バートン・フィンク ★★★★☆

WWII前後、ニューヨークの舞台劇で成功しハリウッドに迎えられた脚本家が苦悩する話。

仕掛けは多い。疑い出すとキリがない。ラスト、ホテルを後にしたバートンが海岸にいると、突然女性が歩いてきてバートンの前に座る。するとまるでバートンが滞在したホテルの壁に掛かっていた、浜辺にたたずむ女性の絵と同じような構図になる。しばらくして、鳥が海に潜ってエンド。ここだけ見ても示唆に富んでいる。

デジャブのように、なんもない浜辺に座っていると、急に美女が歩いてきて自分の斜め前に座る、なんてのは現実としてありえない。だとすると、浜辺の美女はバートンの妄想だと言うことになる。海に潜った鳥は、その女性以外が現実である事を示している。脚本家であり、ストレスの発散時やダンスシーンでわかるように、「クリエイター」という意識が非常に強いバートンにとって、妄想が膨らんで現実と重なるのは、無くはない事だ。

するともう、このストーリーはわけがわからなくなる。細かい部分では、蚊・ホテルの異常な暑さ・外壁からしみ出る糊のようなもの、バートンの目にとまる奇妙な光景は、彼の妄想かもしれない。知り合ったばかりの女性が、バートンのような奇抜な風貌の男の部屋に、呼び出してすぐに来るだろうか。朝起きて、横を見るとその女性が血まみれで死んでいるなんて、クリエイターにとっては非常にエキサイティングな状況だ。ひょっとして、チャーリーや、ハリウッドに来たことすらもバートンの妄想かもしれない。チャーリーに渡された箱は、いわば「現実」のシンボルであって、バートンが「チャーリー」の私物である箱を「開けない」のは、そこに現実が詰まっているから、深読みすると、酷い戦争が詰まっているからという事になるかもしれない。

以上は俺の想像(妄想ではない)であって、コーエン兄弟の狙いは全く違うかもしれないし、そもそも狙いなんてなく、示唆に富んだ仕掛けを張り巡らせれば、見る側が勝手に解釈してより良い着地点を見つけるだろうと、見る側に評価を丸投げしているかもしれない。沈黙は金とはよく言ったもので、ある妄想を、雄弁な連中に想像させれば、勝手に良い方にまとまるのである。落語にもこういう噺はあった。見終わって調べてから分かったことだが、実際本作は1991年度のカンヌでパルムドールを含む三部門を受賞している。

この「カンヌ」つーのがわかりやすいつーか、映画を熟知した批評家連中にとって、本作は雄弁に語るのにうってつけな素材だったのだろう。そこまで見越してコーエン兄弟が製作したとすると、月影先生言うところの「恐ろしい子」になるが果たして。

武士道残酷物語 ★★★★☆

江戸時代から昭和30年代まで、自分の先祖の残念な人生を振り返っていく話。

江戸時代の封建社会の理不尽さを描いた作品。極端ではあるが、こういうの見ると昔ってすげえと思う。主君が死んだら、主だった家臣が後を追って殉死する。流石にこの風習は江戸の初期、第4代の家綱の時代だったかに法律で禁止されたが、戦国時代あたりから少なくとも家光の時代までは、殉死が「忠義を示す絶好の機会」として捉えられていたということだ。あーーーーー、すげえなやっぱ。

つまり死は家を繁栄・維持させる手段である。個人は家の中に埋没し、その家は世間を形成して国のために存在し、その国は大名のためにある。ここでようやく個人(大名=主君)が家に先立つ。大名の上には徳川幕府があり、頂点に個人(将軍)がいるが、江戸時代の日本は実質的には一つの強力な国がある連邦国家のようなもので、各藩の政治体制は極端なトップダウンだ。トップダウンの場合、トップの資質が優れていれば、民主/共和制よりよほど機能する。逆の場合は最悪で、本作のようになる。

特に酷かったのは天明期の田沼時代、剣の達人である先祖が、まず自分の弟子と結婚させる予定だった娘を身売り同然に江戸に送られ、妻に殿様の一時的な酔狂で死なれ、挙げ句に弟子と娘を自分の剣で殺してしまう。それでもなお、主君の名を尊ぶ心理は、先祖や家を考えての耐え難い我慢なのだろう。仮に怒りにまかせて主君に刃向かったとしたならば、自分は当然処刑されるとしても、家は取り潰され、一人残した幼児は転地の上平民か、最悪非人にまで貶められる事になる。それを考えての態度であり、また主君の方もわかってもてあそんでいる。

そして現代、このきちがいじみた封建社会は、特攻隊出撃の際の特攻兵と帝国海軍との関係性、また(当時の)現代社会における会社員と会社との関係性に置き換えて当てはめている。この構図・残酷さは確かに普遍的に通ずる感覚であり、今なお残る日本的価値観・封建社会的家重視の名残なのだろう。

めし ★★★☆☆

主婦として日々炊事・洗濯・掃除とルーティーンをこなす事に疲れたミチヨが、気晴らしに帰郷する話。

タイトル「めし」に込められた意図は、夫が妻に単語で命令する、「(おい)めし!」ではないかと思う。昔ドリフか何かのコントで、「めし!」「風呂!」「寝る!」の3つだけの夫婦生活を描いたものがあったように記憶しているが、本作もその状況における主婦の心と、まるで女中のような窮屈な暮らしぶりを描いている。

そんな日常をぶっこわしたのが、東京から急に家出してきた親戚の娘だった。彼女は典型的クラッシャー、自由奔放な行き方は、今のミチヨにとってその存在そのものが気に触る。夫との関係も微妙にこじれ、ついに彼女は日常からエスケープ、実家でのんびり暮らすことになる。

東京の実情や、昔の友人の苦労を見ることで、あの日常がいかに充実していたかを思い知らされて、またいつもの普通に戻る。ストーリーでは大した展開は起こらないし、まさに平凡・日常を淡々と綴るのに終始する作風は、逆に現代にはない落ち着きがあって興味深かった。

慶應義塾大学通信教育課程の噂:評価(その3 試験)

前回に引き続き慶應通信の話でも。今回が評価についての最後の記事となる予定。最後のテーマは試験の難易度だが、例によって「大学通信教育つれづれ」のsanno氏が直近の記事で的確な指摘をされている。この記事を読めば筆者の記事など読む必要はないのだが、せっかくだから書く。

レポートと比較すると、試験の難易度はそれほど高くはない。少なくとも経済学部の専門科目では、大半の科目がテキストの範囲もしくは履修要項であらかじめ試験出題用と指定された参考文献の範囲から出題されており、履修内容とのギャップは少ない。よって試験対策も、過去問で出題傾向を把握した後は何度もテキストを読んで理解する(暗記する、ではない)ことで、基本的には合格点がとれるだろう。

もちろん例外もあって、経済史のように、それってテキストでは半ページしか記載がないだろ、どうやって論述するんだ、という出題があったり、時事問題と絡めた出題をするようなひねりをきかせたがる科目もあるが、全体としては少数派だ。

試験のレベルとしては基本的な事項を問われることが多いようだ。スクーリングの試験の場合だと講義で触れた多少高度な話題が出る場合があるが(多くはない)、講義という手がかりなくテキストをまんべんなく学習させるテキスト科目では、そこまでやるのは酷だと考えているのかもしれない。

スクーリングの話題に触れたところでスクーリングの難易度についても触れておこう。スクーリングの評価は大半が試験でもあるし。

スクーリングは上でも触れたように基本的に講義の内容からしか試験が出題されないため、難易度はそれほど高くないと思われる。特に夏期スクーリングは期間が短いことと基礎科目の講義が多いこともあって、内容的にもそれほど高度なものが出された記憶がない。密度は濃くてもやはり短期間なので、高度な内容を出しても消化不良になってしまうことを講師の方もご存じなのだろう。「発展的な内容は夜間スクーリングでやります」と公言していた講師もいらっしゃった。結果、筆者の周りでは語学以外で落ちたという話を聞いたことがない。筆者自身も評価はすべてAかBである。ただし語学(というか英語)は当たり外れが激しい。筆者はどちらも当たりの講義だったが、外れを引くと悲惨である。場合によっては最初からあきらめてしまう方がよいかもしれない(英語力をつけるなら外れ科目の方がよいのかもしれないが)。

というわけで、以上で評価についての考察を終える。一言言えるのは、筆者の主観では、理不尽に難しいのは例外的にあるかもしれないが、それ以外はごく普通の難易度だということだ。ただ難易度はその人のそれまでの経験によって感じ方が大きく異なるので、高卒から入学した場合は面食らってしまうかもしれないなあというのは感じる。

鬼畜 ★★★★☆

昔の女との間にできた三人の子供を押しつけられ、今の女と共謀し子供をなんとかしようとする男の話。

表現の規制(自粛・自主規制)が、表現そのものにとっていかに足かせ・ボトルネックとなるかが、本作を見るとよくわかる。演技とは言え三人の子供に対する仕打ち、いじめ、疎外感、家庭内暴力は、今の世情で製作するとなると、子供の人権が、だの、トラウマうんぬん、PTSD、などなど、「諸々の事情」でそれらしい雰囲気を演出するに止まるだろう。

しかし、本作におけるまさに鬼畜な二人の人物描写は、子供に対する非道な行いを通してしか見る側に対して伝わらないと思う。ストーリーはなんのことなく、ただ愛人に愛想尽かされて子供を押しつけられた男と今の女がその子供をどうにかするという、何の仕掛けも奇抜さもない、どストレートなものだ。ほとんど見た事はないが、よっぽど今の火サスのようなテレビ2時間サスペンスドラマの方が、ストーリーの起伏に富み、トリックもあり、面白味はあるかもしれない。ただそれが小手先の幼稚なものに感じられるほど、本作の鬼気迫る描写がもたらす本気度の高さは、たとえ現代の基準では人権蹂躙であろうと、あのむごい仕打ちを隠さず描く事で表現されている。女の苛立ちを描くのに口に飯をぶっ込む事は、どうしたって必要だ。

冒頭からして凄い。切羽詰まった女の表情、押しかけ対決する二人の女、そこに重なるしょぼい男、この20分程度の導入部分はよく目が詰まって凝縮されていて、三者三様かっこいい。小川眞由美という女優さんをあまり知らなかった(なんかどっかで見た事あるけど、何の人だったかな~程度)ので、見た後調べてわかった事だが、小川眞由美と岩下志麻はこれ以前に共演することが多かったらしく、それが本作における素晴らしい啖呵切りの、見事に呼吸のあった最強さに繋がっているのかもしれない。

現代でも家庭内暴力は時折ニュースとして見るので、こういう事は現実に起こっている。知らないガキが常に家にいて自分を苦しめるうっとうしさ、我が子を暗黙的に殺害したり、捨てたり、海に突き落とすために旅行する、この心理は、今の俺のリアルにはならず、時代性もありリアリティも薄かった。ただ、今まさに自分の問題として本作のような状況を抱えている人が見た場合、それはリアルにも重なり、また時代を超越した心理状況においてリアリティを持てるだろうから、不謹慎ではあるが、そういう人の感想を見てみたい気にもなった。つーかこの発想、ちょっと鬼畜だな。


ブレス ★★★☆☆

何度も自殺未遂を繰り返す死刑囚のもとへ面会に通う、家庭崩壊寸前の女の話。

キム・ギドクのファンタジーということで、主役二人は言葉をほとんど発さない。男に至っては一言もなかった。ただし通常(ギドク作品の)そうすることが独特のファンタジー世界演出ということだったが、本作の場合自殺しようとして咽に鋭利なものを突き刺したのが原因のため、物理的に話すことができない。

女は、心の離れた夫の代わりを求めて、死刑囚の男に会いに行ったのだろうか。発作的に始まった逢瀬、最初彼女は自分の鮮烈な記憶を話すことで、まず秘密を共有し言わば人工的に恋愛関係を構築していった。次の春・夏・秋それぞれの変な歌3連発は、夫との関係の中で記憶に残るシーンを模してある。

そこであの歌なんだが、恐らくだが(曲調から推測)韓国における、日本で言うところのポピュラーなアイドル歌謡(ex.木綿のハンカチーフとか瞳はダイアモンドとか)であって、歌と当時の記憶が結びつきやすい類の、ポピュラーソングだと思われる。それを唐突に、壁紙や小道具まで用意して歌ってしまうのは、良かった時代の記憶にすがりたい心境なのかもしれない。ベルが鳴って死刑囚の男がいなくなってからの、壁紙をベリベリ剥がす時の無表情は、過去の理想的非現実から、今の絶望的な現実へ戻される、コントラストから生じたものだ。

だから、最後の冬の歌を歌うのが家族関係を修復した親子三人になるのは、あまりに悲惨な印象が残る。結果から逆算すると、死刑囚の男は夫婦関係修復のための手段として用いられたということになり、さらに彼が一家殺人で死刑となったこと、家族三人が車内で歌っているのとは対照的に、雑居房の同居者から絞め殺されるという対比は酷に感じた。

というのは、彼がなぜ一家殺害をやってしまったのか、その理由がわからなければ、まず彼女を受け入れたこともそうだし、こうして無碍に殺されるに値するのかどうかも、見ている側は判断の材料がない。ここで、キム・ギドク的無声の弊害が出てしまう。保安課長が許可し、成り行きを静観したのもよくわからないし、いくつか謎が残ったままの終幕となった。

慶應義塾大学通信教育課程の噂:評価(その2 レポート)

さて、昨年4月の科目試験が終わってから書こうと思っていたこの項目も、4月試験が終わり、7月試験が終わり、夏期スクーリングが終わり…とずるずるしているうちに、年度終わりのこの時期まで書かずに引っ張ってしまった。こういう話題で年度をまたいだとたん書かなくなると(しかも丸1年書かずに)、まるで挫折したようで見栄えも悪いので、久々に慶應通信の話題を書いてみる。

まずは、今回の考察に入る前に、1年あいたので筆者の慶應通信での近況を簡単に述べてみる。このブログで書く記事が滞っていた一方で、単位取得自体は順調に進んでいる。先日戻ってきた夜間スクーリングの単位を加えた現時点では取得単位数は115単位(学士入学の一括認定を含む)。あと1単位で卒論以外の単位数を充足するはずだ。ただ、念のために1月試験の結果返却後に成績証明書を発行してもらうつもりである。この点、年度末ごとに成績表を送ってくれてもよいのにと、少し不満に思う部分ではある。現在は卒論執筆中で、順調にいけば今年9月には卒業する(卒業予定申告済み)。このように偉そうな分析をしながら卒業しないのはかなり恥ずかしいので、何とか卒業が見えてきてほっとしているところだ。まあ卒論が行き詰まり中なので、まだ油断できないが。

では分析に入る。前回は主に履修時のシステムについて考察したが、これだけでは慶應の通信教育が特別難しいとはいえないことがわかったと思う。レポートを提出しさえすれば科目試験の受験資格を得、レポートが不合格で返ってきても試験に合格すればレポートの再提出で合格さえすれば再度試験を受けなくてすむ、というシステムは、他の大学通信教育と比較してもそれほど厳しくはない、むしろ緩いくらいだ、というのが前回の話だった。

それでは次に、具体的に課題と採点から難易度を確認しようと思う。とは言っても、筆者は他の大学通信教育を受講したことはないため、相対的な比較をすることは難しい。相対的な難易度の参考としては、以前紹介した「大学通信教育つれづれ」というサイトの「【雑感】レポートの不合格」という記事がおすすめである(無断リンク禁止とあるのでリンクは張らない。各自で検索されたし)。余談だが、「大学通信教育つれづれ」は、以前の記事で紹介してしばらくして、一時的に事実上の閉鎖をしていた。本サイトで紹介したのが原因だったのだろうかと心配していたのだが、再開した際の記事で、本サイトでの紹介を見て再開を決めていただいたという内容を読み、一安心するとともにうれしかったことを覚えている。

というわけで、この記事で比較対象となるのは以前卒業した某国立大の社会学部、そして現在妻が受講している北海道情報大の通信教育課程、という偏った対象となることをご容赦いただきたい。

まずレポート課題の形式について確認する。レポートの必要字数は基本的には4000字以内(例外あり)であり、課題は1~2問程度で「~について述べよ」式になっていることが多い。長文の論述形式だ。これは、筆者が以前卒業した大学では一般的な形式であり、おそらく文系学部全体でも一般的な形式だろう。逆に一応文系に分類されるが理系の色彩が濃い北海道情報大学では、短答式の設問が数十問出されるというチェックテストのような形式が多いようだ。

次に課題の内容であるが、これがなかなかのくせ者である。一般に大学通信教育での通信授業では、テキストの内容が講義代わりであることが前提だろう。ということは、講義内容の理解度を確認するという意味であれば、レポート課題はテキストの内容から出されると考えるのが順当だと思われる。もしくは履修要項に挙げられている指定の参考書でもよいだろう(これは一般的な講義におけるテキストと考えてもよいので)。実際、妻から見せてもらった北海道情報大学のレポート課題も、大半(すべて?)がテキストの内容を理解しているかを確認するものだった。

しかしながら、慶應の課題、特に経済学部の必修科目の場合は、テキスト・指定参考書だけの内容ではレポートで合格点をもらえることは少ない。少なくとも、レポート課題の内容を主題とした専門書を最低1冊は利用しないと、まともなレポートが書けないような課題が多いと感じている。というのも、経済学部必修科目は基礎科目であるため、テキストや指定参考書では基本的な項目が網羅的に述べられている一方で、一つ一つの項目についての掘り下げはさほど深くない。これに対して、レポート課題は特定の項目について深く掘り下げた考察を求めているものが多いのだ。

実際に、筆者は経済原論や経済政策学(今はテキストが書き換えになって新経済政策学となっているので今の事情はわからない)のレポート作成において、テキストと指定参考書のみを利用して作成をしたところ、それらテキスト・参考書には記載されていない深さを要求されてD判定(不合格)となった。特に経済原論では、普通の入門書レベルではまず出てこない項目にまで言及するようコメントが記載されていてびっくりしたのを覚えている(入門書と銘打った書籍でこのレベルまで記載されていたのは、私の知る限りゼミナール経済学入門(福岡正夫)のみ。噂では通学課程の学生のテキストらしい)。

というわけで、こと経済学部必修科目に関する限りは、テキストの履修内容とレポート課題とにレベルのミスマッチがあるのが、「高い難易度」の最大の原因であると考えられる。この証拠に、レベルとしては発展系と位置づけられる経済学部の選択科目では、レポート課題に密接に関連した参考文献が挙げられていることが多く、内容が高度な割にレポートは合格しやすい。

あとは、レポートの形式が整っていないと低い評価になりやすいというのが特徴だろうか。たとえば引用の仕方や参考文献が適切に挙げられているか、また序論-本論-結論といった文章の構成がきちんとなされていないものに関しては不合格となる場合が多いようだ。ただこれは、形式さえ整えておけばまずはクリアできるものなので、難易度が高いというほどのものではないだろう。逆に形式にうるさいと言うことは、それだけ形式に則っていないレポートが大量に提出されていて、採点者がいらいらしているだろうことが想像できる。

以上が、筆者の考える「レポートが厳しい」という噂の実態である。ただ、筆者が経験したのはあくまでも経済学部の学部科目のみである。慶友会の人の話では総合科目が一番の鬼門とも聞くので、レポート難易度はこうだという断言は、筆者は未だにできていない。

ブログエディタを使ってみる その2 IBMホームページビルダー14

ホームページビルダーは、一般の人たちがWebサイトを開くようになり始めた頃から存在する、老舗のWebデザインツールである。その後個人サイトが更新・管理の簡単なブログに移行し、Webデザインツールがプロ向けばかりになっていったため、初心者をターゲットとしていたホームページビルダーはどうなったのだろうかと思っていたのだが、しっかり版を重ね、今でも現役のパッケージソフトウェアとして健在だった。ただ、すでに個人向けビジネスから撤退したと思われるIBMは開発のみを担当し、現在はジャストシステムからの発売となっている。ジャストシステムも文書デザイン系のアプリケーションは得意なはずなので、もしかしたら開発から関わっているのかもしれないが、詳しいことは知らない。

さて、調べてみると、ホームページビルダーも最近の版ではブログ管理をサポートしているようだ。ターゲットから個人ユーザーが大半だと思われるので、ブログに対応するようになるのも必然か。ちょうどIBMのサイトから最新版の14(2009年12月発売)の体験版がダウンロード可能だったので、試しに使ってみることとした。なお、筆者は体験版をインストールしてPCの環境が汚くなるのが嫌いなので、VirtualBoxを使い、エミュレータ上のWindows XPで試用してみた。

今回のチェックポイントは大きく2つ。一つは当サイトの記事を適切に更新できるかどうか。もう一つはbitchが書きためているという記事を楽に移行させることができるかどうかだ。それでは、早速インストールしてブログの管理をさせてみる。

まず、管理するブログの種類を選ぶ画面が現れる。下の画像のように各種ブログサービスに対応しているが、自ら運営するブログ管理ツールでは、MovableTypeにしか対応していない。普通に考えるとここで未対応→終了なのだが、WordPressはxml-rpc APIがMovableType互換であるため、とりあえずMovableTypeを選択して次へ進む。
hpb01

ユーザー名とパスワードを入力。
hpb02

xml-rpcの設定。MovableTypeの場合の設定例がデフォルトで入っているので、
hpb03

WordPress用にURLを修正する。cgiではなくphpを指定。
hpb04

すると、自動的にデザインの読み込みを行い、設定完了。やった。
hpb05

保存して終了。
hpb06

次に、とりあえず既存記事の編集を行うこととした。ただ、なかなか既存記事を検索することができない。試行錯誤の末、とりあえず事前に「ブログの記事を一括取得」を選ぶことで、直近の記事を取得できることがわかった。
hpb07

さて編集だ、と思ったところ、先ほど読み込んだはずのデザインの適用がなぜかできず、MovableType風のデフォルトデザインでしか開けない。もうこの時点で面倒になって編集終了。
hpb08

全体としては、いまいち操作性がこなれていないなあという印象。あと、このサイトを編集する上ではやはりWordPressに完全対応していないのは致命的だった。そのほか、せっかくホームページビルダーを使っているのに、他の機能との関連性がないようだったのも残念。通常のHTMLで編集した内容をブログ記事に簡単に移すことができればbitchにもおすすめだったのだが、それはできないようだった(もしかしたら対応しているのかもしれないが、この短期間の試用では見つけることはできなかった)。ブログ編集機能だけが独立している印象。

もちろんいいところもあって、それは保存されている下書きがxml形式であるところ。これなら他のテキストエディタでも編集や閲覧ができるので、扱いやすい。保存先フォルダの場所はわかりづらいが。

前回も書いたが、結論としては採用見送りかなと。ただ、貴重な初心者向けHTMLエディタでもあるし、今後もがんばってほしいとは個人的に思っている。

スパイナル・タップ ★★★★★

ロックバンド、スパイナル・タップの全米ツアーのドキュメンタリー。

ロックは、残念ながら、ダサい。この事をすぐに気付く人は少ないと思う。一見、ロックはかっこよく見える。なんかよくわからんけど、ギターを持ってギュイーングワユワーってやって、ピロピロ~~とかやって、・・・、・・・、・・・・ドコドコドコドコ、!!!!チャーチャーチャーチャーチャーン!!!ビービー!とか(各自脳内で変換)、一連の演奏がきまったら、かっこいい。

でも一寸よく考えて欲しい。その、先程までかっこよかったロッカーは、なぜ髪がもっさりと長いのだろうか。ソバージュをかけてるんだろうか。オカマなのか。ギターのヘッドを斜め上に上げて、苦悶の表情を浮かべているのか。☆のマークがいっぱい入ったラメのシャツを着ているのは。袖にすだれみたいのがついているのは。革ジャンにジーパンでラバーソールを履いているのは。なぜ演奏が終わったら半裸なのか。むしろなぜ最初から半裸なんだろうか。これでもわからなければ、「マイケル・アンジェロ/Michael Angelo」というキーワードで検索し、なんでもいいから動画を見て欲しい。・・・・・・。しばらく待とう。・・・・・。・・・・・。どうだろうか。

このように、本当に残念なのだが、ロックはダサいのである。一見して感じるかっこよさは、音楽の素晴らしさとそれに取り組む衝動との相乗効果で、ダサさが覆い隠されたに過ぎず、やはりよく見ると本源的なダサさはどうしても隠しきれない。スパイナル・タップとは、ロックのダサさを真正面から捉えた、全ロッカー(リスナー含む)推奨の、愛すべきロック映画だ。

ストーリーの中で、幾度となくロックの本質であるダサさが描かれるが、それはどれも、ある種の「あるある」に感じられるから、なんかもう、そういう俺がイヤだ。「11の方が10よりでかい」という事に意味を求めてはいけない。11は10よりでかいのである。問答無用。

音楽に限らず、ロック愛好家は人生の様々なシーンにおいてスパイナル状態に陥る。ロックに魅入られた人生は、これまた残念ながら苦節続きである。スマートに、予定通り、秩序立てて、論理的に、積み上げるのは不可能だ。いつもグダグダ、思い通りにいかず、急がば回れども遅れ、理屈が通じず、笑われのけ者にされて、道の端っこを歩くハメになる。ただ根っこの部分で一番やっかいなのが「当の本人がどこかでそれを望んでいる」つーのがもう、ホント、質悪い。ロックとはそういうものであり、そういうロックは、必然的にダサくなるのである。

ブログエディタを使ってみる その1 Windows Live Writer

bitchの振り返りのじゃまをしてしまって恐縮だが、その2を読んでふと思ったことがある。記事をローカルに保存しておき、かつ楽にアップロードしたいのなら、ブログエディタを使ってみてはどうかな、と。
そこで、おそらくbitchが本当に思っていることとはずれているだろうとは思うが(たぶん使い慣れたホームページビルダーと自作テンプレートで編集したいというのが肝だと思うので)、ローカルで保存できるブログエディタを紹介してみたい。
とはいっても、筆者自身はブログエディタについて詳しいわけではないので、とりあえず手元にあるWindows Live Writerを紹介してみたい。

Windows Live Writerとは、Microsoftが行っているWindows Liveという一連の個人向けサービスで提供されているツールのうち、ローカルにインストールして実行する「Windows Live おすすめパック」に含まれているブログエディタである。筆者は標準でメールクライアントが搭載されていないWindows7でメールを見るためにWindows Liveメールが、そして実家にいる父親のPCをリモートアシスタンスするためにWindows Live Messengerが必要だったため、それに併せてついでにインストールしていた(もちろん、インストール時に除外することも可能)。これが、Microsoft製品の割には意外に評判がいい。というわけで、早速起動してブログのオフライン編集を行ってみる。

まず実行すると、管理するブログの初期設定が実行される。

WindowsLiveWriter01 

このサイトはレンタルサーバにWordPressをインストールして使っているので、「他のブログサービス」を選んで次に進む。すると、以下のブログアカウント追加画面が出る。

WindowsLiveWriter02

見ての通り、サイトのURL(管理画面のURLではない)とユーザ名、パスワードを入力しさえすればよいので(パスワードを保存にもチェックしておくと古いメールをあさってパスワードを確認する必要もない)、入力して次へ進むと、あとはWindows Live Writerが自動的にブログをチェックして設定を進めてくれる。

WindowsLiveWriter03

このプログレスバーが終了すれば完了だ。ブログの設定名を適当に入力して保存すればOK。

WindowsLiveWriter04

実際の使用感は良好。それほど機能が多いわけではないが、さくさく動いて快適であり、通常の編集画面の他、プレビュー画面やHTMLソースの直接編集もすぐに切り替えられる。また、下書きは保存先をローカルかブログか選ぶことが出来、カテゴリ指定や日付の変更もこの画面から行える。なお、当ブログの場合、画像付きの投稿をブログへ保存するためには、FTPの設定を行う必要があった。 訂正。先日WordPressをアップデートしたときにディレクトリのパーミッションがおかしくなっていたのと、レンタルサーバの仕様変更に伴って修正した設定項目が間違っていただけだった。修正したらFTP設定をしなくとも画像がアップロードできた。

image

ただちょっと残念なのが、ローカルへの下書き保存が独自形式でしかもバイナリ形式であること。つまり下書きはWindows Live Writer以外で編集することは出来なそうだ。せめてXMLにしてくれれば良かったのに。

と、ここまでをWindows Live Writerを使用して書いてみた。感想としては常用してもいいかなと思っている。特に、出先でネットワーク環境がないところで下書きを書き進めたいときに重宝しそうだ。bitchにとっては、過去の文章をWindows Live Writerに貼り付けて編集する手順自体は変わらないが、実際の手間はずいぶん減るのではないだろうか。新しい感想は直接Windows Live Writerで書けばよいのだし。というわけでおすすめ。

さて、「その1」としたからにはその2も考えているということだ。実はbitch愛用のホームページビルダーも、最近のバージョンではブログ管理が出来るようになっている。調べてみると、最新のホームページビルダー14は体験版がダウンロードできたので、これを使ったブログ管理にも挑戦してみたのだ。ただ、結論としては「このサイトではちょっと使えないかも…」。というわけで、次回はホームページビルダー14のブログ管理機能を紹介する。