慶應義塾大学通信教育課程の噂:入学時の倍率

慶應通信の近況。

今年1月試験の段階で単位は充足し、5月の卒論指導で卒論提出許可をもらったので微修正後に卒論を製本し提出した。 これで、長かった慶應通信も後は9月の卒業試験(口頭試問)のみとなった。ただせっかく在籍しているので4月・7月の科目試験を1科目ずつ受け、夏期スクーリングも1期のみ参加予定という今までどおりの通信生活をしている。

というわけで、先日最後の科目試験を受けてきたわけだが、その際に久々に大学図書館で調べ物をした。元々は、2004年に慶應が実施した大学点検・評価に関する資料を見たかった(Web上にある情報では、通信に関する情報も多少あったので、さらに詳しい資料があればと思っていた)のだが、目に付いたのは「慶應義塾年鑑」という資料。この資料、慶應に関するさまざまな統計が載っていて、以前卒業率を算出しようとしたときにもお世話になったものだ。最新の2008年度版があったのでぱらぱらめくってみると、「入学試験」の項目に通信教育課程の欄が。以前見たときは、欄があったとしても合格者数と入学者数しか記載されておらず、あまり意味のないものだったのだが、この2008年版では志願者数からきちんと書いてある。あれっと思って直近数年間の年鑑を見直したところ、どうやら2006年あたりから徐々に載せるようになってきたようだ。これまで入学時の倍率は一切非公開とされてきたが、この資料に当たれば多少は状況がわかるかもしれないと思い、早速メモを取ってきた。

以下の表が「慶應義塾年鑑」記載の通信教育課程の入試状況である。年度によっては「合格者数」や「手続者数・完了者」といった項目にも数値が入っていたが、「合格者数」は「入学許可者数」と同一、「手続者数・完了者」は「入学者数」と同一だったため省略した。なお、「実質倍率」は「受験者数/入学許可者数」であり(年鑑での定義)、「志願者数」と「受験者数」の数値が異なるのは、「通信教育については、入学許可前後に志願を取り消した者を、便宜的に、入学許可前に志願を取り消した(志願者数-受験者数)とみなして掲載。」というためだそうだ(年鑑に注が記載)。また、2007年4月については入学者数の記載しかなかったため除外している。ついでに書くと、年度単位での各部の入学定員は、文学部:3000人、経済学部:4000人、法学部:2000人であるが、志願者数を見ていただければわかるとおり、あまり意味のある数値ではない。

文学部 志願者数 受験者数 入学許可者数 入学者数 実質倍率
2006年4月 450 444 391 391 1.1
2006年10月 248 248 220 220 1.1
2007年4月
2007年10月 311 309 269 261 1.1
2008年4月 608 603 512 494 1.2
2008年10月 326 325 296 280 1.1
2009年4月 567 561 529 512 1.1
           
経済学部 志願者数 受験者数 入学許可者数 入学者数 実質倍率
2006年4月 341 337 285 285 1.2
2006年10月 191 191 167 167 1.1
2007年4月
2007年10月 262 261 239 237 1.1
2008年4月 481 479 423 404 1.1
2008年10月 258 257 223 215 1.2
2009年4月 507 503 443 422 1.1
           
法学部 志願者数 受験者数 入学許可者数 入学者数 実質倍率
2006年4月 353 346 226 226 1.5
2006年10月 171 170 117 117 1.5
2007年4月
2007年10月 247 243 164 157 1.5
2008年4月 421 417 315 304 1.3
2008年10月 215 215 173 168 1.2
2009年4月 398 397 320 307 1.2

 

どうだろうか。やはり噂どおり入学者を絞っていたのかと驚かれる方、あれ?倍率ってこの程度なの?と肩透かしを食らった感でいる方、それぞれだろうか。個人的には、原則全員入学できるものとされている大学通信教育の中で、志願者の一割が入学できないというのは、書類選考しかしていないことも考えるとかなり厳しいと感じた。特に法学部は厳しいようで、2006年の1.5倍という倍率だと志願者の1/3は入学不許可だったということになる。1.1~1.5という数値だけを見るとたいしたことがないように感じるが、上述したようにどれくらいの人が落ちるのかを考えると結構厳しいことがわかるだろう。

一瞬、これは書類不備で不許可になった人も含むのかな、とも考えたのだが、書類不備の場合、普通に考えると志願不受理で志願者数にすら入らないだろう。そのため、この倍率は純粋に選考によるものだと筆者は考えている。ちょうど昨日届いた「ニューズレター慶應通信」特別号に掲載されていた、通信教育課程入学式での清家塾長の挨拶の中にも「入学の審査をきっちりと行い」という文言があったので、ちゃんと選考しているのだろう。恐ろしいことだ。

というわけで、入学を考えている人に多少は役に立つ記事だっただろうか。もちろん、過去記事でも触れたように、卒業は入学と比べ物にならないくらい難しいので、入学を考えている方はその辺も考慮に入れていただければ。では。

今更Amazonアソシエイト

トップページを見ると字しかないので、画像によるコントラストを得ようと、ほんと今更&安直だがAmazonアソシエイトに登録した。ハッスルサーバーの禁止事項では「Amazon,楽天などの大量の商品を検索、表示、リンクさせるサイト 」となっているので特に問題はない・・・と思う。

映画の場合、紹介タイトルのパッケージだけでなく、本文中の固有名詞や元ネタについてのリンクとしても使っている。これを見つけて貼るのが案外楽しい。ただ過去のが300近くあるためそれ全部に手作業でやるのは現実的でなく、支援ツールをいくつか探したが、表示に関するものが多かった。表示については評価☆を表示できたり、ヴィジュアル的に優れているものも多いが、結局凝りすぎて破綻する可能性が高いので、このまま公式のを使う。今後の更新で過去のも少しずつやっていこうと思っている。

2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ

サッカートピックを最後に更新したのは2006年7月、2006ドイツワールドカップの決勝の頃だった。それから4年、毎年8月~翌5月までのヨーロッパリーグ観戦と、早春~秋にかけての自転車3大レース+ワンデーレース観戦は、すでに日常となっていて、なんら特別な事ではなくなっている。アーセナルは今年も無冠で終了。この4年は補強で失敗してきたわけだが、ヴェンゲルが長年言い続けてきたように、ソング・ディアビ・デニウソンがようやく使い物になって、これでセスクをキープできて、ラムジーも復活して、シャマクやらハイクラスのキーパーやらバックアップの充実ができれば、来年こそ・・・いけるかもしれない。

逆に、その間断続的に行われるインターナショナルマッチに関しては、イレギュラーな、非日常的なものとして興味が薄らいでいる。これは日本代表に限らず、代表戦そのものに興味がなくなった。むしろ、リーグ戦の日程を乱したり、マッチデーの週は強制的に国内リーグ戦が休止となるため、邪魔ですらある。また過密日程による個々の選手への負担→怪我、そして代表戦での怪我(今シーズンのファン・ペルシ)など、実際クラブや国内リーグにも余計な負担を与えている。今大会もすでにロッベン・リオ・ドログバ・ナニなど活躍が期待されるスタープレイヤーが怪我で離脱している。ワールドカップは主要選手がリーグ戦で消耗した後に行われるのである。

ワールドカップは4年ごとだが、その間に、例えばヨーロッパでは欧州選手権(EURO)、アジアではアジアカップがあって、ワールドカップと同じように予選リーグ、本戦リーグ、決勝を行う。よって実質的にインターナショナルカップは2年周期だ。予選に使えるのは恐らく15ヶ月ぐらいか。ヨーロッパ(UEFA)の場合、この15ヶ月でどのように予選リーグを行っているだろうか。

現在UEFA加盟のFA(サッカー協会)は53。加盟国ではない。ワールドカップはFIFA主催の大会なので、国ごとではなくFAごとに出場資格がある。例えばフェロー諸島はデンマーク領だが、フェロー諸島FA(これもFIFA?)はUEFAのリージョンで予選リーグに参加し、毎回いいカモになっている(ただまれに波乱あり)。またフットボール発祥国のイギリスでは、FIFA設立前に既に存在していた英国四協会にそれぞれ出場資格がある。逆にIOC主催のオリンピックではこれが仇となり、「イギリス代表」を結成できず、もう長い間発祥国が出場していない。

そして今回の予選では、53を6×8+5×1の9リーグに分けて予選を行ったようだ。6チームのリーグ戦の場合、ホーム&アウェイで1チームあたり10試合行う。こう見ると意外に少なく感じるが、10試合を通常の国内リーグ戦に換算すると、実に2ヶ月~2ヶ月半の試合に相当する。この分日程が詰まるので、週2試合だとか、中2~3日で試合が続くとか、負担の多くは選手や所属クラブにむけられる。これだけではなくて、予選に付随する国際親善試合を入れると、恐らく14~16ぐらいにはなる。

この負担を減らす方法がないわけではない。ワールドカップの場合、UEFAに与えられた本戦出場枠は13。現状これを、9リーグの1位チームと、2位チームの中から勝ち点の多い順に8チームがプレーオフ、勝った4チームとを組み合わせて、9+4で13チームを選んでいる。リーグ2位チームへの救済措置もあるというわけだ。減らす方法とは、この救済を無くし、すべて予選リーグ1位通過のチームを本戦出場チームとすることである。

53/13=4.07、つまり4×12+5×1の13リーグに分けて予選を行えばよい。4チームのリーグ戦の場合、ホーム&アウェイで1チーム当たり6試合行う。これでもまだ多いが、4試合=1ヶ月分の試合が減るのなら良いだろう。リーグ戦も4チームならば成立する。

予選リーグの組み合わせによっては本戦優勝も狙えるようなチームが2チーム・3チームとか重なる可能性もあるが、それはそれで「予選から死のリーグ」の面白さもある。逆にミラクルでフェロー諸島が本戦に出場できる可能性も今よりは高まって、そういう意味での面白さもある。実際今大会でもロシアやスウェーデンのような、個々人を見ると世界トップレベルの選手がいるのに本戦に出場出来ない場合もあるわけだから、なんら問題はないと思う。

問題あるとしたらやっぱ経済面か。何度も何度も例示して悪いが、フェロー諸島にとってインターナショナルマッチの経済効果は意外と大きいかもしれない。イングランドFAカップは伝統的にFA所属であればアマチュアクラブさえも出場可能な大会で、ちょっとの運があればマンチェスター・ユナイテッドと8万近い収容のオールド・トラッフォードで試合ができる。FAカップの収益は基本対戦クラブ同士の折半だから、アマチュアクラブにしたらこの1試合で向こう何年分の収益が得られる場合もある。それで設備を改善したり、良い選手を買って上のカテゴリに昇格できるかもしれない。つまりFAカップはカップ戦だけでなく、裾野の拡充にも寄与しているわけだ。ワールドカップやリージョナルカップは規模も相当大きくなって、経済効果も大きいため、こういう側面もないわけではないだろう。

結局治安の問題は解消されずに南アフリカワールドカップが開幕する。日本からの観戦ツアーも定員に達していないケースも多いらしく、また日本代表も初出場の時から比べても、一番状態が悪いかもしれない。なんか、オリンピックに近い感覚がある。特に応援したいチームも、そのバックボーンをまったくトレースしなかったから無いし、今更ミーハー的に見ることも不可能だし、こうなりゃ一周してボーッと見てやろうかと思っている。

お早よう ★★★★★

テレビがあこがれの存在だった時代、近所付き合いの話。

見ている途中で、平凡な日常を描く内容と映画制作レベルの高さとのギャップに戦慄を覚えた。比喩表現ではなく、本当に恐ろしくなった。恐ろしい、いや、そういう感情ではない・・・・。なんというか、うまく表現できないかもしれないが、とにかくこの感情を具体的に説明してみる。

まず最初に書いたように、本作の舞台は、ある時代(昭和30年代ぐらいか)の平凡な一社会である。そこには世間が当たり前に存在し、その成員も世間の掟に無条件に従っていた時代である。今のように、核家族化・親の過保護とかモンペア・マイルールとか、掟をぶっつぶす価値観を世間が大ナタでぶった切っていた時代だ。今見ると昔懐かしかったり、在りし日の良き日本であるとか感じたりするが、制作された時代においては、極普通の生活を描いたに過ぎない。

その極普通が、なんつーか、表現するのが難しいんだが、極端に?極普通なのである。”普通””平凡”であることに完璧さを求めている。今ざっと部屋を見渡すと、俺の生活に必要なものがいくつも目に入る。それらは全て(記憶忘れもあるが)何時かの理由があって其処に在る。連続している。生活はアナログだ。本作で描かれた、画面に映される登場人物の生活の証は、証としてシンボリックに意味をなし、それ自体は生活ではない。この極普通はデジタルなものだ。冒頭、集合住宅の間から、右→左に何人か人が出てくる。あのタイミング・手前から奥に向かう画面構成・光のコントラスト、すべて瞬間であり、1である。そこから生じるデジアナの齟齬に、違和感というか、恐怖感のようなものを感じたのかも知れない。これでも上手く説明できてねえなあ。

で俺は、終始この完成された、完璧な普通の生活を見せられて、心は阿鼻叫喚、画面に提供される圧倒的情報量の処理にもがき、打ちのめされてしまった。林家の住人や、そのご近所みんなが宇宙人やロボットのように感じられ、むしろあの14型ナショナル謹製テレビにホッとさせられたのである。押し売りが持ってきた鉛筆は、なんか違う鉛筆かもしれない。芯が硬いとか言ってたし、トンボ鉛筆ではないし、サイボーグの鉛筆かもしれない。楢山行き決定の産婆の婆さんはエイリアンかもしれない。いや、それぐらい恐ろしかった。そんな中、「ナショナル」と書かれたテレビ、厳密に言うとテレビの箱は、俺が持っている膨大な直線のどれかと、ある所で交わってくれる。この安堵感は本作にして得難い休憩ポイントだった。

このように見方によっては、「シャイニング」とか「ファーゴ」の要素も含まれた得体の知れない恐怖感を感じてしまうが、単純に一本の映画としてみても相当面白いし、また恐い恐いと書いたが笑ってしまうシーンも多かった。笑いについては、漫☆画太郎の世界観に似ている。

タイトル「お早よう」に込められた意図と、日本的世間の交わりが本作のテーマだが、現代においてずいぶん解体された世間と、まだずいぶん残っている世間の残滓との乖離やギャップに悩むマイノリティの人間として、興味深いテーマであった。「余計なものがなくなったら、味も素っ気も無くなっちまう」「無駄があるから良いんじゃないかな」と語る兄ちゃんが、天気の話をするラストは、普遍的に通じる人間にとっての大切さを示唆している。

しんぼる ★☆☆☆☆

ちんこ型のスイッチがいっぱいある部屋に閉じ込められた男と、メキシコ・ルチャレスラーの話。

松本人志監督二作目。処女作「大日本人」は笑いの方法やコント仕立てのラストに賛否両論巻き起こり(どちらかと言えば否が多い)、作品の評価は人それぞれだが「無難でなかった」という点において良い作品だった。俺個人はその当時の感想に書いたとおり、笑いの部分は基本に忠実、それより映画作品としてよく出来ていると感じたので二作目もあると確信し、評価としてはニュートラルな★3にした。二作目である本作は、それを受けての評価となる。鑑賞は前回の教訓を生かし、DVDリリースまで情報封鎖。

「しんぼる」はダブルミーニングで、一つは「男のしんぼる」=ちんこ、もう一つは「人類のしんぼる」=神、である。閉じ込められた男は言わば神に成り得る、成りかけの男であり、ちんこスイッチのある密室から、試行錯誤して脱出しようと試みることで、神様修業をしているのだろう。

ケツから出る出前一丁のように、ちんこスイッチを押す=何かが出てくる、という構図は、何かの誕生・組成を意味している。ここからは推測だが、ある日、主にキリスト教系のモチーフとして見られる天使に、ちんこがついている事を発見した。「天使て男なんかい」と軽くつっこんで、そこからちんこスイッチの着想を得たのかも知れない。

一方、ストーリー上長いこと謎の存在だったルチャレスラー及びその家族は、神成りかけ男の成長によって終盤にようやく結びつく。言わば男の成長過程は、ルチャレスラーの「首伸び」に至るフリであり、あの瞬間、新たな神としての可能性が芽生えたことを意味している。神の些細な好奇心で、人間の首だって伸びるし、火も噴くし、犬とも会話できるのだと。

そうして神は新たなステージへと上り始めた。ちんこスイッチをつかみながらロッククライミングのように上っていく過程では、様々な生命の誕生・人類の営みが描写され、ここで本作の主題が明確に伝えられる。やがて上り詰め未来へと向かう神には、また別のちんこスイッチが眼前にあり、彼はやはり押そうとする=未来を切り開く、のだった。

以上のように、本作は一言で言えば神誕生を描いた作品である。そのような観念的な世界を描くのに対して、その描写が全体的に大雑把というか、底が浅い。例えば前述した神が未来へと向かうシーンでは、過去の映像を切り貼りして、その中を神成りかけ男が通過していくのだが、なぜああいう明快にわかりやすい、誰でも思いつくような方法を採ったのだろうか。ラストシーンもそうだ。わかりやすい程の未来、それに対する行動、全て想像の範囲内だった。

これは松本本人の世界の浅さ・狭さゆえであるように感じる。過去の実績からして、彼は間違いなく笑いに関して独特な観点を持った、感性で勝負して勝ってきた人だ。本作のように神を描くのであれば感性だけでこなすのは難しいだろう。森羅万象あらゆるものへの興味・知識、自己がこれまで培った思想・死生観、様々な要素が自分の引き出しに入っていて、ようやくなんとかなるレベルだ。松本に果たしてそういう部分の蓄積があったのかどうか。ダウンタウンの番組で見る程度でしかないが、実際彼は言葉やモノをあまり知らない。誤用も多いし、それを指摘され恥ずかしがるシーンも結構ある。同じお笑い芸人でも、例えばタモリやビートたけしに感じる知性は、残念ながら松本には無い。つーかそもそも求めていないし、いまさら獲得する必要もない。ただ本作のように、複合的要素が絡み合う作品では、それが無いのは大きなマイナスとなっていた。

だからこそ、松本は狭い世界で勝負するべきである。要するに、またそれかという話にはなるが、「システムキッチン」の世界を突き詰めれば良いのである。良いというか、より一層の高みに至るにはそれしかない。狭い世界を、とことんまで突き詰め、一般に媚びず、もちろん(本作のように)外人に媚びず、「日本の笑いの機微が世界一」という自負を持って、狭い世界を追求して欲しい。


東京物語 ★★★★★

広島・尾道から東京にいる子供らを訪ねた老夫婦の話。

今回小津初体験ということで、代表作の本作を選んだ。もともと小津についてはヴェンダースから逆戻りして知ったということもあり、自分の大好きな監督が尊敬する監督、それも代表作ということで敬意を込めて、見る前から★5は決定済みだ。

敬意はさておき、率直な感想としてはとても素晴らしい映画だった。映画の世界に小津ブランドが確立されているのもよくわかる。映画監督が、これほど映画そのものを支配できる様は中々見ることができない。たぶん日本一世界で有名な黒澤明作品でさえ、監督の力だけでなく、志村喬や三船敏郎、あるいは仲代達矢あたりが強烈な個性を発揮しないと、推進力は損なわれただろう。しかし小津作品では、主役の笠智衆や当代のトップアイドル原節子ですらも、色は消され、小津色にすっかり染められている。

だから小津作品にとって、俳優は恐らく映画を構成する一つの要素、コマでしかなく、たぶん、たぶんだが、監督の指図通りにやってくれたなら、誰でもいいんだと思う。それを物語るように、登場人物のセリフは棒読み気味で機械的であり、そこに俳優個人の色付けや感情は表現されない。もちろん、本作で言えば美容室をやっていた長女や、大阪にいる次男のように、「家族関係の崩壊」を明示する記号としての、感情の表出はあるが、それは監督のコントロール下にある。

そうして(商業主義とは別の意味で)機械化されたオートメーティッドな作品は、監督と俳優が互いに強調・協力して作り上げる一般的な映画とは異なり、独特の印象を見る者に与える。老夫婦の淡々とした語り口、現実離れした現実との関わり方は、機械化された故幻想的であり、また感情が無い分、世間に生ずる様々な情景を、客観的に描写してくれる。長男や長女の身勝手な態度や、自分で「ずるい」と言った次男嫁の態度を、我々は日々の生活で自分の中に見つけられる。

サッカーファンの俺からすると、これは1974西ドイツワールドカップにおける、リヌス・ミケルス率いるオランダ代表のローテーションフットボール(後のトータルフットボール)を初めて見た衝撃に匹敵するかも知れない。笠智衆にクライフほどの奇抜さはないが、この時代にこういう作品を作っているのは、とても先進的なことだ。

さすらい ★★★☆☆

大型トラックで移動しながら映画を上映する男と、自暴自棄になった男の旅話。

見終わるのに3日かかった。180分の映画なので通常の映画の1.5倍のボリュームがあるが、それ以上に体感時間がものすごく長く感じる映画だ。見始めては退屈になり途中で止めて、またしばらくして見て、止めて、そういう風に見ても、この映画は良いように感じられる。

しかも見終わっても何も残らない。何の追加的知識を得られるわけでもないし、もちろん感動するわけでもないし、印象的な何かがもたらされる事もない。ただただ浪費、このゆったりした時間に身を委ねるのが、本作との関わり方だ。

しかし本作のように、映画そのものにマジメに取り組んでいる作品はあまりない。例えばハリウッド、その作品は多かれ少なかれ、消費できるように”制作”される。消費に値する明確な何かが必ずある。それはストーリーだったりキャストだったり、映像の奇抜さだったりと、まあ色々あるが、確実なシンボルがなければならない。

ロードムービーということで旅に例えるなら、それはまるでパック旅行だ。シンボリックな観光地があらかじめ決まっていて、一旦そのパック旅行に参加すると必ずそのシンボルに到達できる。それをどう受け手が感じるかはそれぞれだが、とにかくシンボルを拝めるのである。ヴィム・ヴェンダースの映画は、その点行き当たりばったりの無計画旅行と言ったところか。

無計画ゆえ無駄が多い。なんで野グソシーンをあんなにマジメに撮影するのか。このダルさとマジメさは、映画そのものが持つ映像作品の魅力を感じるには良いと思う。ただほんと、退屈で長い。それもコミで面白い。

肉体の門(1964) ★★★★☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。次は1964年、鈴木清順監督作品。

清順監督と言えば、色彩の美麗さや奇抜な演出で、世界的にも名の通っている人だが、今作でもそのエッセンスは感じられる。まずパンスケ4人を赤・緑・黄・紫のワンピースで色分けして、それぞれのキャラクターもその色が持つ印象に仕立てているのが技巧的だ。例えば、五社版では主役だった小政は直情型の赤、清順版の主役であるボルネオ・マヤは緑で感受性の強さを表しているし、紫はそのまま売女、黄色=デブで陽気というイメージはいつからなんだろうか。

戦争に負けて、彼女らは仕方なくパンスケになったと思うが、それが故に徒党を組んで助け合い、シノギの場では虚勢を張っていきがる女の逞しさ、そして一人の女性としての愛を望む気持ちとがせめぎ合い、その葛藤のコントラストがよく表現されていた。五社版では小政と男の関係、彼女らの儚い夢物語だったのが、清順版はより深く、内面も描いている。

おっぱいについてはかなり控えめだ。つーか五社版の1988年ってバブル絶頂期か。そりゃおっぱいも中心になるよなあ。それから20年前になると、例えパンスケを題材にしたとて本作のような控えめおっぱいになる。

「肉体の門」とは関係ないが、数年前「おっぱいバレー」という作品がちょっと話題になった。見てないので詳しい内容はわからないが、バレーの試合に勝ったら先生がおっぱいを見せる云々のやつだ。五社版のおっぱい中心、おっぱい動説からすると、20年して再び控えめおっぱいつーか、妄想おっぱいへと衰退しているのかもしれない。この20年間周期のおっぱい描写循環は意外と面白い。

肉体の門(1988) ★★★☆☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。最初は1988年、五社英雄監督作品から。

「吉原炎上」「226」の間に作られた作品と言うことで、作風はその2作に非常によく似ている。大袈裟な演出で、映像のインパクト重視つーか、おっぱい重視の描写が多い。主役級の俳優は前年の「吉原炎上」とほぼ同じで、おっぱい描写OKのかたせ梨乃・名取裕子・西川峰子が、吉原の花魁から戦後のパンスケに変わっただけだ。つーかひょっとすると、「吉原炎上」がそこそこヒットして、その要因を分析したところ「例の、女のおっぱいである」とわかり、おっぱいありきの原作を探していたら、たまたま「肉体の門」を見つけたのかもしれない。内容よりもまずおっぱいというわけだ。

うん、こう考えた方が色々合点がいく。次の感想で書く鈴木清順監督作品と比べると、鈴木版が文学的な印象を受けるのに対して、五社版は正直、不発弾とおっぱい、それからこれも吉原炎上で使われていたが、最後の口に爆風が入ってグワーってなるやつぐらいしか印象にない。女の喧嘩シーンとか、なんかよくわからん意気投合のダンスシーンは見てられないという意味で印象に残ってるが、一つの作品として果たして何を描きたかったのかはよくわからなかった。

そこでおっぱいである。女優の名をもって、大々的に公開される映画作品でおっぱいを見せても構わない女優さんがいて、しかも前述の三人のような名の知れた面々であるならば、これはもう「テーマ:おっぱい」で十分説得力がある。こんなにおっぱいと書いたのは初めてだ。

蒲田行進曲 ★★★★☆

スター俳優・銀ちゃんと、大部屋俳優・ヤスの話。

オリジナルが舞台作品ということで、映画とは言えかなり舞台を意識した作りになっている。俳優の演技は大袈裟で外連味たっぷり、BGMも押しつけがましく、クライマックスシーンも一画面に収まる。舞台はよくわからんが一週間とか長いと一月とか上演するようだが、階段落ちは毎回実演したのだろうか。

この押しつけがましいケバさは、結果的には映画全体の熱気となってプラスに作用している。なんつーか、あの奥崎謙三の「わかってやってるガチさ」に通ずるガチさというか、最後劇中劇のネタ晴らしでもわかるように、演技することを強調してみせたのが、テンポの良さに繋がっていた。

スターである銀ちゃんはシンボル、何が何でも存在を守るべき対象である。大部屋はスターのためにいるし、その言葉は絶対的、わたくしを捨てねばならない。だから強く結びついているように見えても、互いの心根は理解できない。階段落ちの前、ヤスが意図的にゴネてみせたのも、この大勝負の前に銀ちゃんに存在をアピールしたかったのかもしれない。「ヤス、あがってこい!」でケバさはピークに達するが、ここまでくると俺自身は性格的に引いてしまった。熱さが空回りせず全体の推進力となっている良い映画だった。