天才数学者が、自然界のあらゆる事象を数式化、その法則を解き明かそうとしてついに216の数列にたどり着く。それは株式の相場をもすべて予測できる法則を秘めており、やがて数字にとりつかれた数学者は、自らも数字によってイカレてしまうという話。
「脳が数字に殺される。」こういう副題が付いていたんだが、観ているこっちは脳が映画に壊されかけた。まず観たときは体がしんどくて、だる~い気分で始まり。モノクロ映画なので、こういう気分の時に例えば走り回る映像があると、当然画面がぶれまくってなんか神経が逆なでされるような気になった。イライラ。
さらに、数学者の精神状態を表そうとしたのか生理的に受けつけがたい音が延々と垂れ流される。電話のベル音とかドリルの音とか。あと全体的にテクノが含んであるんだが、自分の体の状態、精神状態によってはただイライラしてくるだけだというのがよくわかった。結局観るときの気分、体調によって感じ方は大きく異なるということだろう。
考えようによっては観ているこっちも精神が壊れかけたんだから、それぐらい入り込める映画ともいえる。ただしそれは映像の話で、確かに新感覚ホラーなのかもしれん。過去にあったホラー映画の、瞬間的な視覚による恐怖とは異なる、五感を駆使したジワジワくる恐怖というか、恐怖を通り越してイィィィィィーーってなるような、もう精神に突き刺さるものだ。
そう考えると陽気な気分で観てるよりは、最初からだる~い気分で観てる今回は結果的によかったかもしれん。仮に陽気な気分で観てたら・・・・・?想像を絶するな。
カテゴリー: 映画
東京日和 ★★★☆☆
写真家アラーキーとその妻陽子の話らしい。
竹中直人監督・主演の映画は、これまで「無能の人」「119」とあったが、それに一貫してみれるのは、なんというか、静寂というのが正しいのかわからないが、とにかく「静」だと思う。
そういう意味では「無能の人」が一番しっくりきたし、逆に「119」はなんとなく終わった感じだった。静けさというのは見る人によっては爆弾を抱えているもので、たとえば自分の場合「119」は面白くないと思う。しかし「119」最高だと思う人もいるだろう。つまりアクションなんかの激しい映画に比べて、静かな映画は見る人によってはほんとに120分の苦痛となることだってあるわけだ。まだ激しい映画だったら若干万人が楽しめる余地が在るはずだ。だから、静の映画の宿命として、ニュートラルがないとも言える。
そこでこの「東京日和」。いい映画と思う。まずしがない写真家・アラーキーというのもいい感じだし、妻の陽子は情緒不安定でかわいい。日々のたわいのない出来事に互いの愛情を感じるのも、この夫婦ならありえることだ。
ラストシーンで陽子が編集者の名前を間違えた理由を気付く。こんな何気ないことで妻の大事さを感じるのは、それまでの暮らしが大きな前提となり、見ているこっちもじんときた。
しかしねえ、さっきの「ニュートラルがない」ということで言えば、どうでもいいといえばどうでもいい話だし「退屈だった」という人もいるだろう。また、仮に陽子が中山美穂でなく、そのへんのババアとかだったら絶対成立しない話ではある。その点-1。
ユメノ銀河 ★★★☆☆
これまでの人生、何の起伏もない平坦な道をただ淡々と歩んできた(らしい)女車掌トミ子が、連続殺人鬼と目される新高という男に、「殺人鬼」ということへの憧れにも似た恋心を抱いてしまうという話。
非日常への羨望というのは誰しもあるもので、またそれが日常に刺激がなければないほど強まってくる、一種狂気じみてくる、でまあ現実の話ならそこに落とし穴があるというのがよく聞くことだ。不倫とかね。
トミ子は自分が狂気であることを客観視しながらも、それを捨て去ることはできない、そんなこんなで「私って、狂気だわ」なんて考えてるうちにラスト、線路の踏切で「オーライ」の声。それは「こんな私もオーライよ」的なものも含んだ声に思えたが。
結局新高という男が本当に殺人鬼なのかどうかはわからずに、女車掌同士の噂が噂をよんで、こんな狂気じみた死に繋がったんじゃないのかなぁ。女車掌という仕事はやってられないわ、みたいなことを冒頭に言ってたし。
人間、普通でないことを求めてそんな自分に恍惚感を覚える。トミ子の場合はそれがすぐ死に繋がったが、あらゆる刺激の強すぎる現代ではまずそこに繋がらない。だから本作の時代設定、またモノクロであることが活きてくるのだろう。
地雷を踏んだらサヨウナラ ★★★★☆
カンボジア内戦において行方不明となった戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の話。
まず見終わった率直な感想として、カンボジアに行きてぇなと思った。一ノ瀬泰造を写真家として駆り立てたアンコールワットを是非見てみたいなと単純に思った。現実に一ノ瀬が最後の最後にアンコールワットの写真を撮ることができたのか、それはわからないが、映画での終わり方は結構好きだ。
当時でもポル・ポトを中心としたクメール・ルージュの凶暴さ、気にくわなかったらすぐに殺すという情報は伝わっていたはずなのに、それでもクメール・ルージュの本拠地に向かわざるを得ない心境、それはまったく理解できない。命を賭してまでせねばならないことは今のところ、無い。それは多くの人がそうだろう。
一ノ瀬が、ただアンコールワットを撮りたいというのならなにも戦争中で無くてもいい。彼が撮りたかったのは戦争中の、クメール・ルージュの象徴としてのアンコール・ワットなのだろう。物語でも描かれているように、戦場カメラマンに求められるのは感傷的な写真だ。しかし彼を突き動かしたのは、戦争はダメ、カワイソウという感傷的なものではなかった。彼がフリーの立場で撮りたいものを撮る。たまたまそれが戦場だったなんて言うと聞こえがいいが、本当にそうだったのかもしれない。
双生児~GEMINI~ ★★★★☆
軍医として戦地で活躍した雪雄は、故郷に帰り医者として人々から信頼される存在である。帰郷の折に出会った妻おりんを実家に連れてきてから、雪雄はこの家に何者かの存在を感じる。具現化された光と影、それが解け合い入り交じる様を描いているのだが、じりじりわき出る恐怖感が痛い。
雪雄が井戸に放り投げられてから、捨吉が雪雄になりすました時から、お互いの存在の入れ替わりのようなものは始まっていたんである。自分の同胞が貧民窟で生きてきたと言うこと、また今の自分がその捨吉の手にゆだねられている、雪雄は捨吉に激しい憎悪を感じてしまう。また捨吉はおりんとの関係から、だんだん悪で無くなっていき、ついには雪雄の手にゆだねられる。そして足のあざは消え去り、多分雪雄に乗り移ったのだろう、最後は雪雄が貧民窟に消えてゆくのである。
見所は井戸でのやり取り。光と影をうまく演じわけ、またその融合具合も見事だと思う。雪雄が雪雄でなくなり、捨吉が捨吉でなくなる。これを映像に納めるのに、なんだか芸術チックなものを感じた。
北北西に進路を取れ ★★★★☆
広告屋のソーンヒルは、カプランという男と間違われて、ある男に拉致されてしまう。殺されそうになりながら、辛くも生き延びたソーンヒル、自己に及んだ厄災の原因を突き止め、拉致した男をみつけだそうとし、キーキャラ「カプラン」とは何者かを捜しに出かける。
展開に御都合的なものはあるけれどもそんなのは枝葉末節、話が進むにつれ盛り上がるように常に盛り上がりを持続させるようなストーリーがまず凄い。物語の序盤にいきなり主要キャラが多く登場し、しかも拉致した側は所々しかその後出ないので最初からとまどってしまう。イマイチわけがわからぬまま物語は進むうちにまたいきなり重要なシーンがなにげなく出される。
そうして、クライマックスに近づくにつれ前のシーンを思い出す、前後関係のつながり、おおおおお!なるほどなるほど。あとは自動的にハッピーエンドへ。ヘコミがない。
21世紀、現代に生きる者がこの1959年製作の映画を楽しんで観れるのは、恐らくこれがこの後の映画作りの教科書的作品になっただろうと思えるから。現代の映画でも脚本骨子はこの方法が主流だと思う。そのオリジナルがこれ。青は藍より出でて藍よりも青いのだが、やっぱり藍も青いんだな。
鳥 ★★★★☆
ある女性が九官鳥を買おうとペットショップへ。そこに偶然男性が入り、彼らは運命的な出会いを感じる。そうして女性は彼のもとを訪ね、ダンガ湾へ。彼に会い、彼の家族に会い、いよいよ気分が高まってきたときに、鳥の反乱が始まった・・・!
鳥パニック。一言で言えばこうなんだが、果たしてこれはパニックムービーなんだろうか?鳥が襲いかかってくるシーン、とても怖い。これは建前的なホラー映画ではなしえない純度の高いリアルさを兼ねた恐怖表現なので、いっそう感じるんだろう。我々の身近にいる鳥、まあ普段からカラスには警戒心を持つけれども、この映画のように徒党を組んだカラスたちをいざヴィジュアルで見せつけられるとそれはそれはもう、ゾッとする。
これだけじゃない。結局最後まで鳥パニックの原因らしきものは語られず、さらにラストはかなり尻切れた感あり、ヒッチコックさんよ、これは現代人へのメッセージなのか、うぬらで考えよっちゅうことですか?いやいや違った意味でビックリしたラストですよ。
考え得るのは、女性と彼の母親との心情の移り変わり、そしてラストにしたがって随所に抜かれる女性がプレゼントしたインコ。どうもこの辺があやしい。女性と先生とのやりとりにも、母親の気難しさは語られていたし、映画のはじめから怪しげな鳥の抜き画は何回も観られる。非常に気になった。
怖い、そしてなんだこのモヤモヤ?時間をおいて再見だ。
黒い家 ★★★★☆
昭和生命保険に勤務する若杉のもとに女性の電話「自殺でも死亡保険金入るんですか?」。その後、菰田重徳という男から呼び出しがあり、行ってみると子供の自殺体が。前に電話した女性とは、重徳の妻、幸子だった!子供は自殺か他殺か、こいつらフツーかサイコなのか、そして若杉はどうなる?
金融腐蝕列島といい、当時の新作であるISORAといい、このころの角川映画は現代社会に現実にあるヴィヴィッドな問題をテーマに映画製作を行っているようだ(たまたまかもしれんが)。金融~は銀行の不良債権問題、ISORAは多重人格、そしてこの黒い家は保険金殺人のサイコパス。ISORAは観てないのでなんともいえないが、これらの近時のテーマをプロモーションには巧みに使いつつ、いざ観てみるとただの話題性だけでない、作品としてしっかりとしたものに仕上がっているのもまた、角川の特徴である。
配役が面白い。ピカロの菰田夫妻に西村雅彦と大竹しのぶ。キレたサイコ野郎として西村雅彦はもうそのまんまOKだけども、大竹しのぶはちょっとどうかと思った。大竹といえばいいお母さん、若い頃を知らないだけにそういうイメージがつきまとい、こういうサイコ野郎はチョット無理あるんじゃなかろうか、こう思ったわけだ。
しかししかし、西村雅彦の印象をナシにするほどサイコである。逆にこういう映画にも関わらず西村がオーバーアクションに見えるほど内面的サイコをすばらしく表現している。段々と彼女がテンションをあげていく様、それまでの経緯からくる怖さなど、すばらしいもんだ。同時期に「鉄道員」を撮ってたんだから、幅は相当広い。大竹しのぶは凄い。
そして相対する若杉、こちらもテンションが高い。顔が面白かった。
演出として、「いつか観た風景」を後半で両極端的に出す効果(便所とか)が映画の怖さを増幅している。ホラー映画はほとんど観ないので、これが斬新かどうかわからないが、これは怖かった。
ただまあ、サイコ野郎に「シャイニング」があるが、こちらは場面(ホテル)が醸し出すサイコな雰囲気、最後までなんだかよくわからなくて怖さ満点なんだが、本作は精神分析なんぞがこれ見よがしに菰田夫妻の心理を説明する、いわばサイコの説明があって、それより周りの状況から観る側に嗅ぎ取ってもらう方が面白いんではないかと思った。
それと死体は映し出さなくていいんじゃないか?若杉の表情とかで、観る側に想像させた方が凄いものだし、死体が人形とかだと「うまく出来とるな~」「あすこ変だ」とか、少し引いてしまうのです。
レザボア・ドッグス ★★★★☆
ギャングのジョーのもとに集まったブラック・ホワイト・ブラウン・オレンジ・ブルー・ピンク(仮名)の6人のチンピラ。彼らは宝石強盗を計画するが、ある一人の裏切りで計画は頓挫、互いが互いに文句をタレる最悪の状態に。刑事は誰なのか?そしてどうなる?
クエンティン・タランティーノ監督作品第一弾。これが後のパルプフィクションにつながるとして見ると、なるほど一作目からそのテイストは溢れている。
まず手法としての時間ずらし。物語の随所に各人物の場面を織り込み、また会話のニュアンスにストーリーの骨子を入れることで、それまでの経緯、その人物の過去などが無理なくわかる。導入が全然わざとらしくないっちゅうこと。
「小話はディティールにこだわれ」とニグロの刑事は言ったがそれは映画についても言える。タランティーノ作品のどうでもいい話、小話のおかしさはそれだと思う。オープニングからそれだから、しかも「like a versin」はデカチン好きなヤツの歌だなんて面白すぎる。またそれについてギャングのおっさん達が真剣に話す、時にはブッ殺す、妙な部分にこだわりがある。
肝心のストーリーは登場人物の言葉で語られ、映像には映し出されない。この映画では人物の描写重視、それだけにラストの破綻ぶりは痛ましいほどだが意外にサバサバした感じだった。
金融腐蝕列島 -呪縛- ★★★★☆
朝日中央銀行の総会屋への利益供与が明るみとなり、頭取一同トップの行動が問題となった。その中ミドルクラスの北野・片山らが主導し、頭取人事からメディアアナウンスまで、旧態依然の呪縛から逃れようとする。時代の産物か、それとも時代の臭いを紡いだ作品なのか、それは己の目で確かめよ!
金融ビッグバンをモチーフにした映画である。現実の金融機関は、不良債権を公的資金で賄うという「社会性」をタテにした愚挙に及んだようだが、当方税金未だ払わずの身、「国民の税金が私企業に使われるんですよ」こういう声も甚だ耳に遠い。あっそう、だってしゃあないだろ、後で返しゃあいいじゃねえかてなもんである。
大体の原因が、異常な状態(バブル)に酔いしれた金融機関、歯止めをかけない管理側(MOF)、酔いしれた金融機関とともに酔った大衆、もう総懺悔するしかない。その過去の廃棄物を処理するのが現在であり、その現在ちゅうのがイカンといってるわけだ。しかし搾取されるのはいつも大衆だし踊らされたのも大衆。しょうがない。とにかくなんでもいいから、こっちは負の遺産を処理した汚くない状態で次代に渡して欲しいと思うておる。
現実ではなし崩しに呪縛をときはなった(一部)ようである。さて本作では、いささか過剰演出のシーンも多いがそれがまた呪縛を解き放とうとするパワーを物語っているようで、少なくとも変わろうとしている体質のもどかしさ、難しさを全体的に緊迫感ある画で映している。
特に株主総会、孤軍奮闘の新経営陣とミドルクラス、彼らの変わろうとする姿勢に感化された株主の姿勢、これはもう単なる時代の産物でなく、北野を中心とした革命者の闘いを描いた作品として見応えがある。
ただこれは、朝日中央銀行が呪縛を解き放つというものでなく北野という男の奮闘の物語と見て取れる。それだけ登場人物が膨大で、彼らの心情も浮き彫りにはされない。結局北野は呪縛を解けたのか?それはラストが物語る。