戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。
映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。
今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。次は1964年、鈴木清順監督作品。
清順監督と言えば、色彩の美麗さや奇抜な演出で、世界的にも名の通っている人だが、今作でもそのエッセンスは感じられる。まずパンスケ4人を赤・緑・黄・紫のワンピースで色分けして、それぞれのキャラクターもその色が持つ印象に仕立てているのが技巧的だ。例えば、五社版では主役だった小政は直情型の赤、清順版の主役であるボルネオ・マヤは緑で感受性の強さを表しているし、紫はそのまま売女、黄色=デブで陽気というイメージはいつからなんだろうか。
戦争に負けて、彼女らは仕方なくパンスケになったと思うが、それが故に徒党を組んで助け合い、シノギの場では虚勢を張っていきがる女の逞しさ、そして一人の女性としての愛を望む気持ちとがせめぎ合い、その葛藤のコントラストがよく表現されていた。五社版では小政と男の関係、彼女らの儚い夢物語だったのが、清順版はより深く、内面も描いている。
おっぱいについてはかなり控えめだ。つーか五社版の1988年ってバブル絶頂期か。そりゃおっぱいも中心になるよなあ。それから20年前になると、例えパンスケを題材にしたとて本作のような控えめおっぱいになる。
「肉体の門」とは関係ないが、数年前「おっぱいバレー」という作品がちょっと話題になった。見てないので詳しい内容はわからないが、バレーの試合に勝ったら先生がおっぱいを見せる云々のやつだ。五社版のおっぱい中心、おっぱい動説からすると、20年して再び控えめおっぱいつーか、妄想おっぱいへと衰退しているのかもしれない。この20年間周期のおっぱい描写循環は意外と面白い。