フリーダム・ライターズ ★★★★☆

複数の人種が混在し互いに対立状態のクラスを担当した新米女教師の話。

ハリウッド映画は大小なりとも”アメリカ”そのものを全世界に印象づける、コマーシャル的要素も含まれているだろうから、映画冒頭で描かれたまさに戦争状態の町はあまりに生々しく衝撃を受けた。制作年は前後するが、同じようにリアリティを意識したイーストウッドの「グラン・トリノ」でさえ、本作を観ると「ああ多少はソフトに描かれてるんだな」と思えてくる。本作で描かれたロングビーチの状況は、実話ベースであることや、描写の温度の親近感から考えても、かなり実際の状況に近いのではないかと思われる。正直な感想だが、冒頭を見てこれが日常ならアメリカには行きたくないと思った。

島国・単一民族の日本人が、日本でリアルに人種差別を感じるのは困難だ。これは他の差別、例えば障害者や能力の優劣・単なるいじめなどと置き換えるのは困難な種類の差別である。なんせその根底にあるのは、単純に言うと「顔の色や髪質が違うから」敵であり、「近いから」味方であるというものだからだ。理由は明確だが決して解消される事はなく、実際には無いのと同じだ。

アメリカは人種のるつぼ・多民族国家で、先住民族(ネイティヴ・アメリカン)を駆逐した白人(ホワイト)・奴隷の子孫である黒人(アフリカン)・南米から移って来たラテン系(ヒスパニック)・アジアからの移民であるアジア系(チャイナ・アジア)が混在している。この分類もかなり大雑把なもので、例えば同じホワイトでもアングロサクソン・ゲルマン/ケルト/スラヴ/ユダヤなどルーツによって別れるし、多人種混血もいる。この分類こそが言わばアメリカ建国以来の闘争の歴史であり、その歴史は今もなお、子供のけんか(と言うには死人が出たり規模が凄いが)にまで落とし込められているというわけだ。

だから映画を観ていくうちに段々と理解できたことは、本作が描いた子供達は不良のおちこぼれでは無いという点である。もちろんグレードの低いクラスの話なので、勉強は出来ない子ばかりだが、それも人種に由来する家庭環境の悪さで、単に適切な教育を受けていないから現状出来ないだけだ。外面は悪そうに見えても教育に対する好奇心は、初めてに近く学ぶことの面白さを知ったため旺盛であり、よって吸収も早い。なにしろ素直である。ここらへんが所謂「不良」とは違う。彼らは彼らのポジションを保つため、訳の分からない敵と、訳も分からず闘っているだけであり、「そうするのが正しい」と教育されたので否応なく闘わざるを得ないのである。

従って、本作からは「不良が更正して立派になりました」系の熱血青春映画のような薄っぺらい印象ではなく、もっと根深い、アメリカが抱える社会問題も含めた描写が根底にあるので、ドラマとして非常に重厚である。であるからこそ、通り一遍の恋人とのフィクション的描写パートが異様に軽く、ハッキリ言って邪魔で箸休めにもならない。いやもちろん実話ベースだから実際ミスGがあまりに教育熱心で夫が愛想を尽かして離婚したのかもしれないが、正直映画のメインテーマとはなんも関係がないし、この恋人との離別の件だけ本当に不要だった。

人種間の対立を解消させる手段として、ミスGはユダヤのホロコーストを生徒に教えることから始めた。そもそも「ホロコースト」という言葉を知っているのが白人の子一人だけというのも、あのシーンだけでも教育の重要性を痛感させられる。知らなければ何にも始まらない。知らなければ分からないし、理解もできない。これは本作のテーマと共通する。

今日本でも適切な教育を受けていない(ただし日本の場合人種的要因ではもちろんなく、単に本人の資質による部分が大きい)子供達の中に、WWIIはもちろん原爆が広島・長崎に落とされた事を知らない子もいるという。教育も、高度になればなるほど当然専門的になり、知識の前提は増えて、より狭小化していく。これはこれで必要だが、その前に「知ってて当然」をまさにその状態にする教育、この大切さを感じさせられた作品だった。

選挙 ★★★★☆

2005年、川崎市議会議員補欠選挙に公募の落下傘候補として”自民党公認”で出馬した、山内和彦さんの話。

2010年現在、山内さんは川崎市議会の議員名簿に載っていなかったので、恐らく映画内で言っていた2007年の改選までで、市議会議員としての務めを全うされたのだろう。映画を見終わって、果たしてこの人はまだ政治家をやっているのかどうか、そこが一番気になったのですぐに確認した。いや、ある意味貴重な体験が出来て良かったですね。本作は一切演出のない素のドキュメンタリーであるから、選挙運動中に垣間見える山内さんの性格から考えると、はっきり言って政治家には向いていなかった。

驚くべきなのは、政治家としての資質や適性が無い人でも、「自民党公認」が付くと当選できてしまうという事だ。これがどういう意味かは本作を見るとよくわかるが、選挙を戦うにあたっての物的・人的リソース、作戦の展開、その他必要な要素は、すべてあらかじめフォーマット化されていて、その通りにやると実際当選できてしまう。山内さん自身の活動自体はペラペラである。日本の選挙戦ではおなじみの選挙カー・街頭握手・老人への媚び売りを使って、「小泉自民党の公認候補、や・ま・う・ち、和彦です!」この言葉を呪文のように連呼する。こういう時に「よろしくお願いします」は日本的最強の言葉だ。

正直誰でもできるし、誰でもいいんだろう。山内さんの場合は東大卒というイチゴが乗っていたから尚更良い。政治家個人としてのマニフェストや、市議としてやりたい具体的な法律や行政への提案内容は、選挙そのものとは全く関係ない。カーネル・サンダースへの握手はギャグというか、自分に向けられたメタな皮肉に感じられた。

つまり山内さんは自民党公認としての御輿であって、本作でも何度も念を押されていたが、その組織力をフルに動員して当選させてもらったに過ぎない。当時絶大な人気を誇った小泉首相が応援演説に来ても、外様の彼は選挙カーの櫓の上で並び立つことすら許されないのである。これが、ずーっと感じていた違和感の理由だと思う。山内さん個人の活動を見るだけでは、どう考えても有権者約20,000人の得票と結びついたとは思えない。組織力恐るべしである。御輿が御輿を担ぐのはとても滑稽だったが、他にもラジオ体操やゆる~い下ネタを絡めた馬鹿話など、政治とは無関係の、違和感有りまくりの選挙戦こそが、結果的に得票に繋がるのは恐ろしい。だからこそ造反議員に対する厳しい言葉は、本作で選挙戦の実態を見ると納得できる。

そういう意味ではこれは民主主義の限界を示唆している。最初の方に出てきた、酒屋のおばさんが「水路の改修をして欲しい」という願い(市議会議員に訴えるものとしてこれほど適当なものはない)を反映させる手段としての一票と、「公認だから」の思考停止での一票が、同じであるのは民主主義の限界だ。意味ある10,000票が、思考停止の組織票20,000票に負けてしまうのだ。これは日本ムラ社会による民主主義の換骨奪胎だけではないと思う。アメリカでもNRAやAIPACのようなロビー団体が選挙に大きな影響力を誇示している。

本作の山内さんの場合はあくまで例外として、一般的な候補者は、自発的に立候補するぐらいだから政治を通じてやりたいことはいくつかあるだろう。それを実行できるようになるためには、まず「選挙で勝たなければならない」のである。政治と選挙がまったく別物である事が、民主主義の最大の問題点だろう。俺は選挙カーが使われる限り、日本の民主主義には参加しない事にしているのだが、騒音以外の何者でもない選挙カーも一連の「選挙セット」の一つであり、ずーっと変更がなされないのだ。

そもそも日本に民主主義はあっただろうか。戦前は納税額による制限選挙だったので、一般市民の民意が反映されていたとは言い難い。戦後はGHQの管理下以降、しばらく間を開けて例の自民党55年体制に突入し、バブル崩壊で経済がポシャるまで続いた。こうして見ると日本は長いこと政府と官僚主導の利益誘導型政治を行ってきたのだとわかる。バブル後の今は、変化の過程における混迷期と位置づけても良いかも知れない。

今の時点で根付いてないなら、いっそもう民主主義とか止めちまえばいいのではないかとさえ思えてくる。代替手段はわからないが、当面はその道を究めた学者さん連中の合議制とかにして、違った視点も必要という意味で異色の人材を少し入れて、民主主義は今の参議院のように、補完的役割でいいんじゃねえかと。今は学者のゴールは大学教授だろうが、そのまた上にゴールを設けることで、結果的に教授のポストも空いて研究者の活性化にも繋がる。

優れた政治家もたくさんいる事はもちろんわかっている。一方で民主主義だからこそ成立している無意味な政治家も大勢いる。選挙の都度扇動家やメディアに乗せられて世論を形成するバカな連中が選んだ人間が、バカの代表であるのは至極当然である。今の日本における政治の迷走も、その一番の原因はなんであろう、その都度メディアに乗せられて現体制を批判している民衆(=民主主義)そのものなのだから。

アメリカン・ハードコア ★★★☆☆

1980年代初期、アメリカ各地でわき起こったハードコア・ムーブメントについての話。

最近再燃してきたパンク・ハードコア熱の流れで見始めたパンク系映画。前見た「PUNKS NOT DEAD」はパンク全般についての、比較的長い時代を薄めて扱っていたが、本作は80年代アメリカハードコアシーンに絞られている。FUGAZI・Youth Of Today・Discharge・Chaos UK・CRASSなど、ハードコア全体で見ると重要なバンドについても、時代や地域が違うため少しも言及していない。つまり本作は、あの時代の熱さというか、時代がもたらした衝動を描く事がメインテーマとなっている。

冒頭5分で紹介される時代背景は、アメリカン・ハードコアの精神面をよく表している。レーガン政権下のネオリベ政策は、ハードコアを志向するようなマイノリティ側の人間にとって抑圧的だったのだろう。横分け、カーディガン、ファッションショー、紹介されるアイテムがことごとく「彼ら」を象徴していて、まあなんつうか、宗教的ではあるが素直に共感してしまう。キース・モリスが語ったように「勉強して良い大学入って良い会社入って良い給料貰って、結婚して二人の子供・郊外の住宅・ペット・車に車庫・・・・、人生そんなもんじゃねえんだよ(that’s not just the way it is.)」とはもうまさに、ハードコアの神髄を表しているし、誰にも分かる表現だ。

中心となるのは、この手のドキュメンタリー映画には珍しくLIVE映像である。インタビューらしいインタビューも特になく、かつての80sハードコアバンドのメンバーが、場面ごとにちょっとずつ当時のことを(思い出話のように)話すだけで、映画作品として流れを作るような意図はない。そういう意味では本作も「PUNKS NOT DEAD」と同じように、映画としてはあまり優れた出来ではないし、また興味がない人が見るようには作られていない。各バンドの説明も一切無し。見ていくと、Black FlagとBad Brainsがシーンで重要な存在だった事はわかるが、その他はthe othersとしてまとめて、LIVE映像中心に扱われる。

これは意図的にそうしたと見るべきか、映画を作るうちにそうした方が良いと感じたのか、作者の真意はわからない。が、結果的にかなりの数の、よほどのマニアでなければ名前も聞いたことも無いようなバンドを知り、また彼らが一番熱かった頃のLIVE映像を見ることで、その中のどれかに興味を持つ人がいるかもしれない。俺の場合半分ぐらいはバンド名を聞いたことがあって、大半のLIVE映像は初めて見たが、見ていくうちにやっぱ心躍るというか、かつて自分にもあった・また未だに存在するハードコア/パンク魂が燃えるように感じられた。

音楽的にどれも似ているのは否めない。それぞれに個性があるとも、正直思えない。単純にパワーコードを3つぐらいかき鳴らすだけなので曲の面白味も薄い。一応プレイヤーとしては、この早さでコードを次々かき鳴らすのは意外に大変である(疲れる)。それをやれるのもあの時代、また10代を中心としたエネルギッシュなプレイあってこそだろう。

意外だったのがMinor Threatの扱いだ。後追いで知った限りでは、当時やりたい放題に暴れていたシーンに、「ストレート・エッジ」という禁欲的なDIY精神を導入し、「ハードコア」の概念そのものを確固たるものにした、先に挙げたBlack FlagやBad Brainsと同等、またはハードコアを象徴するバンドかと思いきや、本作ではthe othersの一つとして扱われるにすぎなかった。確かに、Minor Threatは後乗り組であり、言わばコロンブス的な存在であるBlack FlagやBad Brainsはパイオニアとしての存在感があるので、当時はその程度だったのかもしれない。マッケイ本人も「もっと評価されていい。音楽的にもチャレンジしている。」と語っていたが、やはりthe othersとして扱うにはあまりにもったいない。

あとあれだ、1シーンだけだったが、なぜかガンズのダフ・ローズ・マッケイガンがインタビューに登場した。他の連中はなんか薄汚れていて、だらしない感じだったが(=ハードコア的正装)、ダフだけはびっちり格好良く決めていて、明らかに他とは違うオーラが出ていた。これもマイナーとメジャーの違いか。

映画では「音楽的単調さもあり、3年程度で飽きられ、その後は皮肉にも正反対である商業ロック、ハードロックやヘヴィメタルに侵食された」という流れで終幕したが、やっぱどう考えてもそんなことはなく、ハードコアの萌芽はその後に受け継がれ、FUGAZIに代表されるポスト・ハードコアだけではなく、Sonic YouthやNIRVANAなどのグランジ・オルタナシーンに至る流れにも影響は大きい。やっぱ映画的にはあんまりいい作品ではない。ハードコアの息吹を感じたい、色んなハードコアバンドのLIVE映像を見たい人におすすめだ。

最後にアメリカン・ハードコアバンドをいくつか

Black Flag – Rise Above

Bad Brains – Pay To Cum

Minor Threat – Straight Edge

Minutemen – Corona

お早よう ★★★★★

テレビがあこがれの存在だった時代、近所付き合いの話。

見ている途中で、平凡な日常を描く内容と映画制作レベルの高さとのギャップに戦慄を覚えた。比喩表現ではなく、本当に恐ろしくなった。恐ろしい、いや、そういう感情ではない・・・・。なんというか、うまく表現できないかもしれないが、とにかくこの感情を具体的に説明してみる。

まず最初に書いたように、本作の舞台は、ある時代(昭和30年代ぐらいか)の平凡な一社会である。そこには世間が当たり前に存在し、その成員も世間の掟に無条件に従っていた時代である。今のように、核家族化・親の過保護とかモンペア・マイルールとか、掟をぶっつぶす価値観を世間が大ナタでぶった切っていた時代だ。今見ると昔懐かしかったり、在りし日の良き日本であるとか感じたりするが、制作された時代においては、極普通の生活を描いたに過ぎない。

その極普通が、なんつーか、表現するのが難しいんだが、極端に?極普通なのである。”普通””平凡”であることに完璧さを求めている。今ざっと部屋を見渡すと、俺の生活に必要なものがいくつも目に入る。それらは全て(記憶忘れもあるが)何時かの理由があって其処に在る。連続している。生活はアナログだ。本作で描かれた、画面に映される登場人物の生活の証は、証としてシンボリックに意味をなし、それ自体は生活ではない。この極普通はデジタルなものだ。冒頭、集合住宅の間から、右→左に何人か人が出てくる。あのタイミング・手前から奥に向かう画面構成・光のコントラスト、すべて瞬間であり、1である。そこから生じるデジアナの齟齬に、違和感というか、恐怖感のようなものを感じたのかも知れない。これでも上手く説明できてねえなあ。

で俺は、終始この完成された、完璧な普通の生活を見せられて、心は阿鼻叫喚、画面に提供される圧倒的情報量の処理にもがき、打ちのめされてしまった。林家の住人や、そのご近所みんなが宇宙人やロボットのように感じられ、むしろあの14型ナショナル謹製テレビにホッとさせられたのである。押し売りが持ってきた鉛筆は、なんか違う鉛筆かもしれない。芯が硬いとか言ってたし、トンボ鉛筆ではないし、サイボーグの鉛筆かもしれない。楢山行き決定の産婆の婆さんはエイリアンかもしれない。いや、それぐらい恐ろしかった。そんな中、「ナショナル」と書かれたテレビ、厳密に言うとテレビの箱は、俺が持っている膨大な直線のどれかと、ある所で交わってくれる。この安堵感は本作にして得難い休憩ポイントだった。

このように見方によっては、「シャイニング」とか「ファーゴ」の要素も含まれた得体の知れない恐怖感を感じてしまうが、単純に一本の映画としてみても相当面白いし、また恐い恐いと書いたが笑ってしまうシーンも多かった。笑いについては、漫☆画太郎の世界観に似ている。

タイトル「お早よう」に込められた意図と、日本的世間の交わりが本作のテーマだが、現代においてずいぶん解体された世間と、まだずいぶん残っている世間の残滓との乖離やギャップに悩むマイノリティの人間として、興味深いテーマであった。「余計なものがなくなったら、味も素っ気も無くなっちまう」「無駄があるから良いんじゃないかな」と語る兄ちゃんが、天気の話をするラストは、普遍的に通じる人間にとっての大切さを示唆している。

しんぼる ★☆☆☆☆

ちんこ型のスイッチがいっぱいある部屋に閉じ込められた男と、メキシコ・ルチャレスラーの話。

松本人志監督二作目。処女作「大日本人」は笑いの方法やコント仕立てのラストに賛否両論巻き起こり(どちらかと言えば否が多い)、作品の評価は人それぞれだが「無難でなかった」という点において良い作品だった。俺個人はその当時の感想に書いたとおり、笑いの部分は基本に忠実、それより映画作品としてよく出来ていると感じたので二作目もあると確信し、評価としてはニュートラルな★3にした。二作目である本作は、それを受けての評価となる。鑑賞は前回の教訓を生かし、DVDリリースまで情報封鎖。

「しんぼる」はダブルミーニングで、一つは「男のしんぼる」=ちんこ、もう一つは「人類のしんぼる」=神、である。閉じ込められた男は言わば神に成り得る、成りかけの男であり、ちんこスイッチのある密室から、試行錯誤して脱出しようと試みることで、神様修業をしているのだろう。

ケツから出る出前一丁のように、ちんこスイッチを押す=何かが出てくる、という構図は、何かの誕生・組成を意味している。ここからは推測だが、ある日、主にキリスト教系のモチーフとして見られる天使に、ちんこがついている事を発見した。「天使て男なんかい」と軽くつっこんで、そこからちんこスイッチの着想を得たのかも知れない。

一方、ストーリー上長いこと謎の存在だったルチャレスラー及びその家族は、神成りかけ男の成長によって終盤にようやく結びつく。言わば男の成長過程は、ルチャレスラーの「首伸び」に至るフリであり、あの瞬間、新たな神としての可能性が芽生えたことを意味している。神の些細な好奇心で、人間の首だって伸びるし、火も噴くし、犬とも会話できるのだと。

そうして神は新たなステージへと上り始めた。ちんこスイッチをつかみながらロッククライミングのように上っていく過程では、様々な生命の誕生・人類の営みが描写され、ここで本作の主題が明確に伝えられる。やがて上り詰め未来へと向かう神には、また別のちんこスイッチが眼前にあり、彼はやはり押そうとする=未来を切り開く、のだった。

以上のように、本作は一言で言えば神誕生を描いた作品である。そのような観念的な世界を描くのに対して、その描写が全体的に大雑把というか、底が浅い。例えば前述した神が未来へと向かうシーンでは、過去の映像を切り貼りして、その中を神成りかけ男が通過していくのだが、なぜああいう明快にわかりやすい、誰でも思いつくような方法を採ったのだろうか。ラストシーンもそうだ。わかりやすい程の未来、それに対する行動、全て想像の範囲内だった。

これは松本本人の世界の浅さ・狭さゆえであるように感じる。過去の実績からして、彼は間違いなく笑いに関して独特な観点を持った、感性で勝負して勝ってきた人だ。本作のように神を描くのであれば感性だけでこなすのは難しいだろう。森羅万象あらゆるものへの興味・知識、自己がこれまで培った思想・死生観、様々な要素が自分の引き出しに入っていて、ようやくなんとかなるレベルだ。松本に果たしてそういう部分の蓄積があったのかどうか。ダウンタウンの番組で見る程度でしかないが、実際彼は言葉やモノをあまり知らない。誤用も多いし、それを指摘され恥ずかしがるシーンも結構ある。同じお笑い芸人でも、例えばタモリやビートたけしに感じる知性は、残念ながら松本には無い。つーかそもそも求めていないし、いまさら獲得する必要もない。ただ本作のように、複合的要素が絡み合う作品では、それが無いのは大きなマイナスとなっていた。

だからこそ、松本は狭い世界で勝負するべきである。要するに、またそれかという話にはなるが、「システムキッチン」の世界を突き詰めれば良いのである。良いというか、より一層の高みに至るにはそれしかない。狭い世界を、とことんまで突き詰め、一般に媚びず、もちろん(本作のように)外人に媚びず、「日本の笑いの機微が世界一」という自負を持って、狭い世界を追求して欲しい。


東京物語 ★★★★★

広島・尾道から東京にいる子供らを訪ねた老夫婦の話。

今回小津初体験ということで、代表作の本作を選んだ。もともと小津についてはヴェンダースから逆戻りして知ったということもあり、自分の大好きな監督が尊敬する監督、それも代表作ということで敬意を込めて、見る前から★5は決定済みだ。

敬意はさておき、率直な感想としてはとても素晴らしい映画だった。映画の世界に小津ブランドが確立されているのもよくわかる。映画監督が、これほど映画そのものを支配できる様は中々見ることができない。たぶん日本一世界で有名な黒澤明作品でさえ、監督の力だけでなく、志村喬や三船敏郎、あるいは仲代達矢あたりが強烈な個性を発揮しないと、推進力は損なわれただろう。しかし小津作品では、主役の笠智衆や当代のトップアイドル原節子ですらも、色は消され、小津色にすっかり染められている。

だから小津作品にとって、俳優は恐らく映画を構成する一つの要素、コマでしかなく、たぶん、たぶんだが、監督の指図通りにやってくれたなら、誰でもいいんだと思う。それを物語るように、登場人物のセリフは棒読み気味で機械的であり、そこに俳優個人の色付けや感情は表現されない。もちろん、本作で言えば美容室をやっていた長女や、大阪にいる次男のように、「家族関係の崩壊」を明示する記号としての、感情の表出はあるが、それは監督のコントロール下にある。

そうして(商業主義とは別の意味で)機械化されたオートメーティッドな作品は、監督と俳優が互いに強調・協力して作り上げる一般的な映画とは異なり、独特の印象を見る者に与える。老夫婦の淡々とした語り口、現実離れした現実との関わり方は、機械化された故幻想的であり、また感情が無い分、世間に生ずる様々な情景を、客観的に描写してくれる。長男や長女の身勝手な態度や、自分で「ずるい」と言った次男嫁の態度を、我々は日々の生活で自分の中に見つけられる。

サッカーファンの俺からすると、これは1974西ドイツワールドカップにおける、リヌス・ミケルス率いるオランダ代表のローテーションフットボール(後のトータルフットボール)を初めて見た衝撃に匹敵するかも知れない。笠智衆にクライフほどの奇抜さはないが、この時代にこういう作品を作っているのは、とても先進的なことだ。

さすらい ★★★☆☆

大型トラックで移動しながら映画を上映する男と、自暴自棄になった男の旅話。

見終わるのに3日かかった。180分の映画なので通常の映画の1.5倍のボリュームがあるが、それ以上に体感時間がものすごく長く感じる映画だ。見始めては退屈になり途中で止めて、またしばらくして見て、止めて、そういう風に見ても、この映画は良いように感じられる。

しかも見終わっても何も残らない。何の追加的知識を得られるわけでもないし、もちろん感動するわけでもないし、印象的な何かがもたらされる事もない。ただただ浪費、このゆったりした時間に身を委ねるのが、本作との関わり方だ。

しかし本作のように、映画そのものにマジメに取り組んでいる作品はあまりない。例えばハリウッド、その作品は多かれ少なかれ、消費できるように”制作”される。消費に値する明確な何かが必ずある。それはストーリーだったりキャストだったり、映像の奇抜さだったりと、まあ色々あるが、確実なシンボルがなければならない。

ロードムービーということで旅に例えるなら、それはまるでパック旅行だ。シンボリックな観光地があらかじめ決まっていて、一旦そのパック旅行に参加すると必ずそのシンボルに到達できる。それをどう受け手が感じるかはそれぞれだが、とにかくシンボルを拝めるのである。ヴィム・ヴェンダースの映画は、その点行き当たりばったりの無計画旅行と言ったところか。

無計画ゆえ無駄が多い。なんで野グソシーンをあんなにマジメに撮影するのか。このダルさとマジメさは、映画そのものが持つ映像作品の魅力を感じるには良いと思う。ただほんと、退屈で長い。それもコミで面白い。

肉体の門(1964) ★★★★☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。次は1964年、鈴木清順監督作品。

清順監督と言えば、色彩の美麗さや奇抜な演出で、世界的にも名の通っている人だが、今作でもそのエッセンスは感じられる。まずパンスケ4人を赤・緑・黄・紫のワンピースで色分けして、それぞれのキャラクターもその色が持つ印象に仕立てているのが技巧的だ。例えば、五社版では主役だった小政は直情型の赤、清順版の主役であるボルネオ・マヤは緑で感受性の強さを表しているし、紫はそのまま売女、黄色=デブで陽気というイメージはいつからなんだろうか。

戦争に負けて、彼女らは仕方なくパンスケになったと思うが、それが故に徒党を組んで助け合い、シノギの場では虚勢を張っていきがる女の逞しさ、そして一人の女性としての愛を望む気持ちとがせめぎ合い、その葛藤のコントラストがよく表現されていた。五社版では小政と男の関係、彼女らの儚い夢物語だったのが、清順版はより深く、内面も描いている。

おっぱいについてはかなり控えめだ。つーか五社版の1988年ってバブル絶頂期か。そりゃおっぱいも中心になるよなあ。それから20年前になると、例えパンスケを題材にしたとて本作のような控えめおっぱいになる。

「肉体の門」とは関係ないが、数年前「おっぱいバレー」という作品がちょっと話題になった。見てないので詳しい内容はわからないが、バレーの試合に勝ったら先生がおっぱいを見せる云々のやつだ。五社版のおっぱい中心、おっぱい動説からすると、20年して再び控えめおっぱいつーか、妄想おっぱいへと衰退しているのかもしれない。この20年間周期のおっぱい描写循環は意外と面白い。

肉体の門(1988) ★★★☆☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。最初は1988年、五社英雄監督作品から。

「吉原炎上」「226」の間に作られた作品と言うことで、作風はその2作に非常によく似ている。大袈裟な演出で、映像のインパクト重視つーか、おっぱい重視の描写が多い。主役級の俳優は前年の「吉原炎上」とほぼ同じで、おっぱい描写OKのかたせ梨乃・名取裕子・西川峰子が、吉原の花魁から戦後のパンスケに変わっただけだ。つーかひょっとすると、「吉原炎上」がそこそこヒットして、その要因を分析したところ「例の、女のおっぱいである」とわかり、おっぱいありきの原作を探していたら、たまたま「肉体の門」を見つけたのかもしれない。内容よりもまずおっぱいというわけだ。

うん、こう考えた方が色々合点がいく。次の感想で書く鈴木清順監督作品と比べると、鈴木版が文学的な印象を受けるのに対して、五社版は正直、不発弾とおっぱい、それからこれも吉原炎上で使われていたが、最後の口に爆風が入ってグワーってなるやつぐらいしか印象にない。女の喧嘩シーンとか、なんかよくわからん意気投合のダンスシーンは見てられないという意味で印象に残ってるが、一つの作品として果たして何を描きたかったのかはよくわからなかった。

そこでおっぱいである。女優の名をもって、大々的に公開される映画作品でおっぱいを見せても構わない女優さんがいて、しかも前述の三人のような名の知れた面々であるならば、これはもう「テーマ:おっぱい」で十分説得力がある。こんなにおっぱいと書いたのは初めてだ。

蒲田行進曲 ★★★★☆

スター俳優・銀ちゃんと、大部屋俳優・ヤスの話。

オリジナルが舞台作品ということで、映画とは言えかなり舞台を意識した作りになっている。俳優の演技は大袈裟で外連味たっぷり、BGMも押しつけがましく、クライマックスシーンも一画面に収まる。舞台はよくわからんが一週間とか長いと一月とか上演するようだが、階段落ちは毎回実演したのだろうか。

この押しつけがましいケバさは、結果的には映画全体の熱気となってプラスに作用している。なんつーか、あの奥崎謙三の「わかってやってるガチさ」に通ずるガチさというか、最後劇中劇のネタ晴らしでもわかるように、演技することを強調してみせたのが、テンポの良さに繋がっていた。

スターである銀ちゃんはシンボル、何が何でも存在を守るべき対象である。大部屋はスターのためにいるし、その言葉は絶対的、わたくしを捨てねばならない。だから強く結びついているように見えても、互いの心根は理解できない。階段落ちの前、ヤスが意図的にゴネてみせたのも、この大勝負の前に銀ちゃんに存在をアピールしたかったのかもしれない。「ヤス、あがってこい!」でケバさはピークに達するが、ここまでくると俺自身は性格的に引いてしまった。熱さが空回りせず全体の推進力となっている良い映画だった。