未成年者の退廃がもたらしたとされている、大人が抱く子供への恐怖心や社会情勢の不安に対して、国家的な実験が行われる。少年少女が殺し合いを行うことを目的としたBR法。少年七原くん曰く、「なんでそんな簡単に殺し合うんだよ」
まずこれは間違いなく土曜ワイド劇場とかに登場しません。R-15というのは置いといても、学生が拳銃を撃ちまくり刃物で首を切り裂く、血がブシャアアアア、その殺しの描写というのがもの凄い。派手とかそんなんではなくエグい。ヤンエグ。
彼らのオーバーアクションが、こういうわけのわからぬ殺し合いの状況に置かれているということで逆に真に迫り、たまに引いてしまうこともあるけれども、総じてこのオーバーアクションが成功してる。それはただワーワーキャーキャー鬼のブギウギだけではなく、今際の際の「愛してるぜベイビー」的な臭さも全然ゴリ押せてしまうほどもの凄いハイテンションなノリだ。
ハイテンションってすごい。なんでもありになってしまうとこがいい。結局は主人公チーム(あの3人ね)の視点になるんだが、それまで数々の権謀術数、それは相当ショボいのだけどもそこはテンションで押し切る。逆に言えば極端なハイテンション野郎の、ファンデーション使ってない女とか、安藤政信のようなマーダーペニセストはかなりいい。彼らがいてくれてこの映画がある。ペニセスト同士の決戦はなかなかだった。
この前提の下においしいのがやはり主人公チームだ。最後は「やっぱ友情だよな」で締めくくるのがいい。こんだけ殺しといてそうもいかんだろうとは思わない。これはキン肉マン的友情に近い。戦い、戦い抜いた末にたどり着いた場所、それが友情だ!いや、「ゆうじょう」だ。ひらがなだ。
殺し描写が突出してた。深作欣二してた。つまり、やっぱ人は人を殺しちゃいかんよなと正直思う。間違ってもこれ見て「よし、ぶっ殺すぞ!」と意気込めるのはテロリストだ。銃を取れというメッセージはぶっ殺せと言ってるのじゃない。闘えと言ってるんだろう。主な登場人物は、いやもうキタノでさえも少なくともなにかと闘っている。表面的なブシャアアアアで一般的にはNGだけども、今と闘え!というメッセージはビンビンに感じた。それこそ「ガンバレ秋也」である。
ただこれはテンションでは無理だろうよおっかさんと思えるシーンが、特にテンションという武器をなくしたラストはどうもグダグダ気味、さらにこれはどうしても話に没頭できなかったことが、あのパソコン少年が活躍するシーンと、うさんくさいクラッキングの有様、あれなんかもっとこういい感じにならんものかね。
高橋名人の冒険島
このゲームは個人的に因縁の深いゲームである。まず筆者が小学生の頃、ファミリーコンピューターを親父殿に買ってもらった際に本体と同時に買ったのが「忍者ハットリくん」と「冒険島」。どちらもハドソンで、なぜか「ハットリくん」の方がミリオンセールス。そして小学生当時、当然極めるぐらいやりこんだ。
時は流れて大学生。学生寮にいた頃前から置いてあったニューファミコンとの運命的な出会いを果たす。さらに燃えないゴミとして出されていた大量のファミコンソフトを発見。オレには宝の山に見えたさ。
学生寮も退寮間際、ふと深夜「冒険島」を久しぶりにプレイ。適当に緩くやってそのうち止めるつもりだった。ところがやってみると高橋名人は健在。パンツ一丁に帽子というサイケデリックな格好だ。そこへ後輩が一人フラっとやってきて交互にプレイする。
・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・。ムズい。こんなはずか・・・?さらに眠い。
・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・。そして決断。
「電源付けっぱなしで寝ちまおう!」
知ってる方も多いだろうが、ファミコンはとかく接触・振動に弱い。寮という共同生活の場なので、事情が事情、全員理解と協力の上バグ防止につとめた。その結果、
3日間ぶっ通しの電源入れっぱなしで見事クリア。長い長い闘いの果てに我々が見たものは、ショボすぎるエンディングと(ブルーバックに文字の羅列)、ブロックの全員で果たしたというキン肉マン的友情であった・・・!おわり。
以上のように思い入れの深いゲームだが、その内容はパクリである。オリジナルのワンダーボーイ(確かセガ)は様々のハードで長年にわたってパクられ、この「冒険島」もゲームシステムはそのままに、キャラが当時チビっ子のアイドルだった高橋名人なだけである。
基本的に面クリ系のゲームで、名人のアクションはジャンプと斧投げ。斧のパワーアップに炎。そしてスケボー。単純である。この単純さゆえ万人受けするのか。そしてもう一つのフィーチャーとして体力がある。名人は常時食料を補給しないと力つきてしまう。画面上部の目盛りがそれである。
なのでゲームの進行としては、食料を取りながら武器を投げ、飛びはね、名人を進めていくというアクションゲームの王道を突っ走っている。まあはっきりいってやってることはメチャクチャである。
アクションのお手本のような「攻撃しながら面クリ」というものなので、そっちに特徴はない。特徴はやっぱ名人。高橋名人といえば疑惑の16連射、シュートのイメージが一般に強いが、いやいやこういうキャラゲーも多いのである。この高橋名人シリーズはハードを越えて通算5作出てるし、他にも「Bugってハニー」という、おめえがバグってんじゃねえかよ、という内容のゲームもだしている。
このように、高橋名人はハドソンがアクションとシューティングとコロコロコミックのメディアミックスでファミコン市場を席巻していた時代の産物であり、本来時代とともに消える宿命にあった。しかし今もハドソンで地味に開発してるらしい。ありがたや。
1.キャラゲーとして侮るなかれ!
このゲームは8面構成、各面はさらに4ステージ構成の合計32ステージあるんだが、面が進むに連れて驚異的に難しくなる。小学生の時、思えばこんなキチガイじみたゲームをやりこんでたんだから当時は凄まじい。なんでもありの時代である。特に各面のラストステージ(例えば6-4とか)が異常にムズい。蜘蛛がその原因だが、ジャンプのタイミングと長さがかなり微妙な配置の連続で、しかも武器が取れないのでジャンプでかわしていくしかない。発狂寸前。
2.ハチスケ!
ハドソンの初代マスコットである。1-1のラスト、1-2に入るゴールの寸前、何も無いところでジャンプすると卵が出現、割るとハチスケがでる。これを取らないとコンテニューができない!コンテニューの方法はハチスケを取って、ゲームオーバー画面で十字キー+Bボタン。これは必須。死にまくるからね。
3.がんばろう。
最早言うことはこういうことしかない。つまりゲームをやってコンテニューしまくるうちに、名人の操作を繊細にマスターしていくことである。そうしないと後半の面で通用しない。特にショートダッシュからのハイジャンプ、これはマスターすべき。習うより慣れよ、である。
よくもまあこんな単純なゲームに三日もかけたなと思う。否、単純さゆえ我々を熱くしそのエキセントリックな難易度がゲーマーとしてのファイティングスピリットを滾らせた。滾っちょる。そしてゲーマーが二人結集すると、三日という不毛なパワーを生み出すようだ。このゲームはゲーマーとしてのアイデンティティの再確認、ゲーマーとは如何なるべきか、それを模索するのに良好なゲームである。
余談だが、ノーコンテニューで8面まで行った、グスタフソンというエキセントリック鳥の巣野郎もこの世にはいる。
VISUALBUM ★★★★★
りんご編・・・・・システムキッチン/げんこつ/古賀/「都・・・」/ミックス
バナナ編・・・・ずるずる/マイクロフィルム/む”ん/いきなりダイヤモンド/ゲッタマン
ぶどう編・・・・・診察室にて・・・/寿司/巨人殺人/荒城の月/園子
松本人志企画・演出・脚本のコント作品集。セルビデオとして発売。その背景として、「ダウンタウンのごっつええ感じ」をやっていた時、その予算的・時間的・人間的制約が元で、納得のいくコントが作れないと言うことを日頃から感じていた・・・というのがあるらしい。
「ごっつ」をやめざるを得なくなったきっかけが、放送が予定されてた日にテレビ局側が急遽プロ野球の優勝決定試合を断りもなく放送したこと、「俺らの笑いは、そんなどうでもいい野球なんぞに劣るんかい」っちゅう理由で松本ブチキレ、「ごっつええ感じ」終了。・・・人間的制約が一番の問題だろう。
後で三谷幸喜も言っていたが、ライブ的作品に必然として生ずるアドリブのボケ、仕草などをカメラが映像に納めている、これが人間的制約がないっちゅう事だろう。さらにコントに欠かせない小道具、これは笑いが好きな種類でないと演者の想いとかなり離れてしまう。これも人間的制約。
今思えば「ごっつ」の制約はあまりに大きい。一週間で1時間番組という決まり、その内容は「チームファイト」というゲームみたいなコーナー・野球・選挙シュミレート・大食い・その他一発企画もの、そしてコントである。
コントについて言えば「キャラもの」が多かった。キャラありきで、毎週毎週ボケをマイナーチェンジさせれば長持ちするし、作るのに効率的なんだろう。しかしだ、それも面白いは面白いが、一番最初の衝撃、これはもう一辺限りなんである。毎週毎週面白さは薄れていくだろう。これは時間的制約。
金銭的制約は、やっぱ予算だろうな。テレビでは「巨人殺人」なんてカネがかかりすぎて作れない。「チームファイト」は明らかにコントより安いだろう。
と、このような制約を解き放った本作、一体どうなんだろう?
本作には、いろんなタイプの笑いがある。「げんこつ」「ずるずる」「マイクロフィルム」「荒城の月」のように、思いっきり下ネタで、それが逆に全然ヤらしくない、むしろそれぐらいさらけ出されると気持ちいい。例えばずるずる。「切らんとあかんネー」「え~・・・・・チンチンを、」「そうチンチンを」是非映像で見て欲しいが、この笑いはなんだか爽快感さえある。
要は下ネタオンリで笑いを取ろうとはしていない「下ネタ4割」の笑いなのである。マイクロフィルムは出てくるモノそれ自体が笑いだし、荒城の月は字も含めたヴィジュアルとしての笑いである。
その他笑いどころや話の筋が分かり易いモノも何本かあるが(寿司など)、ここでしか見れない作品に触れたい。それは俺が思うに「システムキッチン」「古賀」「いきなりダイヤモンド」「診察室にて・・・」、この4本。
その中で、システムキッチン。一本目(りんご)の一作目がこれなんだが、挑戦状のようなコントなんである。この作品に所謂「ボケ」はない。恐らく万人が万人笑いどころが違うと思う。人によっては全然笑えないだろう。それぐらいやばい。
おすすめは上の他、「都・・・」「ゲッタマン」とかか。実は何遍も見たのはシステムキッチンとゲッタマンだったりする。「カラン」とか、毒アゲハ人間のおはぎ、衣装さん、何遍見てもおかしい。
キャラありきのコントは信用しちゃいかんぞ!!
ナチュラル・ボーン・キラーズ ★☆☆☆☆
現代版ボニー&クライド。ミッキーとマロリーは、誰彼かまわずブッ殺しまくる猟奇殺人者として警察に追われるが、マスコミの過剰な報道により彼らの行動はカリスマ性を帯び、やがて彼らもそれに酔いしれる。警察は威信に懸けて逮捕したが、それはナチュラル・ボーン・キラーを呼び起こすきっかけにすぎなかった・・・。
クエンティン・タランティーノ脚本作品。監督はあのオリバーストーン。自分の主張を作品に盛り込み押し付ける弘兼憲史みたいなヤツだ。なのでこれは純粋なタランティーノ映画とは言えない。
この映画は友人が言うには、アメリカのメディアの異常な過熱ぶりを皮肉った「意味付け」のある映画らしい。
しかしねぇ、自分が見た時はそういう事前の情報、例えば宣伝広告とか見てないのでそんな押し着せの主義主張なんか、いざ映画を観てるときに感じ取ろうとか考えてないわけです。そんなのどうでもいいわけ特にこの映画は。俺の印象では題字通り「とにかくブッ殺しまくろう!」っちゅうことなんだから。
例えばオリバーストーン作品に「プラトーン」があるが、それはテーマそのものがベトナム戦争、いわば主義主張の塊。だからプラトーンは絶賛された。当時中学生の自分も少なからずベトナム戦争を考えたよ。ええ。
そう考えたのも束の間、せっかくのタランティーノのいい脚本骨子がオリバーストーンの過剰演出の前に砕け散っている。例えばマロリーがナイフを投げるシーンで瞬間的にナイフの動きを遅らせる演出、そのためにBGMをロックからクラシックみたいなのに変えるんだがこれがたまらなく古くさい。嫌になる。さらにマロリーとミッキーの出会いをこれも皮肉だかなんだかしらんが、テレビのどうでもいいコメディ仕立てにしている。これなんか最低。死にたくなる。
そうなると映像からなにから全て古くさく見えてくる。これは時代的古くささでなく、いかにも斬新さを狙った演出が見ていられないほどに古くさく感じるというものだ。これは最初から最後まで、とくにクライマックスの刑務所長が締め上げられるまで延々と垂れ流される。
オリバーストーンも題材によるなと思った。この映画はマスコミの過剰演出が反面のテーマなので、自らも過剰演出してみたのが裏目った。タランティーノが撮り直さねえかな。
RONIN ★☆☆☆☆
戦争・冷戦がなくなり、必要の無くなった戦争のプロが、雇われ殺し屋となる。そんな折、とある雇われ殺し屋にスーツケースを奪うという依頼が来たのだが、それが大きな災いとなる・・・。
題字のごとく主役は現代の浪人(たぶん戦争とか冷戦とかなくなっていらなくなった人達)で、ある人物に雇われてスーツケースを手に入れようとする。そのスーツケースを色々な組織や国家が狙ってて、そこに裏切り、欺きなどがあるという、・・・・・まあなんというか題材としては分かり易さ全開だ。
浪人役の中に本作の目玉であるロバート・デ・ニーロとジャン・レノがいて、まあどっちがメインかと言えばデ・ニーロになる。というかこの映画は凄くデ・ニーロ臭いのである。まず題材が「奪い合い」。当然戦う。どうやって戦うかというと銃火器。バンバンバンバン。で一通り撃ったら逃げる。どうやって逃げるかというと車。そこには当然カーチェイス。カーチェイスにつきものの市民の逃げる様。店の品物をブチまける。延々この繰り返し。そうはいっても2~3回しかないけど。でラストに近づくにつれて、裏切り+欺きが増える。当然バンバン+カーチェイスも。
でラスト。特になんもない。予想通りハッピーエンド。デ・ニーロandレノ組の勝利。
ここまで淡々と書いたが、ほんとに何の感慨もない、爽快感もないふつーの作品という印象を受けた。こういう類の作品は雨後の竹の子の如くあるし、それの頂点にあると思う「ヒート」(確かこれもデ・ニーロ)を高校の時ぐらいに見てるんで、今更どうともないのはまあ自然ですな。
例えばこれが映画見るの初めて、とか言う人なら楽しめるのかも知れないが、如何せん自分は最早スレているので、なんもなければ素直には見れませんな。
いや例えば「普通さ」を狙った作品なら十分楽しめますよ。でもデ・ニーロ出てんだもん。もうなんというか分かり易いんだよ。
2時間返せとは言わないが1.3時間ぐらい返して欲しい。
マトリックス ★★☆☆☆
コンピューター関係の会社に勤務する普通のビジネスマン、○○はある日自分が狙われていることを知らされる。思いつくフシはハッキングぐらいのもんで、命の疑いには及ばない。しかし事は彼が思い描く「現実世界」とは別の「現実世界」、真の生身の人間が生きる話の事だった!本当の現実世界と、現実だと思っていたマトリックス、これが虚構と現実を徘徊するような話だったら面白そうだが・・・・。
コンピューターグラフィックスによる視覚効果をフルに活用した作品として話題になった。確かに素晴らしい。グニャグニャ動いたり止まったりオーバーラップしたりと、まあすごいすごい、ハイハイってなもんで、こう言いたい。「てくのろじいとかいうもんをみるためにえいがみてるんじゃあないよ」
つまり、・・・・・話がものすごぉくつまらんのである。どうしようもなくつまらんのである。その上さらに”俺のつくったテクノロジー”オナニストがいたらしく、その映像は目も当てられない。
わざわざ凄さを見せるためにカラテだか拳法だかの組み手や対決をかなり長まわしで見せて、あからさまに「この動きすごいだろ?!」というオーラをバシバシに感じるのである。それはいいって。ブルース・リーがやってるから。しかもテクノロジー無しで。
ストーリーも単純きわまりなく、裏切り、展開、帰結まであからさまに読める。気付いてしまうとこの映画は退屈なだけ。見ないがマシだった。
世間一般論に流されてはいかんとはこの事か。
白痴 ★☆☆☆☆
長い長い戦争の中で人々の心は荒み、娯楽は国家が提供するテレビ番組だけだった。そのテレビ局で作家として働いている男、このような現実感のない今にうつろな彼が、一方で虚飾の権化であるテレビに虐げられ、一方では白痴の女にリアルを感じる。
手塚眞監督作品。新感覚ヴィジュアリストなどと呼ばれていたが、はたしてそのヴィジュアリストが映画をつくったらどうなるか、しかも主演は浅野忠信、これはなかなか面白いのではとの期待はあった。
しかし・・・・。なんというかその、方向はわかる。どうしようもなく見るに耐えない映像を頻繁に用いることでアイロニックにその現実を描いていること、その現実に気付いていてもどうしようもない側と、気付いてないのか気付こうともする気力すらないのか、甘んじて享受するしかない一般人ども、これを際だたせるための演出なんだろうかもしれんが、はっきりいってウザい。
あんなどうしようもないテレビ局でのシーンをこれでもかと長回しで見せられると、もうそれはそれは耐えられない苦痛になり、それのどこが新感覚なんだよと疑いたくなるほどの古くささである。仮にアイロニックゆえの古くささだとしても、それに対する新感覚的新鮮さの感じられる映像が全く見られない。
あの爆撃か?う~ん、確かにすごいけどなぁ。凄いだけ。
浅野主演の「孔雀」の方がよっぽど新鮮さは感じるし、つきつめるなら松田優作監督の「ア・ホーマンス」ぐらいのツキヌケ方が欲しかった。うんこだった。
リストランテの夜 ★★★☆☆
兄弟で切り盛りするレストラン。兄は職人気質で腕は立つ料理人で、弟が支配人である。兄のその気性ゆえ、レストランには客がめっきり入らなかった。弟はレストランの成功者の老人に教えられて、スーパースターをレストランに呼んで再起を図ろうとするが・・。
まあなんと言おうか、とくにこうおもしろいっ!ってほどでもなく、めちゃくちゃつまらんってほどでもなく、ふつうに見る分にはそこそこ楽しめるのではないでしょうか。
よく言えばよ!よく言えば!日曜洋画劇場にかなり向いてる作品だ。家族そろってボーっとみれる超安心ムービー。
あでもキスシーン結構あったな。実家にいた頃、当時はレンタルビデオ屋も近くにはなかったんで、仕方なしにテレビの吹替を見ていた。そん時も例えばこう、おお!ジョニー!なんてすてきなジョニーなんでしょう!たぶんアンタがジョニーって名前の男の中で、まあそりゃJonny be Good のジョニーには負けるかもしんないけど、悲しみジョニーよりは間違いなく素敵なジョニーってヤツよ!
おおおマリア!愛しのマリア!愛しの女コマンドーマリア!・・・・とかもう、ああなるほどね、もうすぐね、そうかそうか・・・・。・・・・・。・・・・・・。それまで座って見てたのを寝ころんで見るようにしたり、もうそういうシーンになりますサインを送られた瞬間、俺と姉ちゃんは暗黙の前提のうちに「互いの顔や仕草が見えないモード」にチェンジしたわけです。
そしていざまあそういうグッチョングッチョンなシーンをお互いの呼吸を計りながらやりすごそうと思いきや、親がやたらと反応しやがる。「あら~」とか「まあ!」とかならまだしも、グッチョシーンが長ければ「チャンネル変えろ」って言うの。
ありゃ~・・・。まあ確かに親としては「チャンネル変えろ」が正統派の親かもしれんけどさ、その昭和バンカラ派のサインはつまり、肯定。そう、肯定したことになるのよ!ねぇアンタ!そこまで含んでその合図かよ?
もちろんそういう含みはなく、親としてただもうその場をやり過ごしたいがために彼らは極めて適切なパスを送るのだが、確かにそのパス正しい。正しいけど、点には結びつかないよって当時は思いつつチャンネルを変えていたものでした。
なんだかんだで長くなった。終わり。
鉄男 ★★★☆☆
男あり。ほほの所になぜか鉄のような突起物が・・・。
気持ち悪かったです。おわり。
狼~男たちの挽歌 最終章~ ★★★☆☆
殺し屋(チョウ・ユンファ)は、ある殺しの依頼で関係のない女を失明させてしまう。彼女に視力回復の手術を施すため、殺し屋は大金のかかった殺しを、これが最後に引き受ける。しかして依頼主の裏切りにあい、仲間の裏切りにあい、警察にも追われる殺し屋。バイオレンス友情?ガンアクション。
香港のバイオレンス監督、ジョン・ウー作品。シリーズものの最終から見るという筋にはずれてしまったことをしたのだが、過去のはなしとの繋がりらしきものはないので、すんなり観れた。
印象的なのはアクションシーン。まずかなりの割合で二丁拳銃を装備し、一人殺すにつき六~八発ぐらいバンバンバンバンバンバン~バンバンと撃ちまくる。これでもかっちゅうぐらい拳銃をハジくので、瞬発的な格好良さから、だんだん「こいつホントに殺し屋かよ」的猜疑心が生じてしまうのです。
俺が抱く殺し屋像はなんといっても一発で相手の脳か心臓をブチ抜く大胆で冷静な野郎なのです。それこそ殺し屋。この殺し屋もボートの上からターゲットを打ち抜いたのだが、まず一発目を脳にブチ込む。それに飽きたらず、二発目、三発目とブチ込むのです。まあ、用心に用心を重ねてということかもしれないが、やっぱ一発で決めて欲しい。
そうは言ってもアクションシーンの連続と、もう一人の主役とも言える刑事と殺し屋の対決シーンは凄い。特にラスト、なんだか友情なんか芽生えてしまって、たった二人で一個師団ぐらいのマフィアの軍団をブッ潰したんだから、友情ってすごいなぁっておもいました。