ストーリーはあって無いようなもの。どうでもいい、ってわけではないけど、特にこの監督の場合ストーリーはメインじゃないと思う。
まず観終わった後の後味がものすごおおおおぅく悪い。「おもしろくねぇ映画を観てしまったなぁ」では絶対無いのだが、なんというか「狐につままれた」ってやつか。ラストは大笑いしたし。
昔のモノクロの映画(すべてが狂っているなど)はそうでもないんだが、カラーになって映像に色彩が持ち込めるようになってからは、この鈴木清順という監督の映画は実に特殊な映画が多いようで、実際前作から10年ぶりという本作も要するに”意味不明”なんである。
問題は観る側がそのアドリブではない、最初から決められた「意味不明なセリフ」とか「意味不明な映像」を受け入れられるかどうかだ。映像はまだしも、突然「ちゅうちゅうたこかいな~」とか言われてしまっても、「はぁ?」「うわくっせぇ」の人は多いと思う。
自分の場合清順映画は音楽の聴き方と同じ感じになる。自分は音楽を聴く場合、その歌詞すらも音の一部として聴くように自然となっている。例えば「愛してる」という歌詞があればその意味などはあまり気にせず、その曲全体のつながりとそのときの「愛してる」の音の響き具合、こっちを重視している。つまり、セリフという音声もすべて映像の内に取り込み全体を一つの映像映画として観る感じ。だからこういう意味不明な映画では、セリフにだけ意味があるよりは、全体が意味不明という方がツキヌケているのでよろしい。
そうなると、意味不明なセリフさえこの映像の一部なのであると感じられるから意外に楽しんで観れる。そう、いかに楽しんでみようとするかが大事だと思うんだなぁ。いきなり「わけわからんぞてめぇ」じゃなくて。
でまあ、映像はすばらしいです。これは実際観んとわからないと思うが、キメの映像がきっちり様式キマってるのが格好いい。確かに、こりゃやりすぎじゃろうがと思う部分(特に後半の妖怪博覧会での決闘)はあるけども、ここぞの清順節はやっぱかっちょいい。
で音楽はEGO-WRAPPINのブルースラッパ、要するにラッパ万歳です。この映画のヘンテコな和風によくあっている。ただあの幼女のテーマ曲は納得できないがねぇ。
幼女といえば、この映画には児童ポルノが登場するのです。小学校高学年くらいの子供(パンフレットによると1990年生まれ。って平成生まれじゃねぇか)の少し膨らんだ乳やおしりが数回バーンと、バーンと、出るのです。瞬間はジーッと見てしまったが、あれはいいんだろうか?抵触しないんだろうか?まぁ映倫通ったってことはOKなんだろうが、ドキドキした。全体的な映像がエロいのだけど直接的なエロはそこだけ。それだけにインパクトでかいよ。幼女だし。
主役二人もがんばってた。江角の元々からのオトコオンナのような雰囲気と野良猫のキャラクター、また山口小夜子の特殊な雰囲気も良いと思う。というか映画の映像感覚がOKならだいたい、役者がダメだったってことにはならんと思う。
総じて、自分は楽しめましたがこれは人にお勧めできません。後味悪いし、好き嫌いは激しく分かれると思う。
何かで見た監督のインタビューで、「この映画で伝えたかったことは何ですか?」の質問に監督「そんなもの、ありませんよ」←こういう82歳っていいねと思えたら観よう。
カテゴリー: 映画
アメリカン・ビューティ ★★★★★
レスターとキャロリンは、夫婦共働きで郊外の一軒家に住み反抗期の娘ジェーンがいるという、普通のアメリカの家庭。自分があって家族があるのだ、家族こそ最高、彼らはこういう現実的幻想の前に自らを塞ぎ込み抗い続けてきた。その結果が家庭崩壊に仕事の不振。そんな彼らにもそれぞれ少しのきっかけが訪れ、そこから自らのビューティーを追求することになる。
この映画では主人公のレスター一家三人と、隣家の住人の大佐とその息子、そしてジェーンの表面的友人アンジェラ、都合6人の関わり合いで物語が動いている。彼らがそれぞれある時点からの人生の美学、私はかくある”べき”、こういう思いを抱くようになってからはおのずと最後の悲劇的な結末は見て取ることができた。
現実にふとした瞬間思いつくような事を、たとえばあの女とやりてぇなぁだけどもそりゃ無理かだって娘の友達なんだぜと、仮に一瞬(この映画で最後に語られる一瞬とは違う、物理的な一瞬)思ってすぐにその思いは消える、その感覚をそれぞれにスーパーデフォルメして喜劇的に表現したのが、そういう物語全体が哀しいけどもおかしかった。こういう類の喜劇を見ると、やはり喜劇は悲劇と表裏だと感じられる。
そしてこの映画があくまで喜劇の体裁を保っていられたのが、話が進むにつれてすんごく重~い感じになっていくのだけれども、まっことくだらぬ事を随所に入れてて、この辺はゲラゲラ笑えるというところだ。朝起きて自慰をしてそこから先は地獄だというのが生身の人間の本音だろう。そう、見てる側がおかしい・笑えるというのはそれが自分の思いだからで、それを解放させるのは笑いの方法としてある。
結局ビューティーってなんだろう。表面的なビューティーなんてのは、この映画で言えば「赤」であり、「アンジェラ」であり、「ファインダー越しに映る物像」である。しかしそうでなくて、一見救いようのないような絶望に収束していったレスターだったが、それは六者六様それぞれの美に向かった結果なのである。特に最後に救われなかったキャロリンと隣家の大佐、彼らはその時幸せだったのだろうか。
またいつか、完全に内容を忘れたころに観ようと思う。そしてその時また自分のビューティー、自分は幸せですかと問うてみたい。
いい映画だと思います。
トゥームレイダー ★★★☆☆
宝探し。
乳と父。これがすべてだ。
教祖誕生 ★★★☆☆
ど田舎に現れた、訳のわからぬ新興宗教団体。あからさまにうさんくさい神様が、あからさまなサクラの万病を治し、宗教本を売り歩く。そんなどうしようもない商売に魅せられた青年あり。彼もこの商売に加わることになった。
この映画が作られたのがおそらく90年代初め頃、その頃からかどうだか、今では崩壊しているオウム真理教や、今でもあるんだかないんだか、統一教会やらなんやらが芸能人といわれる変な奴らを伴いマスコミに登場し、一般に知れ渡るようになってきたまさにその時期で、そういう背景を考えながら観るとなかなか面白い。
日々の生活に根付いている仏教習慣・文化はともかく、これこれこういう明確な宗教に属する、属しようというその根性がわからん。端から客観的に見るとあからさまにうさんくさくぼったくられてるのに自らは気づかない宗教野郎、たまーに以前なにかの宗教団体に属していて、金をせしめられたので賠償してほしいという阿呆を見るがそれは間違いなく己のせいであり、しかもその宗教にいる間はなんらかの問題を忘れ去れさせてくれるほど没頭していたのであろうから、そのぼったくりを賠償しろこのチンカスとぬかしてしまうのはあまりに図々しいし滑稽だし、これは高らかに「私は阿呆です」と宣言するのと同等だ。
オウムは別として、福永なんとかというやつの宗教も結局は金のふんだくりだし、全国にたくさんいると思われる仏教以外の特殊な宗教に属する人々、「帰依しとるのだワシは」と感じている人々、これらは「金を払って安心感を得る」という”神(=金)”との契約に基づいてその宗教にいるので、一度入ったが最後絶対ここに帰依し続けるのだという強い覚悟はやはり必要だろう。そうでなければ夢から覚めた後は悲劇的な喜劇が待っているだろうから。
ビッグ・リボウスキ ★★★☆☆+
ロサンジェルスに住むジョン・リボウスキ。その彼はリボウスキ違いが元で、借金取りに凄まれ、絨毯に小便をされるハメに。弁済を求めるべく彼はもう一人のリボウスキ、大金持ちの方のリボウスキに会いに行った。
一通り見た感じとして、なにがなんやらどうでもいい話だったなぁと。そう、最後にカウボーイが締めているように、「あれやこれや色々おかしかっただろう?」これがすべてだと思う。
要するに「あれやこれや、色々おかしかった」だけの話なんだ、これは。特に感動するでもなく納得するでもなく、また大笑いするでもない。ただ、おかしかった。何度かくすりと笑った程度の話だ。
しかしそれこそがこの映画の楽しみ方なんだろう。一言で言えば喜劇の楽しみ方。おかしい中に哀しみがあり、この作品を見て、まぁどうでもいいじゃねぇかよこんなもん、クソったれの時間の無駄だと感じるならばそれはそれでよいと思う。今回たまたまあってないのだろう。
内容ではベトナム上がりのあのデブはかなりいい味出してるキレキャラだし、リボウスキの気違いぶりもいい。ボーリングトリップとか。このへんを受け入れられるかどうか、変に臭ぇなこの野郎と感じたらたぶんこの映画は受け付けられないだろう、自分は楽しんで観れました。
だからして、★3というのはある意味最高点だ。なんというか、おもしろくないということはないが、非常に魅力的だということもない、大爆笑だということもない、もう一度観たいかと言えばそれは違う、しかししかし、単におかしかった。その、中ぐらいの範疇で最高だと言える。中の上。そうだなぁ、+を付けとくか。
ダンサーインザダーク ★☆☆☆☆
近視のセルマは、日々の労働での稼ぎと趣味であるミュージカルに生き甲斐を感じていた。金を貯めて自分の息子ジーンに遺伝性の近視手術を受けさせるためである。同時にミュージカルのリズムは生きる術であり、周りを巻き込んで踊り狂う。ところがそのお金に関する事件が起こる。
ホモジェニックなビョーク主演です。まずこの配役はこの映画にしてアリだと思う。この映画は決してミュージカル映画ではなく「主人公の趣味がたまたまミュージカルだった」だけであり、惚れた漢が極道だったという極妻となんらかわらない。なので自分のように「アンチミュージカル」のポジションの方々でもひとまず鑑賞することはできる、普通の映画だ。そこでこのビョークをあてがうというのが、彼女の声はそりゃもうホモジェニックでありガンガンに響くし、歌うときの至福の表情はいい。
ただ前述したように俺はミュージカルが大嫌いなわけで、もちろんこの映画におけるミュージカルシーンでは新聞を読んで過ごしたのだが、だってさぁ、ストーリーの途中でそれまでの人間関係や背景なぞ関係なしに全員一致で変な歌と踊りを展開してしまうなんて、あんなもん見てて気持ちが悪くなってくる。正直、ミュージカルが全開に好きだとか言ってしまう人は敵かもしれん。
↑はミュージカル全般に対する自分の思いであり、この映画にはなんら影響しない。まあそらいい気がしないのは確かであるが。それよりも問題ありありなのがこの映画の人物描写と、納得いかないストーリーである。ある事件がもとでセルマは犯罪者になるのだが、それからの彼女の息子に対する強烈な偏屈っぷりは全然わからない。もちろん客観的に見たセルマは、彼女の自己犠牲的所業に自分で納得しそれを受け入れたのだから、客体視した見せ方ならばある程度理解できたかもしれん。しかしこの見せ方というのがリアルタイム撮影とでも言おうか、セルマの表情を真に迫って映し出してるのでそうそう客観的に見ることもできない。
要するにセルマの言動にはいちいち納得がいかないし、そもそもそういうセルマに置いてしまう周りの状況、ストーリーの進み具合がクソだった。すべての元である事件にしたって全然理解できない。あれを理解しろ、理解しなきゃ感受性の薄っぺらな呆け者だと言われようがなんだろうが、俺は理解できない。
ネタバレになるが、たとえば自分の子供が間違いなく失明する危険があり、それにかかる手術の金を巡って殺人者になってしまったとしたら、セルマになるかもしれん。ここは理解できるし、考えようによっては納得もできる。ただしこの状況を打開する策はいくらでもあるわけで、やっぱりストーリーは理不尽。冬木よりも理不尽。さらに映画のような娯楽ぐらいは、こんな神妙にならんでもファンタジックに描いてもよろしいのではないかと。こういうリアリティの追求の形は、物語にされると相当イヤだ。
というわけで、映画としてダメとかではなく俺に合うタイプの映画ではなかったと。意味ある★1です。
マルコビッチの穴 ★★★★☆
うだつのあがらぬ人形操師クレイグは、自分の才を認めぬ現実に辟易していた。その妻ロッテも覇気のない暮らしに辟易していた。クレイグがしょうがなしに働くことになったある会社はビルの7と1/2階にある。そこで彼は、ジョン・マルコビッチのあたまの中に通じる扉を発見する。
まず「穴」の設定が面白い。15分間マルコビッチの中に入り彼の視点で見る。しかしこちらの声は届かない。その後高速道路の脇に突然降ってくる。それもその対象が、日本で言えば笠智衆のような名脇役であるジョン・マルコビッチという微妙な人気者なので、変身してもとくに豪華であるとかそういうのがない。
これは変身願望ではなく、まさしく後々クレイグがやってしまったようなマルコビッチという新しい乗り物に乗った喜び、そこから見た視界の広がりがくれる新しい発想、ロッテにしたら自分が同性愛だと気付かせてくれた新発見の喜び、これがマルコビッチの効用ではないだろうか。
そしてマルコビッチがマルコビッチに入った瞬間、観たものが凄かった。すべてがマルコビッチで帰結している世界。爆笑だった。同時に滑稽だった。そしてこのあたりから、この映画自体をどういう形で終わらせるのだろうか?そもそも穴の正体というか、理屈を解明してしまうのだろうか?という考えが起こってきたんだけど、結局なんだかへんてこな理屈を付けて正体を現してしまった。正直このへんで冷めました。
こういうよくわかんないのはよくわかんないまま、置いてけぼりに置いていくという終わり方もアリだったんじゃなかろうか。一切のことを気にせずに気持ち入って見れたのも途中までだし、いやもちろん、じゃあどういう終わり方があるのかと言われると正直わかりませんが穴の説明はいらない。
是非一度見るといいです。おもろいと思います。
60セカンズ ★★★☆☆
かつての凄い車泥棒として有名な○○、その彼の弟がギャングに拉致された。取り返す条件は、24時間で50台の車を集めてギャングに渡すこと。○○は弟を救うため、足を洗ったかつての相棒どもを集結させ、再び車泥棒をやることになった。
禿のニコラスけいじ主演。全体の雰囲気はリービングラスベガス寄りだけども、内容はアクション映画。全体を半分に割って前半と後半がかなり雰囲気が違う。前半は、ギャングとの交渉や仲間集め、そして実際の車泥棒と、淡々と進んでいく。意外に車泥棒のシーンがあっさりしてて、それはいいのかと思うほど淡泊だ。
このまま淡々と進行して、この流れで最後までいくのかと思ってたら後半のカーチェイスで一気に暴れ出した。カーチェイス自体はもうハリウッドのアクション映画では当たり前の見せ場であり、最早見る側にとってはどうでもいいシーンになりがち、どっちかといえば制作者側の「単純に、作りたいんだよお」という自慰行為になりがちなシーンであるから、はっきりいってしんどい。普通はしんどいんだが、この映画のカーチェイスはなぜかおもしろかった。
これは前半があまりにも淡々と進んだため、意外に(もしや狙ってか)後半の、この映画唯一の長~い見せ場、盛り上がりどころがヒートアップした、しかもそのカーチェイスは特にこうギミックのような色もんを随所に配置するのでなく、カーのチェイスを存分に堪能できるようになんかよくしらんが格好のいい車を走らせるという、そこはよかったと思う。
かといって、これが一生もんの心に残る映画になるかといえばそういうことは絶対なく、良くも悪くも一時的な享楽を満たすハリウッドの一級アクションであることは違うことない。なので可もなく不可もなし、★3つです。
パッチ・アダムス ★★★★★
自殺未遂で精神病院に入ったアダムス。そこで出会った人々により、彼は生きがいを見つける。それは医者になって患者の生を高めること。しかしそこは、画一性を保持する病院側との壁があった。
いい意味で凄くハリウッド的で、よくできた脚本の上に「こうすればいい映画になる」という方法論の見え見え具合、音楽の使い方、話の持っていきかたなど、見終わってすぐ感じたことが、これは感動的な映画の種類に入ると思うのだが、『よくできてるな』。
まず主演のロビンウィリアムスが過去に「ガープの世界」「レナードの朝」など大きく見れば同じような映画に主演してて実に好演、アメリカン感動にロビンありき、のようなことができてて、この主演というのは直球勝負のそれも160キロの直球で、手元からリリースした瞬間にその先が見えているようなものだ。
よくできた脚本と書いたが、これは実話を元にしているらしい。もちろん脚色はあるだろうけれども、この劇中にアダムスがやっている方法というのが、種類でいえば自分がやるようなことと真逆のことだと思われ、目指す部分は少なからず同じようなことかもしれないが、実際アダムスのような方法を取るのは自分には難しい。現実に自分の身の回りでやられたら、多分引く種類の人間だ。わしは。
にしても、医者としてこういう突き詰めかたは一つとしてアリだと思う。アクションが多分にアメリカナイズドされてるけど、死を伸ばすよりも残された生を満喫させる、また形式よりも心の問題、これは日本で言われている偏差値教育の問題とも少しリンクしたことじゃなかろうか。
しかしここで気を付けるべきは、アダムスが天才、それも「遊んでてもテストはできる」というこれまた典型的な漫画のような天才、おそらく現実でも少しはそうだったんだろうという点だ。仮にアダムスがただのアホたれならばこの話は大法螺ふきのバカチンの戯言として処理されている。そういう意味でアダムスは恵まれている。アダムスには、そうした自分の『個性』を発揮するべき資格があったとも言える。
翻って日本の偏差値教育に対する『個性を伸ばそう』のスローガンはこの映画で崩される。凡夫の個性を伸ばそうとしたところで凡夫は凡夫、どうしようもない。偏差値の画一化よりも個性の画一化の方が圧倒的に恐ろしい気がする。
映画に戻ろう。このように本作はヒューマンドラマの王道を突き進み、万全の体制で臨んでいるので一つの完成されたドラマとして見ごたえがあるし、関心した出来栄えだと思う。感動に付き物のくささもロビンウィリアムスという一級の演者により見事に漂っていない。これは凄いことだと思う。ハリウッドの歴史を感じる一本だ。と同時に、感動に付き物のあの安っぽい音楽をどうにかしてほしい。あれはハリウッドの歴史の汚物だ。
MONDAY ★★★★★
月曜日、男は起きるとホテルの一室にいた。なぜそこにいるのか、まったく思い出せない。タバコを取ろうとすると清め塩が。そういえば葬式に行ったのだった。そうして身の回りの物から記憶をたどるうちに、大変なことがわかってしまった。
まず全体を見た感じで久しぶりに楽しめる作品を見た気がした。自分自身が酔っぱらうと寝てしまう質なのでわからんが、悪酔いする人間が限度を超した瞬間、彼はもう感覚のみで行動するしかなく、時に大胆、よくわからん正義感のようなものを振りかざす。それがスーパーデフォルメされている。
それとこれは後半から特にそうなんだが、鉄砲なんてのは格好悪い武器だ。あんなもの酔っぱらいでさえともすればこの映画では神になった瞬間があるのだから、しかも一度捨て去ってもなおそういう武器に依ってくる他者、味気ない一瞬の物事を突きつける他者に対峙して、結局は鉄砲に依った方がいいのだよという認識を得ながらも、ラストでは取るのか、取らざるのか、その選択を突きつける、いや人間ならばあんな野蛮な武器は放棄するということに本来なら賛同するはずで、ヤツが持ってるからワシも持つのかよ?ええ?と圧倒的に問うてくる、突き放した終わり方がいいと思う。
しかしその鉄砲によって緊迫感が出るのも事実。銃口を突きつけあい、どちらが撃つのか、撃たざるのか、その駆け引きなんかは映画でよくあるシーンだ。この映画は後半でそういう緊迫感のある画と、前半ではダンス音楽に乗った奇妙な画と、なんだか変な感じなんである。変だけど面白い。絶対ありえない話であるが、それだけにデフォルメされた連なりは映画という娯楽として正統派だと思うし、それゆえ楽しめるのではと思います。
あと音楽がかっこいい。