ワールド・トレード・センター ☆☆☆☆☆

9.11で救助活動中WTCの崩落にあい、生き埋めにされたNYPDの警察官二人とその家族の話。
見終わった率直な感想は「この映画は誰に対してどういう意図で制作されているのか」という強い疑問だ。9.11は地震や津波などの偶発的な災害ではなく明確な政治的背景を孕んでいるというのに、映画の本筋が「生き埋めにされた人の救助で感動的に仕上げる」つーのはどういうつもりなんだろうか。最後にテロップで明示されるが、死者は約2,800人、そして被災者の中で生存した者はわずかに20人、この状況で「20人の人が生き残った」という方に目を向けるような性質の事件ではないというのは、その後のアフガニスタン~イラクへの泥沼ぶりを見れば明らかなはずなんだが。
家族にしても、自分の夫が生きてるか死んでいるかすらわからない、雰囲気的には死んでいる可能性が高いという絶望的な状況、そんななかで「生きている」とわかったときに大喜びする気持ちはすごくわかるし、仮に自分が同じ立場ならばもうそりゃもう、今まで生きた中で一番嬉しいぐらいの大喜びになるだろう。「てめーさえよけりゃいいのか」その通り。当事者であれば、100%てめーさえよければいい。これは間違いないし、そこは理解できるんだよな。個人の感情の問題として。
で、それを不特定多数の人間が見ることを前提とした映画で描くって、どういう根性してんだこの制作陣は。前述の通り、ざっと生存者の140倍、この事件で図らずも死んでしまった人がいるというのに、そっちの感情を封殺し生きてる方で感動を醸し出そうとしたって、そりゃ無理な話だ。どうしたって亡くなった方の感情を慮るし、その点でも9.11は特別な出来事だ。
奇跡の救出劇ならこれでもいい。ただ「ワールド・トレード・センター」と称する以上、なんらかの主張はするべきなんだよな。映画でやるならば。救出ドキュメンタリーじゃないんだから。ドキュメンタリーだったら、当日たまたま消防署の一日を取材に来ていたフランスか何かのテレビクルーによるもの凄いリアル映像もあるしね。その点前に見たヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」は、9.11に対する作家の主張があったし、そこで自分も考えるものがあった。これは酷すぎるよ。

父親たちの星条旗 ★★★☆☆

1945年2月、硫黄島の戦いですり鉢山の頂上にアメリカ国旗を掲揚した兵士達の話。
上映時期は前後するが、前に見た「硫黄島からの手紙」が、日本側から見た硫黄島の戦いそのものをテーマとした、いわば戦争アクション映画だったのにたいして、こちらは硫黄島の戦い後、戦果を象徴するヒーローに奉られた兵士たちの、世論や時代に翻弄される様を描いたヒューマンドラマ映画として構成されている。そりゃあもちろんアメリカ軍の戦い方としては、1年前のノルマンディー上陸とほとんど変わらないような「力押し」、確実に総員の何割かは死ぬが確実に勝利を得られる物量作戦を選択していたので、戦争行為自体に特別際立った特徴はなかったのだろう。戦争の勝利というのが、最終的に地上部隊が進入してその地域を制圧して初めて達成されるという事は今も昔も変わらないのだが、昔の場合そのやり方があまりに残酷すぎる。
また興味深かったのは、本作では戦争とは全く関係のない形で死亡した兵士達についても描かれてあるということだ。戦争での兵士の被害の内極微少ではあるが、例えば不注意だったり、なんかのはずみで手榴弾のピンが抜けて近くにいた4~5人もろとも死んでしまったり、本作にあったようにドジな奴が海に落ちてそのまま救助しなかったり、というような本当にその戦争において全く、これっぽっちも意味のない死亡事例もあったんだろう。本人の名誉のために、それらは等しく「名誉の戦死」として伝えられたんだろうが、こういうのは見ていて戦闘での被弾による死よりもせづなさがハンパじゃない。なんなんだろうなああの人たちは。
ヒーローがプロパガンダに利用され翻弄されて自分を喪失するというプロットはたまに見るヒューマンドラマの体だ。ただし本作はそれが実話、しかも太平洋戦争末期の国債購入を呼びかけるキャンペーンの犠牲になったという、おまえそれ戦後の共産主義者との戦いを見据えた資金集めをその時点でやっとったのかという感情も相交じってしまった。日本の惨状に比べたら屁でもない悩み事だが、本人達にしてみるととても重要な事なんだろう。いや、見る順番間違えたな。「硫黄島からの手紙」のインパクトが強くて、それありきだとこっちは薄いわ。

ユナイテッド93 ★★★☆☆

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件でハイジャックされ、唯一目標物に激突しなかった飛行機の乗客・テロリストと、アメリカ空軍・連邦航空局(FAA)の話。
2001年9月11日(日本時間)午後10時頃、俺は実家の居間で家族と10時のニュースを見ていた。その当時10時のニュースと言えば「ニュースステーション(Nステ)」が一番人気で、実家でも通常はNステを見ていたはずなんだが、その日はどういうわけかNHKのニュース10を見ていた。で、今調べるとその日日本には大型の台風が接近しており、こういう自然災害系や選挙系のニュースのフォロー具合ではNHKに勝るものはないので意図的にNHKを見ていたのだろう。
そして突然、炎上するWTCが画面に映し出されたのである。刻々と被害が広がり、リアルタイムで見る飛行機の激突、姉か母が確か「こいは戦争たい(方言)」と言った気がする、そして最も鮮明に記憶にあるのが、激突でもWTC崩落でもなく、NHKアナウンサー堀尾が言った「これは映画ではありません。現実の映像です。」という一言だった。その後は夜明け頃まで各局をザッピングしていた記憶がある。今振り返ると、比較的映像録画が好きな俺がなぜこの事件の映像を録画しなかったのだろうか。それぐらい、衝撃がすごかったのかもしれない。以上俺9・11。
でこの9・11事件でハイジャックされた4つの飛行機のうち、2機がWTCの北棟と南棟へそれぞれ激突、1機がペンタゴンに激突、1機は地面に激突。ユナイテッド航空93便は地面に激突した飛行機で、唯一テロを遂行できなかった飛行機だとされている。本作では事件当時の朝の風景からリアルタイムで進行し、「いかにしてテロを遂行できなかったのか」という飛行機内部の描写と、突如発生した大規模なテロ攻撃に対し、政府・軍・管制塔・航空管理がどのように対処したのかを描くという、二つのシチュエーションから9・11を取り扱っている。
まずこういう映画を作る前に、(アメリカという事を勘案しても)ほぼすべての遺族や政府関係者などから映像制作に対しての同意は得たはずだろう。死者だけでも確か約3,000人、他にも現場にいて巻き込まれた人などその対象はものすごい数だったはず。その労力をもってしても尚作り上げた根性は凄い。だってこれ、日本に例えるならばオウム真理教の地下鉄サリン事件のもっとすげえやつだからなあ。サリン事件でさえ、テレビドラマで再現するのに10年かかった。この点は本当に凄い。
ただそこから先があまり無いんだよな。当然ちゃあ当然なんだが。こういう作品に映像作家の過度な主義主張は入れてはならない(この場合絶対に入れてはならない)し、しかもユナイテッド93の乗員乗客は全て死亡しているわけで、当時いかにテロを防いだかを詳細に描く場合、まず客室乗務員が普段どういうマニュアルで行動しているかという事から逆算し、さらに機内からの電話音声を分析して状況を把握するしかなく、そこはどうあがいても想像の域を出ないから、生々しい描写とはいかない。
また非常に薄くではあるが、テロに対処した政府と軍とFAA、それに現場でまさに運行スケジュールを管理している管制塔とのやりとりの不具合を描き、「もっと連携が取れていれば被害は小さくなったかもしれない」という意図が盛り込まれているように感じられたが、やっぱそれは無理な話だ。テロリストはモハメド・アタを筆頭にガッチガチのイスラム過激脳を持っており、そいつらが過去2年ぐらいで飛行機の操縦技術を習得し、ほぼ同時にテロ攻撃を実現したのだから。ここまで(テロ実行側にとって)成功するというのはよほど綿密な計画がないと無理だし、それを後手後手で処理しようとするのは厳しいだろう。
だから結局、映画としては当時の混乱ぶりと機内の状況を交互に描くしかなく、そこには映画である理由は特にない。これはテーマの限界である。
ちなみに、ユナイテッド93テログループでリーダー的存在だったメガネの男、結果からさかのぼると結局出発時間の遅れと彼が実行を躊躇し目標までの到達時間が長引いてしまったことがテロ未遂行につながったと思うが、彼は確かドイツ・ハンブルグに彼女がいて、テロ計画が立案された当時ほどガッチガチのイスラム過激脳ではなく、どこか自分の死(=現世での彼女との別れ)に対して躊躇・未練があったらしい。結構前ディスカバリーchで見た気がする。これは映画で確か触れてなかったので一応書いておこう。

硫黄島からの手紙 ★★★★☆

1945年2月、大日本帝国軍 vs アメリカ軍の戦争の話。
硫黄島の戦いを題材とした「父親たちの星条旗」と対をなす作品。本作では大日本帝国陸軍の視点からストーリーを構成しており、元パン屋で赤紙招集により激戦地に派遣された、やや戦争行為自体に懐疑的な一兵卒・西郷と、硫黄島の戦いの指揮官・栗林中将、この二者を主役として描いている。
1941年12月8日に開戦した太平洋戦争で、1944年6月までに日本軍はマリアナ諸島を全てアメリカ軍に占領されており、この段階で東南アジアからの天然資源の補給路を寸断され、B-29による爆撃範囲は東京・名古屋・神戸まで含まれるほどで、戦争の勝敗だけ見ればこの時点で決まっていた。つまり大戦末期の戦闘というのはいわば「いかにして負けるか」、その負けっぷりの奮闘により、アメリカから最大限の譲歩(≒大戦終結まで天皇制維持は断固として譲らなかった)を引き出すという、「負けて勝つ」の戦いだったのである。硫黄島の戦いは日本軍にとってそういう戦いであったと同時に、アメリカ軍にとっては日本本土爆撃をさらに進めるための拠点奪取の戦いでもあった。
史実映画というのは、ストーリー的な起伏よりも、その史実をいかに忠実に、しかも映画のある程度決まった尺の中で描いているかの方が重要だ。その点、硫黄島の防衛陣地構築風景から始まり、栗林中将の長期作戦、実際の戦争の経過もきちんと描いていて、こうして作られた実写を見るとアメリカ軍の物量作戦の強烈さ、また日本軍の(残念ながら)負け戦っぷりが非常によく分かる。そうすると自然な感情として「こんな事はやりたくねえな」と思うはずだ。これが戦争映画の存在意義であり、皮肉にも出来が良ければ良いほどその思いは一層強まる。
さらに史実についての理解も深まる。俺自身、栗林中将が米国に滞在していたという事や乗馬の金メダリストがいた事は全く知らなかったし、当たり前の話かもしれないが「硫黄島の防衛戦は手作業で掘ったんだ」と再認識したし、「上陸に際しては敵を十分引きつけた後、『メディックを狙っていけ』」という細かい作戦も知らないことだった。
地上戦の描写についてはハリウッド大作のなせるスケールというか、例えばこれ日本資本で制作されていたとするとほぼCGでやっつけたような地対空戦や戦車を交えた塹壕戦を、ドッカンドッカンの派手派手に作り込み、冒頭30分の静寂の中での防衛戦構築と対比する形でその衝撃はでかかった。「あーあんなスピードでプロペラ機飛んできて、地対空兵器があんな機関銃だけじゃあ、それじゃあまあやりたい放題だよなあ」と実写で見て分かるのは素晴らしい。艦砲射撃に耐える地下壕での兵士や、硫黄島の戦いでの最強兵器・火炎放射器での丸焼き、集団自決、アメリカによる捕虜の虐殺もきっちり描いていた。
ただいくつか気になる点もある。まず歴史を知らない人からすると、時間の流れが全くわからないと思う。あれでは穴掘りからアメリカ軍上陸まで一気に起きた出来事のようだ。またあの、西郷を日本刀で斬ろうとした中隊長のポジショニングがなんかわからん。たまーに出てきては「あー戦車が俺の地雷を踏んでくれなくてむかつくぜー」的な事を言い、そんならおまえ、爆弾抱えて戦車に突撃しろよと思ってしまう。別にいなくても問題はない。栗林中将を演じたハリウッドでたぶん一番有名な日本人、ケン・ワタナベも実際問題、あんま演技がうまいとは思えなかった。実戦になって全員がハイテンションになり、ある程度ごまかしが利くまでの冒頭30分や、途中に挟まれるアメリカ滞在中のモノローグなんか正直、日本のテレビドラマ級の演技だ。西郷の現代的な言葉使いもすげえ気になる。このへんは、アメリカ制作ということで仕方がない部分かもしれない。
当時の軍国主義meets天皇陛下万歳思想が軍にも一般にも浸透している中、バンザイ突撃することや「生きて虜囚の辱めを受けず」と潔く自決する事というのは正しい行為で、むしろ西郷のように「自分が生きること」を優先することは間違っていた。ただそれを現代の日本人が映画で見る場合、ほとんどは西郷の考え方を正しいと思うことだろう。
2時間弱という尺の問題から、当然描いていない描写もいっぱいある。日米双方共に約2万人ずつの死傷者を出したが、その惨状というのはこの映画からは見て取れない。硫黄島の戦いを理解するならば、本やドキュメンタリーを見た方がいい。ただ総じて見ると、戦いをニュートラルな目線で網羅的に描き、当時の日本軍がいかに負け戦で負けていったかを、活字ではなくインタビューでもドキュメンタリーでもなく、戦闘を実写で見ることのインパクトは相当なもんがあった。次回アメリカ視点で描かれたという「父親たちの星条旗」を見てみる。

ベルヴィル・ランデブー ★★★★★

ツール・ド・フランス出場中に誘拐された孫を捜してベルヴィルにやってきたばあちゃんと犬の話。
映像に偏重したストーリー構成、アニメならではの大胆なデフォルメ、登場人物のキャラ付けの細かさ・うまさ、BGMになっていない音楽の格好良さ、本作は全てにおいて非常に良くできたアニメ映画だ。実写では不可能な手法をふんだんに取り入れて、アニメでしかできない表現でよくぞここまで突き詰めたもんだと、映像メディアの強みを理解し活かしている姿勢は、なんか感動すら感じる。
作家の映像へのこだわりは冒頭から見て取れる。イントロシーンのベルヴィルでのショー、ストーリーにも大きく関わる3人組に続いて登場したのは、その昔奇妙な動きと腹立つ寄り目で映像メディア初期の人気者になった黒人ダンサーだ。名前は忘れたが、「映像の世紀」に登場したのを思い出した。次に登場したタップダンサーも恐らく、なんらかの人気を博した人物と目され、つまりこの監督はストーリーとは関係ない冒頭でこれらの人物を登場させることにより、時代背景の明示だけではなく、アニメによるカメオ、映像文化の歴史に対するリスペクトを表明しているのではないかと感じられた。
というのも、前述の通り本作はセリフらしいセリフがほとんどないのだ。映像とSEによる状況説明、主に目の動きにこだわった感情表現、デフォルメを多用することでデフォルメの奇抜さを標準的な表現とする大胆な体の動きを用いて、セリフが無くともその意図は伝わるし、敢えて制限を加える事は結果的に映像と音声それぞれの重みを増してくれる。
またそれは、キャラクター相互の「以心伝心」効果にも繋がってくる。親を亡くしたとおぼしき孫のために、なんとかしてやろうと試行錯誤するばあちゃんと、それに内気ながら感情を表す孫には、彼ら二人しかない世界の兆しが冒頭からすでに存在し、それに犬が加わりツールという目標が出来て、一つのまとまった小さな世界が生み出されている。主人の帰りを待つ間、いつものごとく定時の列車に吠えまくり、主人が帰ると制限重量に達するまで秤を一点見つめして自分の食事を待つ犬目線の描写からは、もう何年となく日々ルーティーンとして、彼らの世界を変わることなく続けてきている情景が浮かんでくる。一方で電車の中から吠える犬を見つめる「外の世界」の人々の視点がそれを示唆している。
そう、本作での犬はばあちゃんにイジられるよきパートナーとしてかなり強烈な個性を放っている。昨今犬は愛玩動物として、かわいらしさ、(何を間違ったかしらんが)賢さを売りにしているが、犬本来の愛嬌というのは本作で描かれた要素があればこそだ。つまり、愚鈍で、バカで、アホで、意地汚くて、カスッカスで、肛門丸出しでうろうろする、糞みたいな存在だからこそ愛らしいのである。
そしてもう一つの世界が例の3人組だ。自転車のホイールで音楽を奏でる事で、3人組に世界への介入を認められたばあちゃんから、見ている我々もばあちゃん越しに3人組の世界を覗くことができる。STOMPを彷彿とされる打楽器による音楽は非常に魅力的で、本作の見所の一つだ。すげーサントラ欲しくなるなあ。
セリフを省くことでの映像と音楽の融和、アニメのフル活用、思いがけずすごい映画を見てしまった。ほんと、素晴らしい。

ホテル・ルワンダ ★★★★☆

1994年、ルワンダで起きたフツ族によるツチ族への100万人大量虐殺の話。
1994年。・・・・・・・・・プレステとサターンの次世代ハード対決。おい、真っ先に思い出したのこれかよ。
当時日本で、「バーチャファイター(※IIではない。まだバーチャルファイターと呼ぶ奴がクラスに2人ぐらいたし)すげえ。ポリゴンってやつ?すげえーーーー!!!」とサターンっ子でいた頃、俺の全く知らないアフリカ中部の国では大量虐殺が行われていた。そしてその事実を知ったのが2004年。知らないのは罪だが「知っただけで行動しないなら無意味」と思い始めている今日この頃、改めてこのルワンダ大量虐殺について考えさせられ打ち拉がれた。これが事実であるという前提で本作を見ると、例えば平静を装いネクタイを締めようとしても手がふるえてムキーーーなシーン、生唾飲み込む音が自分でも聞こえるほど見てて緊張するし、キンタマが萎む思いがする。
そもそも大量虐殺の大元の原因は、ベルギーによる植民地化にある。産業革命後、イギリスとフランスを中心に、ヨーロッパ諸国が調子に乗って各地域でわけのわからん「植民地」というものをこさえていった。それに便乗したベルギーが目に付けたのが現在のルワンダだった。映画の冒頭で報道記者が発した「君は何族?君は?よくわかんねえな」という、気を抜くとスルーしそうな会話の中に原因が凝縮されている。
つまりこのベルギーによるフツ族・ツチ族の区分けというのは決して厳密なものではなく、理由があるとするなら、被支配者に対立構造を無理矢理作り出して支配者が管理しやすくするための便宜上の分類だったということだ。ちょうど日本の江戸時代に社会通念として存在していたという「士農工商穢非」のようなものである。結局ルワンダ独立後も、このわけのわからん民族分類は形(IDカードという形)だけ残り、結果形だけの部族対立、大量虐殺を招いてしまったのである。もしルワンダが単一民族国家だったら起こらなかったかもしれない。従って内戦であれども、この虐殺を止めさせるためベルギー軍・国連平和維持部隊が積極的に介入する動機付けは確かに存在した。
だがベルギー及び当時ルワンダに関与していたイタリア・フランス軍が選んだのは自国民の保護だけだったんだな~。映画中盤で象徴的なモチーフとして描かれる、「バスに乗り込む白人とそれを凝視する黒人」という構図は白黒の差別構造ではなく、今なお残る植民地システムの象徴というのがせづなすぎる。大佐がポールに語った「君はニグロですらない。アフリカンなんだ。」というのも本作では強烈なメッセージとして発せられたシーンだ。
国連の平和維持部隊てのも有事下ではかなり微妙な存在だ。平和維持活動(Peace Keeping Operation)を実行する軍隊の名の通り、武器を携行しているにも関わらず、権限としては「平和維持」しかできない。つまり現時点で見かけ上平和であれば、有事に対する予防策や積極的な武力行使ができないということになる。実際フツ族の暴動についての事前リークがあったにも関わらず、権限的にはスルーしかできないということだったし、これは確かコソボ・ボスニア紛争でも問題になったと思うが、すげえ微妙な軍隊だ。
ただなあーーー。これはこういうノンフィクションな映画を見るとよく感じる思いなんだが、で、結局、俺は何ができるのだろうかと。映画の中でもあったように、「へえ~かわいそうだね~」と思いながら晩飯喰うしかねえのかと、やっぱ思うわけですよね。それに実際問題、これは過去のことだからどうしようもないじゃねえのとかそういう事でもない。現に民族・宗教対立は世界中で頻発しているし、大量虐殺にしたってイラク・北朝鮮・中国・スーダンでは今の、まさに今のリアルタイムで発生している事実としてあるのだ。これに果たして俺はコミットできるのか?環境問題の「レジ袋いりません」所の意思表示じゃねえんだって。そんなもん霞んでしまうほど、まさに今さ、ぼこぼこ人死んでんだろうよって。わからん。こればっかりは答えが見えん。「日本が安全ならそれで構わんじゃねえか」の答えももちろんある。ただ、俺自身はそこを何とかしたい。

ALWAYS 三丁目の夕日 ☆☆☆☆☆

昭和33年頃の東京の話。
本作が2006年の日本アカデミー賞でアホほど受賞し、相当な評価を受けた作品であることは知っていた。また原作の方は高校時代オリジナルを購読していた時、その当時なんやったかな、「龍」「MONSTER」「浮浪雲」「玄人のひとりごと」あたりを読むついでに読んでいたので、あの独特な絵柄で戦後初期を描いた作品であることは知っていた。だから今更なぜ、こんなどストレートなノスタルジック話が評価されるのだろうかと、見る前はその点非常に興味深かった。映画なりの表現方法で、印象深いシーンでもあるのだろうと。
まず冒頭の集団就職シーンからなんだな引っかかりは。(恐らく)東北地方のど田舎から上野にやって来た女学生が、あんな堀北真希のように薄化粧をしたかわいい美少女なわけ、ないだろうが。この時点で「あーこれ系か」と見るモチベーションが相当低下した。仮にあの少女が(最後まで関わる重要な役だが)、ええーーーと今なら誰かな、、、要するにドブス、例えば森三中の村上だったら(年齢的に問題あるな)俺はこの映画のツカミとして相当モチベーションが高まっただろう。「お~エグい!リアルだな~。」とね。
うん、俺にとって情報でしか知らない昭和33年というものはこんなものではないんだ。確かにこういう面もあったろう。物質的に豊かでないがために、豊かさを求めて前進していただろうし、物質が家にやって来た時の情熱はすごかっただろうし(俺の父親も町で一番にテレビが来た家だったらしく、その話はよくする。それぐらい衝撃的だったのだろう。)、近所付き合いも頻繁だったかもしれない。だがもちろんこの理想郷には裏がある。例えば夏はエアコンがないので死ぬ。日本は下水道の整備が遅々として進まなかったので、水洗便所の普及も遅く、家々の夏のトイレは絶対地獄だったはず。さらにボットンだと誤って落ちたりもしただろう。確かに近所付き合いは頻繁だが、その分関係を失った「村八分」状態も存在する。家での会話に近所の人々のうわさ話が入ってくる。現代でも、保守的など田舎の街で生活してみるとわかるはずだ。こんなもんの、どこがいいんだろうか。物質的に豊かになった結果、「物質的豊かさ」を渇望していた時代が良く見えるなんて皮肉な話じゃないか。俺はある程度物質的に豊かな現代を受け入れるし、近所と付き合わなくても問題なく生活できる現代社会ってのは、素晴らしいことだと感じる。要は、コミュニティへの参加を決めるのも自分次第ってことだから。
ストーリーを見てみると、各々のトピックも今やモジュール化されて最早コントの前フリ設定でしか使われないような、見ていてこっ恥ずかしくなるような猿芝居の連続。これが支持されたんだから世の中すげえな。よっぽど70年代の石立鉄男系ホームドラマ、「パパと呼ばないで」や「雑居時代」の方が感情移入できる。試しにこれ、月9とかで当時のをデジタル利マスターして再放送すると意外といけんじゃねえのか。
それになー、これが評価されんのであれば、じゃあ数年前にこういう事象(大人がノスタルジックにやられてしまう)を描いた「オトナ帝国」はもっと評価されていいよ。つーか、これで感動した人には「オトナ帝国」も見て欲しいね。それこそ入れ食い状態で感動するだろう。
見終わった率直な感想としては、これが賞として評価され、また見に行った多くの人々から「感動した」「懐かしかった」などの好評価を得ていると、見るに付け、ああ俺やっぱ、これはもう間違いなく、完っっっっっ全なる事実として、マイノリティ側の人間なのだなあと、これはかつて「ゴーストワールド」などのマイノリティ共感映画でも思い知らされた事を、マジョリティ共感映画で反面的に知らされるという手の込んだやり口で、思い知らされたのだった。その昔思春期頃は、この常にマイノリティ側に居てしまうという性格を、なんだかアウトローな感じでクールであると、そういう美意識は格好良いと感じて、ある意味マジョリティにすんなり身を委ねられる人々を蔑視していたのだが、今はもうはっきりと分かる。「俺はマイノリティである。」という事実!そこにはもう蔑視などなく、ただただ、そういう事実のみが存在している!それを否応なくリマインドさせられた2時間弱だった。
「あいつらは馬鹿だ。こんなもんで感動できるなんてお前、相当お手軽な感情なんだなあ。その頭空っぽ加減は最高にうらやましいぞ。」とかもう言う気は更々無い。これで感動できるのであれば、つーかマジョリティが感動しているんだから、それはそれで本作の役割は達成されているし、需給バランスもそこで成立してるわけだから、こっち側からどうこういう事でもない。つまり結論としては、「こんなもんを面白半分に見た俺が悪い。」ということになる。あいすいやせん。

大日本人 ★★★☆☆

電流ショックで巨大化し、獣を倒すヒーロー、大佐藤(六代目)の話。
企画構想5年、総製作費10億円、監督・脚本・主演、松本人志。運良く思春期に「ごっつええ感じ」に出会い、ダウンタウンとその周辺の信者になってから約10年、ついにこれが、このときが来たと、映画見る前は実際かなり緊張していた。見る方が緊張なんて馬鹿げた話だが、本当にそうだったんだよなあ。
ゴールデン単発スペシャル番組「ものごっつええ感じ」が意外なまでに低視聴率で、一般にダウンタウンの笑いが受け入れられないと分かってから、松本の「映画を作る」「結局、映画でしかやれない」のような発言は頻発するようになっていた。それはつまり、松本(ダウンタウン)の笑いがマスに指向しておらず、皆が皆一斉に笑うというよりも、表現的に際どかったり、一見分かりにくいが発想を巡らすとジワジワ笑けてきたり、「松本VS多」ではなく「松本VS個」というミニマルな笑いの追求に注がれるという事なのかと、はじめは思っていた。が蓋を開けての「10億円」。日本映画にしては大規模な予算となると、商業ベースにのせるために、ある程度マスに寄っていかないといけなくなる。この辺の塩梅がどうなのか、信者としてどう受け止めるのだろうかと、そういう緊張のような気がしていた。
映画は中盤まで、コメディーというよりドキュメンタリー映画のような作り方をされている。大佐藤の事について、周辺に印象を聞いてみたり、本人の本音(大日本人としての本音)について核心を突いて探りを入れたりと、序盤~中盤はドキュメンタリーの手法そのもの。しかもあからさまに低予算なやつだ。セリフも冗長だったり、噛んでいたりと、妙に生々しい。これは絶対意識してる。だから、この映画は現実の日本ではなく、もうひとつのパラレルな日本、「大日本人」という種が存在するもうひとつの現実(便宜上向こう側としよう)の生態を、こっち側の日本でドキュメンタリー(低予算、てのが大佐藤の現状を示唆している)として見るという、そういう認識は必要なんだな。向こう側では「大日本人」の存在は全くおかしな事ではないし、それにつながる数々の事柄というのは別に面白いことでもなんでもないんだ。「そんな風に発想するお前が一番面白くない」という事についてはこの際置いとこう。俺はこう感じたんだから。だからこういうの映画館で見るの嫌なんだよなあ~。隣の隣の野郎、馬鹿みてえに素っ頓狂な高い声で序盤から馬鹿笑いしやがってテメエ、お前がおもんないんじゃ。
ついでに書くと、公開直前まではDVDまで待とうと決めていた。前述の通り、「松本VS個」の環境を作りたかったし。しかしほんとの直前一週間ぐらいでやたら映画監督・松本の露出が高まり、松本自身は「見てもらうしかない」という姿勢を貫いて事前情報をなるべく少なくしていたが、それでも周辺から発信されてしまう。元来俺は映画の事前情報をできるだけ排除して、ニュートラルなポジションで映画を見る方だし、ましてや松本作品となると、その思いは尚強くなる。このままDVDまで待ったとして、ネタバレを防ぐのは困難だろうと判断し、それなら早いほうが良かろうということで早速見に行ったわけだ。
で、向こう側ではなんか知らんが、たま~に獣(じゅう)という、なんつーかな、大日本人と戦うぐらいのサイズの、異形の生き物が出てきて、大佐藤はそれを倒すのが仕事らしい。こういう設定どっかで昔見たね。そう、エヴァンゲリオンなんだなあ。ヒーロー物によくある設定、例えば「地球を征服しようと画策した○○星人が、たまたま日本を標的にして色々攻撃をすると。でそれを阻止するべくなんたら防衛隊が存在し、最終的に■■マンが○○星人を倒すと。」、大日本人の世界もエヴァの世界も、これに当てはまらないというのが共通している。利害関係ゆえの対立構造ではないんだな。たまたまなぜか巨大な異形の生物(?)が存在し、それが地球にとって害を与えているため、それを取り除く存在がたまたま居ると。エヴァではざっくり言うと自分の内面と戦うために使徒と戦っていたし、大佐藤は、当面の算段として「月給80万」のために獣と戦っていると思われる。あと、四代目への忠誠心もか。
「獣と対決していく」というフォーマットが定まってからは、ドキュメンタリーもより強く、大佐藤という人間の心の葛藤に迫るようになり、ついに「中村雅俊」でこっち側で見ている奴らも大佐藤の世界に感情移入させようとしてきた。居酒屋での帰り際、「馬鹿いってんじゃないよ~、大日本人だよ。」の部分はストーリー上のクライマックスだろう。ある意味、ストーリーとしてはここで終わりなのかもしれない。そう、この映画は、見栄っ張りで、馬鹿で、酔っぱらうと調子に乗っちゃうけど、妙に律儀な、たまたま巨大化してしまう一人のおっさんの、大日本人としての美意識を主題とした話なんだよなあ。
そして突然の寸断!「ここからは実写うんぬん・・・・」の後の展開、そしてそのまま唐突なエンディングを迎え、それまで笑っていた隣の隣の素っ頓狂もあっけにとられたように口をつぐんでしまった。横にいた女3人、前のカップルも、突然の展開にわけがわからない感じになっていた。俺も最初「なんじゃこりゃ」だった。で、こっからは俺の捉え方なんだが、あれはつまり「アメリカにいる大アメリカ人」なんだろうな。あの最後の獣に関しては、外国から来たと言っていたし。大アメリカ人の登場後の展開はさすが、長年コントを作り続けてきた集団だもんで、一般的なヒーロー像を逆手に取ったコントそのまんま。実写にしたのも、純粋なコントとしての間の取り方とか空気感を出すためだろうか。あれCGのままだと想像すると厳しいもんな~。まあ、松本が作る映画だから、オチはコントでも問題なかろう。
CGのクオリティとか、どこが面白いとか、あれはああだから面白いとか、そんなんは人それぞれだからどうでもいい。もちろん出オチや、前フリがあってそれに忠実にボケるという笑いも結構多いが(ほんと、結構多いのでびっくりしたのだが)、この世界観全体はなんとなく「システムキッチン」を彷彿とさせ、それこそ見るたびに笑ってしまうポイントも変わることだろう。世界観はそれぐらい懐深いとは思った。
ただフラットに見て、ダウンタウン信者ではない一般の人にこれを勧められるかというと、俺はそう思わない。イタい選民思想とかではなく、基本的にダウンタウンの笑いについてウェルカムでないと、序盤~中盤の長い長~い「大日本人」世界観の植え付け作業が非常にしんどいだろうし、一旦そこで心の扉を閉ざしてしまうとベタな笑いもベタが故に笑えなくなるし、結局何がどう面白いのか、面白くしようとしてるのかわけわからずこんがらがるだろう。もしかすると一般の人は、「おもしろまっちゃんの作る、爆笑コメディ」を前提に見に行ってるかもしれんしな。さらにシビアなテーマとしては、プレ大日本人という意味での「Zassa」(PPV300円のインターネット有料コント)に続く、無料の地上波とは違う「1,800円払うのにふさわしいか。今ならん~~~~、、パイレーツオブカリビアン3と比べてどうなのか?」とか、そういうレベルでの話だ。
最後、総合評価について。ストーリー映画としてはおもしろかった。笑いについて個人的に初見では、大笑い(声が出てしまう)は一回も無し。基本含み笑い。まー松本のコントは含み笑いだよなあ。最後のコントは常時フフフ・・・・ぐらいかな。なんか気持ち悪いな。これはもちろん先入観、もっとすげえの、何か刺激的なのを提供してくれるだろうという思いこみが強すぎたから。信者なもんで。それとマスに寄った分、海原はるか師匠で瞬発的な笑いを取りに行ったり、後々まで作品として残るであろう映画に原西のギャグ(今流行のギャグ)を入れてみたり、こっち側と向こう側を繋げてしまう要素が散見されて純度が低下したのもマイナスポイント。これは松本どうこうではなく、マスとのバランスを考えた役割の人が介入したのだろう。それもまた大作のゆえんだ。
これが監督一作目、になって欲しい。カンヌで世界の35人(32人かも)に選ばれたビートたけしも、図らずも監督デビューとなった「その男、凶暴につき」で荒削りな自分の色を見せたし、その後「みんなやってるか」「8×3=9月(絶対違うけどこんな感じのタイトル名)」とか、自分で自分を殺しかねない犠牲を出しながら、「ソナチネ」のスタンスに到り、「HANA-BI」で評価されたわけだから。とにかくコントの拡大バージョンでもないし、凡庸なストーリー作品でもないし、スタートとしては最高だろう。★5は後々に取っておこう。

WC2006 FINAL

イタリア 1 (PK 5 – 3) 1 フランス
ジダン頭突き引退について、きっかけとなったマテラッツィの「テロリスト」発言について真実かどうか、現在の所双方の意見が食い違っているので行為の是非はあるが、引退試合+ワールドカップ決勝という事から察すると、相当な事を言われたのは間違いないだろう。ジダンがアルジェリア(イスラム過激派のテロが多い)系フランス人だということからすると、この発言はあってもおかしくない。ヘディングの空中戦で小競り合いがいくつかあって、それが溜まって何度目かの空中戦の時につい当たりが強くなったり手を出したりすることはたまにあるが(デロッシがこのパターン)、あんな露骨に頭突きをかますシーンは思い出しても記憶にない。それまで優勢にゲームを進めていたフランスもこれ以降人数的な問題でPK戦での決着を目指す雰囲気になったし、メンタルが一番左右するとされるPKではなーんかフランスの負けムードが漂っていた。
一応試合感想も書いておこう。開始すぐにアンリが「脳揺れ」状態になり、おいいきなり交代かよと不安になったが、再開後なんとマルダがダイブ気味のPK奪取。思い返すと、仮に頭突きが無くフランスが優勝していれば、このPKはあのレバークーゼン戦のダイレクトボレーシュートと並んで「ジダンの伝説シュート」として残ったことだろう。どの解説者も言っていたし、俺もそう思ったが、WC決勝の先制点という場面でチップキックはお見事すぎる。ただなあ、結果的には恐らく伝説シュート→頭突きが1セットで語られるんだろうなあ。
この1点で、フランスがいつものドン引きカウンターになりつつあったんだが、イタリアがセットプレイで同点に追いつく。PKを与えたのもマテラッツィであれば、豪快なヘディングシュートを決めたのもマテラッツィ。この時点では自作自演かよと軽く思ってたんだが、最終的に頭突きのきっかけもマテラッツィというのも何か因縁めいている。
これでお互い五分の試合に戻る。この時点でのイタリアディフェンスはまだ元気で、28分頃のフォアチェックからロングボールを蹴らざるを得ない状況に持ち込んだシーンは今大会の守備の良さを象徴しているようで、また3回のCKがいずれも決定機でうち1回は得点という、前半はどちらかと言えばイタリア優勢で終了した。
ただ後半時間の経過とともにイタリアのフォアチェックが少なくなって、ディフェンスと言うより「カンナバーロ+ブッフォン」て感じになって、フランスの決定機がかなり増えた。これはイタリアの運動量が減っていったにもかかわらず、フランスの両サイド、リベリとマルダは積極的に突破やフリーランニングを仕掛けていて、それにアンリが絡むシーンが多かったからだ。ここにきてようやくアンリらしい緩急のドリブル突破を積極的に試みるようになって、鉄壁の二人がいなければイタリアは得点されていたかもしれない。ついでに書くとこの日もトッティは消えていて、交代したイアクインタ・デロッシ・デルピエロも流れを変える要因にならなかった。で後半終了、延長戦へ。
延長になってもフランスが変わらず攻め続ける。ジダンのヘディングシュートは紙一重でブッフォンセーブ。こうしたフランス優勢の中で頭突き事件が起きて、これ以降試合が壊れてしまった。
結局俺は表彰シーンやトロフィーを掲げるシーンを見なかった。元々イタリアサッカーは嫌いだが、劣勢の時になりふり構わず相手を貶め流れを引き寄せるというのはそれだけ勝利への執念が強く、後々の記録や記憶には勝利しか残らないという事を知っているメンタリティだし、その点は凄いと思う。建前では「どんな理不尽でも暴力はダメ」だの「全世界の子供に悪影響」だの言われるだろうが、個人的にはサッカーとは無関係に、一人の人間として致し方ないほど侮辱されたらぶん殴るのも仕方ないと思うし、勝利よりも人としてやっちゃいかんことはあるんでねえのと思う質なので、やはりこの優勝は非常に後味が悪く、見るに値しなかった。

ドイツ 3 – 1 ポルトガル

開催国ドイツが有終の美を飾るべく、銅メダル獲得を目指した3位決定戦。
こういう試合はお互いに結構空気読みやすい。ヘタに決勝戦だと空気も何も、どっちのチームも「優勝したいオーラ」で満たされるので全く違った展開になったことだろう。で、相手がEURO2004の決勝で開催国ながらギリシャに負けてしまったポルトガルというのもなんだかなあ。
試合前からニヤニヤニヤニヤ、フェリポンとクリンスマンはまるでなんらかのアピールのごとく事あるごとにハグをかまし、客観的に見たら、カッパハゲのさわやかおじさんとシチリアンマフィアのボスのような風貌の濃いおじさんが2-3度抱き合うなんてとんでもなく異様だが、場所がふさわしければいい絵になる。
これがいわゆる「3決の雰囲気」なんだろう。ここまでの過程の中で両者とも、例えばアルゼンチン・イタリア・オランダ・イングランド・フランスのような強国とガチ試合をしてきた時とは明らかに違うムード。薄ら笑いがよく似合う全体の感じ。なんだこのギャップと思うが、これこそ3決なんだなあ。
レーマンがカーンに花を持たせ、フィーゴもついでに有終の美と。次代の象徴シュバインシュタイガーが全得点に絡むと。表彰式もにやけ面がとても似合う雰囲気で、まあ決勝の前哨戦としてみれば余興としてはよかったと思う。つーか、決勝が楽しみで正直あんまちゃんと見てはいない。