タイの幼児売春と違法臓器移植の話。
安いエンディングテーマとともに、「もしあの子達が人身売買されず、田舎で普通に暮らしていたらの想像図」が挿入されたところで、くりいむ上田の如く「火サスか!」と心の中でつっこんだ。本作のように、テーマ自体を扱うことで骨太のストーリーが紡ぎ出される類の作品に、最後「実は児童売買を追求していたまさに本人が、ペドであった」のような、サスペンス的どんでん返しは全く必要ない。
本作の主旨は恐らく、トラフィッキングと言われる人身売買・売春・臓器提供・強制労働のような、現実としてある社会の陰部を生々しく描くことにあると思う。そうすることで本作を見た者はこのような状況を認識し、最低でもこういう事がなくなるように願ったり、あるいはなんらかの行動を起こすかも知れない。誘惑に負けそうな時、本作を思い出して思い留めただけでも、役割は達成しているだろう。ストーリーはこの主旨のもと進行し、それらがいかに劣悪であるかを伝えるに十分な描写だった。子供達を買う大人の醜さは何度となく登場し、ブヨブヨの体は象徴的なモチーフとなっている。だからこそ、最後のどんでん返しは蛇足も蛇足、映画自体の評価を一変させるほどの酷い結末である。
この予兆は少し前から見られる。NGOのリーダーが人身売買反対を叫ぶデモで、それまで一緒に働いていた男が実は闇組織側のスパイだったという、そして何故か彼は自殺願望者の如く公衆の面前で銃を抜き警察とドンパチをやってしまうという、マンガのような展開はそれまでのシリアスな展開とは大きく異なる。
ではなぜこのような展開になったのか少し考えた。マンガのような裏切りと、無意味などんでん返し、この二つから考えられるのは「エンタテイメント性・フィクション性の付与」である。作品としての過激さを緩和するためのバランス措置というか、最後の方で帳尻合わせれば、このようなリアルさに嫌悪感を抱く連中にも言い訳が立つという、特定の観客に対する逃げ口である。またペド男とカメラマンが、組織側の男と買収済みの警官に銃で脅されるシーンで「お前らのような日本人を見るとクソな気になる」みたいなセリフを言ったが、まさにそういう、東南アジアなどに行って児童買春をやったことのある連中に対する、「過去のはチャラ、これからはナシで」という配慮を含んだメッセージのようにも思われる。
売買春そのものは、歴史の流れから考えても未来永劫無くなることはないだろう。かつては男権社会の犠牲だったり、貧困だったり、ほとんどが受動的なものだったが、現代では手っ取り早く金を得られる手段として能動的に行われる場合もあるからややこしい。ただし、本作で描かれた児童売春や日本のいわゆる「援助交際」などは、例え能動的であっても責任能力に問題がある。ペドの自覚がある人は是非本作を見て、今後どうするか考えてもらいたい。
ペドの人はなんとかこういうので我慢して欲しい |