闇の子供たち ★★★☆☆

タイの幼児売春と違法臓器移植の話。

安いエンディングテーマとともに、「もしあの子達が人身売買されず、田舎で普通に暮らしていたらの想像図」が挿入されたところで、くりいむ上田の如く「火サスか!」と心の中でつっこんだ。本作のように、テーマ自体を扱うことで骨太のストーリーが紡ぎ出される類の作品に、最後「実は児童売買を追求していたまさに本人が、ペドであった」のような、サスペンス的どんでん返しは全く必要ない。

本作の主旨は恐らく、トラフィッキングと言われる人身売買・売春・臓器提供・強制労働のような、現実としてある社会の陰部を生々しく描くことにあると思う。そうすることで本作を見た者はこのような状況を認識し、最低でもこういう事がなくなるように願ったり、あるいはなんらかの行動を起こすかも知れない。誘惑に負けそうな時、本作を思い出して思い留めただけでも、役割は達成しているだろう。ストーリーはこの主旨のもと進行し、それらがいかに劣悪であるかを伝えるに十分な描写だった。子供達を買う大人の醜さは何度となく登場し、ブヨブヨの体は象徴的なモチーフとなっている。だからこそ、最後のどんでん返しは蛇足も蛇足、映画自体の評価を一変させるほどの酷い結末である。

この予兆は少し前から見られる。NGOのリーダーが人身売買反対を叫ぶデモで、それまで一緒に働いていた男が実は闇組織側のスパイだったという、そして何故か彼は自殺願望者の如く公衆の面前で銃を抜き警察とドンパチをやってしまうという、マンガのような展開はそれまでのシリアスな展開とは大きく異なる。

ではなぜこのような展開になったのか少し考えた。マンガのような裏切りと、無意味などんでん返し、この二つから考えられるのは「エンタテイメント性・フィクション性の付与」である。作品としての過激さを緩和するためのバランス措置というか、最後の方で帳尻合わせれば、このようなリアルさに嫌悪感を抱く連中にも言い訳が立つという、特定の観客に対する逃げ口である。またペド男とカメラマンが、組織側の男と買収済みの警官に銃で脅されるシーンで「お前らのような日本人を見るとクソな気になる」みたいなセリフを言ったが、まさにそういう、東南アジアなどに行って児童買春をやったことのある連中に対する、「過去のはチャラ、これからはナシで」という配慮を含んだメッセージのようにも思われる。

売買春そのものは、歴史の流れから考えても未来永劫無くなることはないだろう。かつては男権社会の犠牲だったり、貧困だったり、ほとんどが受動的なものだったが、現代では手っ取り早く金を得られる手段として能動的に行われる場合もあるからややこしい。ただし、本作で描かれた児童売春や日本のいわゆる「援助交際」などは、例え能動的であっても責任能力に問題がある。ペドの自覚がある人は是非本作を見て、今後どうするか考えてもらいたい。



ペドの人はなんとかこういうので我慢して欲しい

都会のアリス ★★★★☆

アメリカからドイツへ帰郷する男が偶然知り合った女性に娘を託される話。

ヴィム・ヴェンダース初期の作品ということでもちろんテーマは旅、ロードムービーである。彼の描く旅は基本楽しくない。総じて虚無感や、未達成・敗北などという、旅が本来備えている非日常への期待というよりは、非日常へ挑戦した結果ダメだった者の、「行き」というより「帰り」の印象が強い。

男は雑誌かなんか(イメージとしては飛行機に乗ると網に挟んである機内誌の旅特集)の取材でアメリカの印象を捉えようと試みたものの、多様な印象を表現できないでいる。アメリカからドイツへ向かう行程は、娘と関わることで移動から旅となり、その日暮らしに近かった男の時間は、娘の家探しで意味を持つ。この変化はアメリカでは獲得出来なかった実体験のイメージ化を、必要から導き出すことにつながった。移動・食事・休憩・宿泊一切に子供の事を考えた意味が生じ、二人の関わりで互いに生気を得ていく過程は面白い。

映画であるから、「やがて家は見つかり二人は離れる」というゴールは早い内に想像できる。しかしその過程をこれほど魅力的に描くのは、静寂が見ている側にも心地よく作用するからだろう。ほんの少しだったが、二人が親子のように振る舞う時間、体操や写真を撮るシーンはこれからも記憶の断片に残りそうだ。つーか卑怯ではあるが、オーディションで映画の主役級に抜擢されるほどのポテンシャルを持った少女が、小憎たらしいと、必然的に魅力的である。

許されざる者 ★★★★☆

1880年代、かつて列車強盗殺人で名を馳せたマーニーが、引退して10数年後に賞金稼ぎの殺人を実行する話。

ジャンルは西部劇だがど真ん中のそれとは少し趣が異なる。保安官(または正義のガンマン) VS 悪党という構図はそのままに、本来街を守る側の保安官を権力者のデフォルメとして据え置き、街の保守性を維持するために強権的に問題を解決する独裁者の如き扱いになっている。逆に悪党は、そういう保安官の強権によって泣き寝入りさせられた社会的弱者のかわりに、敵討ちを実行する正義側の扱いになっている。

このように立場が逆転することで、通常のガンアクションでは重んじられない殺人の重大さが強調されるように感じられた。通常だと最後の対決に至るまでの過程の中で、そうする必然性が十分説明されるため、見る側は思考の余地無くアクションはアクションとして捉えることができるが、本作のようにアクションの理由に十分な裏付けがない場合、その意味が際立つ印象になっていった。つまり、殺人や死がガンアクション的な必然でなくなったということだ。

だから、売春婦達の敵討ちが風聞とかなり異なるつーか、風聞はメチャクチャ大袈裟であるという現実に直面した際に、悪党側の3人は3者3様の受け止め方をするのである。最も合理的な反応をしたのがネッド、彼は死をもって償わせるほどの罪ではないと判断し、ついに引き金を引けずに舞台からも去ってしまう。ある意味これが一番リアルな反応だ。次にキッドの反応は、理不尽な殺人を実行することで、その重大さに気付かされるというものだが、これも変な話フィクションにおけるメッセージを示すものとしてよくあるパターンではある。

そして異様なのがマーニーの反応である。彼はこの正義が理不尽なものであると気付きながらも、ついにちゅうちょ無く殺人を実行してしまう。その理由は殺人の少し前、彼が死線を超えるかどうかの病気(高熱)から生還したことが影響している。当時の1000ドル(333ドル)がどれほどの価値かわからない以上、あの描写をターニングポイントと捉えるのが妥当だろう。

こうして意味の分からない殺人さえも実行可能となったマーニーにとって、西部劇的な最後のガンアクションは、通常のアクションとはかなり異なってくるのである。つまり通常の大ボスであるところの保安官の存在はシンボル力が薄まって、その周辺にたむろする「雑魚キャラの理不尽な死」が際立ってくる。あの時、保安官の指示に従いネッドをみせしめにした酒場の主人だけが、その殺人の理由を説明されたのみ(覚悟が必要うんぬん)で、まわりに居合わせた保安官の頭数合わせ要因は完全なる犬死に、無駄な死でしかない。この視点の変化が、一風変わった作品の印象に繋がっているように感じる。ヒューマンドラマ的な西部劇だった。

ティンカー・ベル ★★★☆☆

物作りの妖精として誕生したティンカー・ベルが、春を呼ぶために色々やる話。

エンディングテーマを湯川潮音が歌っているということで鑑賞。DVDの場合日本語吹き替え音声の、エンドロール2曲目に入っている。このオリジナルの英語verが本編の最後の方、妖精皆でメインランドへ向かう所で聴けるのだが、客観的に見て完全なるBGMと化していたオリジナルと比べると、声の違いが如実すぎた。

基本的に人間の生歌は、上手であったり、下手であったり、立体的であったり、薄っぺらであったり、それら様々な要素の想像しうる範囲での配合、ちょうどマトリックス分布図のようなイメージで捉える事ができる。例えば浜崎あゆみやコウダクミのようなavex系の歌手の声質は大体「ああいう感じ」であるし、少し前のモーニング娘。のようなアイドル系であれば「ああいう感じ」であるし、カートコバーン的なオルタナ系も「ああいう感じ」、ヴィジュアル系や演歌はもちろん「ああいう感じ」、・・・・・・、それぞれにマトリックスで完璧に一致はしないが、近い集団に位置する事が想像できる。

湯川潮音ってのは、その分布図の範囲外にいるような印象がある。彼女は子供の頃ウィーン少年合唱団的なやつに所属していたらしく、それが今のような声質の源泉になっているようだが、そういう出自の歌手があまりいないことから察するに、やはり特殊な存在である。少女時代のシャルロット・チャーチに近いが、シャルロット・チャーチがややクラシックにカスタマイズされている分、湯川の方が無駄を削いでいる印象がある。ファルセットもほとんどの女性歌手と違う。最近カラオケとの相乗効果でやたら高い裏声を用いる歌が多いが、湯川の場合本来の声域の声と裏声の質がかなり近いので、曲全体のトゲが無くなりやわらかく聞こえるようだ。

前述のマトリックス(俺ver)に属さないであろう声の持ち主として、思い出しただけだが「大場久美子」・「小林旭(初期)」がいる。「カヒミ・カリィ」はどうかと考えたが、あれは声質というよりwhisper的な方法の違いだと判断した。分類的には「A Girl Called Eddy」や最近の「相対性理論」に近いかもしれない。また「白木みのる」は特殊だが、体型からして想像の範囲外かというとそうでもない。

でここまでが序論つーか、序論が本論つーか、映画自体はまあなんだ、さもありなん。ティンカー・ベルとピーターパンは名前だけ知っててその物語は全く知らなかったので(つまりピーターパンは今も知らないまま)、その点知ったのは良しとしよう。内容については、日本で言うところの昔話のような教訓が含まれているので、子供に見せたら何らかの作用を及ぼすかもしれないが、こんなもんに作用されるような子供はクソである。

容疑者Xの献身 ★★★★☆

密かに好意を抱いている隣人の女性が衝動的に行ってしまった殺人を偶然に知り、彼女のために偽装工作をする天才数学者・石神の話。

これまで見たミステリー(数は少ない)の中でもロジックの内容はかなり良くできている。こういう系のサスペンスはロジック構築が全てとも言えるほど重要な要素であり、その点テレビの2時間ドラマレベルまでは御都合や飛躍がてんこ盛りで見てられないのだが、流石映画と思えるほどに隙がなかった。今頭で整理しながら書いているが、恐らく石神の作った筋書きに破綻は無いように思われる。・・・たぶん。

アリバイ工作と見せかけての死体すり替えを思いついてからの、ホームレス殺人を決行したのが大本の衝動的殺人の翌日ということは、石神自身が身代わりとして自首するというのも(警察の追求の程度によりけりだろうが)筋書きの範囲内だろうし、だとすると自分が警察に疑われて(学校に聞き込みに来たあたりか)から以降のあからさまなストーカー行為も説明が付くし、湯川が真相を話に来る直前まで、彼女達の身を自分の力によって守れたことと警察をまんまと欺けたということで罪の重大さなど屁でもなく、拘置所で石神は至福の時を過ごしていたことだろう。

犯罪の解決をy・容疑者Xの書いた筋書きをx・警察の捜査をd・とすると、ストーリーはy = dxで表される。この場合の変数はxのみであり、石神のコントロール下にある。xは 0 < x <=1 で、解yに対する定数dに影響を及ぼす。x = 1になった時点で y = d、つまり警察の捜査が犯罪を解決したことになる。石神が書いた筋書きは x = 1に至るまでを描いたものであり、彼の想定では他の変数は無いはずだった。

しかし実際は、天才物理学者湯川の介入(Yはわかりにくいので便宜上aとする)、女の気持ち(w)が想定外の変数として入ることで、式が y = (d + a)x + w となってしまった。変数aは事件の当事者でない以上、独自の変数として成立するほど影響力はなく、これも結局xに依存する。石神にとって一番の想定外はやはりw、最後に自首してきた女の気持ちだろう。それまで一貫してクールを決め込んだ石神が見せた最後の剥き出しの感情は、題字にもある「献身」が報われた感情というよりも、自分が作り上げた傑作の数式が、論理的でない予想外の要因で破綻してしまった事への絶望感に向けられていたように感じられる。

最後に作品としての評価だが、前述の通りミステリーとしてのクオリティは非常に高いのでその点は申し分ない。ただ不思議なもので、それが作品としての面白さに繋がるかというと、どうやらそうではないらしい。これは俺の主観的な問題なので当然映画的には「知らんがな」なのだが、破綻のない論理に面白味は見いだせなかった。全てを見ているからその中では神の如く、全ての状況を把握できる俺にとっては、石神すら想定しえなかった変数wも想定内、最後まで論理的な映画だったのである。登山のシーンだけ非論理的(=無駄)だった。


テスト

熊本城

今後もよろしく。

画像はどんな感じかなあ

自動でサムネイル作成してリンクがオリジナルサイズになると思ったがそうではないらしい。

→画像の編集項目に「リンクURL」というのがあるので、そこに該当ファイルを指定するといいようだ。

熊本城は自然の河川を外堀として利用している。最近西南戦争で焼失した本丸御殿が復元された。

改行

アメリカン・クライム ☆☆☆☆☆

サーカスの巡業のため、他人に子供を預けた事から始まる虐待事件の話。

本作は1965年の夏-秋にかけて起こった実際の事件を元にした作品である。この時代反ベトナムや公民権闘争によるリベラル思想の反動から、針の逆振れの如くキリスト教的保守主義も一方で強まったわけで、そんな中起きた実娘の妊娠というアクシデントは、冒頭示された敬虔なる南部バプテストの家族にとってとても深刻な事態だったと推察される。そんな中あらゆるストレスのはけ口となってしまったシルビアは運が悪かったとしか言いようがない。

つまり、ガートルードは決して生来の極悪人でもないし、明確な意図や理由があってシルビアを死なせてしまったわけではないことは、本作の展開を見た上でシルビアが息をせず冷たくなってしまった時の反応を見ればよくわかる。こういう場合に「ガートルード及びその子供達もある意味被害者である」と言えるほど俺は人間を信用していないし、結果から逆算すると断罪されるのは当然なのだが、様々な要因が重なって発生してしまった過程を見ると正直なところかわいそうな気もする。これがいわゆる虐待殺人の心理パターンかどうかは、時代や思想の背景があるしそもそも他人の子供に対してのものだからよくわからないが、現代に起こっている老老介護疲れでの殺人や無理心中に近い心理状態にも感じられる。

よってこの事件は以下の要因が重なって起きてしまった事になる。
・ガートルード及びその子供達が強烈に馬鹿であった。
・馬鹿のくせに(馬鹿だからか?)キリスト教には従順であった。
・そういう馬鹿に騙され他人に我が子を預けてしまった。
・シルビア及びジェニーが優しい子であった。
・最後に時代と生活環境。

また子供達には「服従の心理」の典型的なパターンが見られる。ミルグラムやジンバルドの監獄実験も恐らく同時代だったではなかろうか。子供達の行動の責任は唯一の支配者であるガートルードへと環流されるため、理性の歯止めが利かず、また集団で行うことでの同調・範囲の拡大・その場での責任の拡散も生じてしまい、本作のように悲惨な結果につながる。証言台で語ったそれぞれの口が言ったように、行為そのものは母親の指示であり、なぜそうしたか・できたのかは一様にわからないのである。この「わからない」というのがまさにキモ、理由が無いから制限も無いという心理構造は、こういうプリミティブな状況を客観視すると恐ろしさが際立つ。

作品としての評価だが、この見終わった後の胸クソ悪さはどうしても拭いきれない一方で、事件の心理や思考プロセスも理解できるため、例えば単純に「なんでシルビア警察とか児童相談所的なやつに逃げね~んだよ!馬鹿かお前は!自業自得じゃ!」と憤慨することもできず、そういう意味での理不尽さも無いわけで(さらに実話ベースだし)、結果個人的な八つ当たりとしてこの評価にした。作品自体は非常に興味深い内容だった。


パピヨン ★★★★☆

WWII前ぐらい、無実の罪で南米・ギアナの刑務所に入れられた男が、贋札作り名人の男と共謀し脱獄を企てる話。

スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンの二大ビッグスター共演作品。当時的にもその年の目玉作品だったと思われる。見終わった後に確認のため調べたがやはり実話ベースの作品で、それがため見終わった後の感じ方もフィクションとはかなり異なってくる。

「逃亡(≒追跡)」と「無人島」は設定を与えれば勝手に面白くなる素材の顕著なもので、例えば最近大ヒットしたアメリカのドラマ、プリズン・ブレイクやLOSTはまさにそれが当てはまる。24も大きく捉えれば逃亡だ。なぜそれらが勝手に面白くなるのかと言うと、その体験自体が刺激的であるから、特別ドラマを用意しなくても場面持ちするからだろう。要するに、名優に「逃亡」「無人島」をやらせれば、高い水準の面白さは保証されるはずなのである。

その点本作は、逃亡それ自体のハラハラ感よりも、その過程における人との繋がりに光を当てた、アクション性よりヒューマンドラマ的な側面の方が色濃い。結局パピヨンは最初に説明された懲罰の内のギロチン以外、2年と5年の独房生活を過ごしたわけだが、その間にもドガを始め逃亡に関わった数名の受刑者の生活が垣間見れて、さらに実話ということでその奇縁が際立ってくる。ホンジュラスに着いたところで捕まったであろうドガもこれで終わりかと思いきや、最後の収監場所、絶海の孤島でまた二人が再会するというのは、実話であるから面白い。

映画的な一番の見所は、パピヨンの最初の独房生活ではなかろうか。独房に入ったばかりの元気な頃、隣の収監者に「顔色は悪くないか?」と聞かれたシーンがそのまま、彼自身の問題として後に再現されるシーンは技巧的であるし、その後も厳然と黙秘を続けるパピヨンの姿、根性は計り知れない。あの悲惨な描写があったからこそ、映画時間では一瞬でしかなかった次の5年の独房生活が、とてもショッキングに感じられる。実際の年月をそのように過ごした気持ちというのは到底理解できないが、あの独房シーンがあったからこそ、ラストの執念とも思える脱獄に懸ける意志の強さに結びついてくる。

およそ百年前まで、こうした非人間的労働者がいた上で本土の豊かな生活が成立していたというのは凄い歴史だ。今でも昔の植民地は経済の遅れでその名残をみられるし、形を変えた奴隷労働は世界中にまかり通っている。でも、それが世界の常識であった時代が意外と最近まで続いていたというのは、こういう映像を見ると改めて感じさせられた。

ゆきゆきて、神軍 ★★★★★

WWIIニューギニアの生き残り、昭和天皇・裕仁に戦争責任を強く感じている漢、奥崎謙三が、戦後まもなく起きた日本軍内における処刑事件を追及していく話。

一言で言えばガチである。この漢は生き方がガチ過ぎる。それ故様々な人に迷惑をかけ、手間をかけさせ、時には平和をぶち壊すクラッシャーであるのだが、そういう事情を勘案しても尚行動してしまう、せざるを得ないガチさをこの男の態度から感じ取れた。醒めた現代、この煮えたぎる怒り・熱さはその点だけでも一見の価値がある。

このドキュメンタリーで彼の本性は全く描かれてはいない。ある一面におけるガチさを映像に収めようという制作意図、そして奥崎本人も実は常にカメラや出来上がった作品を見る観客がいるのだという客観的な視点を持っているという事から考えても、変な話本作はエンターテイナー奥崎の一面を描いたのみで、時折見せる「普通の人の表情」から見て取れる彼の全体像は見えてこない。クライマックスと言ってもいい、山田から真実を引き出す奥崎のやり口はえげつないほど場慣れしており、恫喝に慣れっこである彼という存在が本当に恐ろしかった。時間的な都合もあったかもしれないが、過激な行動をメインに描く反面、例えば普段の食事や風呂・よく見るテレビ番組や本棚、冒頭登場した犬との関わり方など、少しでも素が見て取れるシーンも見てみたかった。

そういう印象もあってか、俺自身見ていくうちにどうも奥崎本人より妻・シズミの方に興味が移っていった。経営する自動車整備会社?のシャッターに「田中角栄をぶっ殺す」的な事を書かれ、マイカーはこれまた田中角栄誅殺仕様のセダンとバン、こんなガチな漢の妻が、よりによってシズミのような、誰にも好かれる肝っ玉母ちゃん的な人物というのは一体どいういうことなんだろうか。結局本作ではシズミは奥崎に心酔している従順なイエス・ウーマンとして登場するのみで、何が彼女をそうさせるのか、奥崎を許容させるのかはわからなかった。奥崎の収監中に68歳で死んでしまったシズミ、奥崎とシズミが結婚しその後の夫婦生活で何があったか知らないが、ある意味における肝っ玉母ちゃんである。

本作はWWIIで死線をくぐり生き延びた奥崎が、ある下級兵の「戦後の戦病死」という不可解な事実に対して、真実を追究する過程を収めたドキュメンタリー作品である。結論としては、戦後ニューギニアに残された残存部隊は、食べ物に窮したため人肉を食しており、原住民(土人=※現代では禁忌語)・アメリカ黒人(くろんぼ=※現代では禁忌語)・アメリカ白人(しろんぼ=※現代では禁忌語)の人肉が尽きると、日本軍の中で階級が下で役に立たないものから順番に殺して生き延びたのである。正直な感想で言うと、この衝撃的な事実に対して俺自身は衝撃を持ち得なかった。人肉食い、これが絵空事に感じてしまう、全く持ってリアルさがない事について、果たして俺は言及して良いのかどうかわからんし、例えば阪神大震災を経験したものでなければ都市型大地震の恐怖感は分からないような、雲を掴むような印象でしかないため、これは「こういう事実があったし、その事自体は衝撃的である」という感想に留めるしかない。

その追究過程で彼が一般的な感覚と大きく異なるのは法律に対する捉え方だ。撮影中何度も、彼が人をぶん殴ったり監禁状態に置いたりといった違法行為で警察沙汰になるのだが、彼はその都度自ら警察を呼んで判断を仰ぐのである。「必要であれば暴力を行使することを厭わないし、現に結果に結びつく」と断言する姿勢はやはりガチであるし、何の偶然か昨日見た「ダークナイト」のバットマンと一致する信念である。ただ一つ違う点、バットマンにとって悪である事は法律と概ね一致するが、奥崎の場合そうではないという事だ。

これをきちがい(※現代では禁忌語)、つまり他者とは気が違うため自分の価値観のみを信ずるガチな漢の生き様だと見て取るのは易い。しかし、一瞬だけ見えた(恐らく自費出版本の値段であろう)看板に書かれた\900という値段設定、そしてシズミの存在が、どうしても俺にはそう思わせてくれない最後の砦として立ちはだかっている。もしかすると(恐らくいくつか存在するであろう)奥崎関連の本や資料を見ると判断できるかもしれないが、本作でそれは難しかった。彼を変えてしまったトリガーはWWIIでの経験だろう。昭和天皇を殺すと罵り、パチンコを撃って逮捕された事を誇らしげに語る奥崎もまた戦争被害者であるし、その奥崎をきちがいと言えるような体験を俺はしていないししたくない。

ダークナイト ★★★☆☆

バットマンが悪人を懲らしめているゴッサムシティに、ジョーカーという悪がやってくる話。

「バットマン」は当然知っているが、存在を知っているのみで、原作コミックスやこれまで作られた実写映画作品も一つも見たことはない。「ああいう風体のヒーローコミックがある」という事前情報のみで、ゴッサムシティ含めたバックボーンは一切知らない上での感想となる。

まず特徴的だったのは、これはバットマンをある程度知っている人にとっては常識なのかもしれないが、「彼はみんなが憧れる正義のヒーローではない」し「絶対死なない超人でもない」という点だ。バットマンは超金持ちの青年が自らの正義感を発散させるために人材と資金を投入して作られた普通の人間を強化するプロテクトスーツのようなものであり、彼の行為は悪人を法ではなく暴力で制圧するため法の下では違法になる。従って警察やマスコミも諸手をあげて活躍を熱望しているわけではなく、どちらかといえば「彼がいるから犯罪者が増えるのではないか」という疑念すら抱かれるほど厄介者扱いらしい。その中で、恋愛感情のある女と警察の現場責任者的な人がバットマンを全面的に支持しており、二人はバットマンと素のブルースとが同一人物であることを知っているらしい。

そういう背景があって、本作は常に人間の心に芽生える正義と悪の移り変わりを大きなテーマとして描いており、その悪の象徴としてジョーカー、(法律的ではない)正義の象徴としてバットマンを配置している。この二者だけはそれぞれ悪と正義がぶれることなく、その純粋さにおいて共通しており、彼らもまた互いの心根を理解している。アクション的な対決の肝はこの二人だが、映画的な仕掛けをもたらすのはどこぞから悪を壊滅させるためにやって来た検察官・ハービーだろう。

彼は当初みんなのヒーローであり、正義の象徴であり、バットマンの事も理解し協力し互いに正義を実行していた。一方は暴力・一方は法によってである。その彼がある裏切りから正義への不信感を抱き、ついには人智を超えた境地、「運」にたどり着く。正義も悪も、人の感情が介入している限り、対象に純粋さを持っていようとも真に純粋と言えるだろうか。「運」は例えるなら真空であり、そこに人間の感情の介入する余地は無いのである。表か裏か、彼が「運」によって恋人を殺されてしまったように、その死に関わったほぼ全ての人に対して「運」を適用するのは凄く理にかなっているし、その点主人公であるバットマンや、わかりやすいピカロであるジョーカーよりも、ハービーの心の変化が面白かった。

最後バットマンは、法の下では悪になってしまうハービーを、民衆のヒーローとしてシンボル化するために、ここは一丁俺様が彼の罪を被ってやるよ!実際は正義だけどね!つってヒーローヅラこいていたが、いや待てと、お前ヒーローと素で顔を全く使い分けてるじゃねーかよと、顔を使い分けるんだから大したストレスにならんだろうと、彼の言う正義に欺瞞を感じるラストだった。