッピーということに賞賛を送りたくなるほどだった。それだけでこの映画は満足。爽快感さえある。平たく言えば、ダメ人間がハッピーエンドを迎えたことがうれしかったんである。
満足のまま幕は下りた。刹那、日本のプロモ会社の宣伝につぐ宣伝。写真大会、パンツプレゼント。そんなもんんいらんのじゃ。そういう輩に-1。