猿の惑星シリーズ ★★★★★

宇宙航行中に不慮の事態で不時着したとある惑星。そこには酸素もあれば水もある。ここはどこかと徘徊っている宇宙飛行士達のもとに、突然猿達の群れが襲いかかってきた!捕まった男は怪我で声が出せなくなっているその傍らで、猿どもが言葉を発している!さてどうなる?
シリーズ全5作。後の作品になればなるほどグダグダになってるのだが、シリーズ全体で観るとなればこれは面白い話だった。とにかくスケールがでかい。一作目のラストはあまりにも有名で、詳しい事の顛末は知らなくても、最後だけなぜか知ってるという人もいるだろう。
而してそこで止まっている人が多い。是非続きは観ねば。確かに一作目がウケたから続編作りました、的な臭いはつよい。しかしそこは素直になろう。おもろいから。この映画はもう、全五作を観て初めて帰結するといってもいいくらいで、この物語特有の過去から未来へと往来して行く様は凄い。
ストーリー映画でパート5まで続いた作品は後にも先にもこれぐらいだろう。未体験の方は一気見もあり!である。

ファイトクラブ ★★★★★

日々に生きた心地がしない、彼は常に感じていた。そんな中同じ病気を持つもの同士が痛みを分かち合う会に出席し、死の反対としての生に目覚めはじめる彼。やがて一人の男に会い、痛みを分かち合うのではなく、痛みを共有することで生を感じる、ファイトクラブができる・・・。
黒澤明の「生きる」で志村喬が演じる役所の男は、死を感じたときに初めて生を感じようとした。そして行き着いたのが生きて活きる、まさしく生活である。その点この映画では全くの逆と言えるかも知れない。日々の生に活を感じられない奴等が集まるファイトクラブ、それが肉体的な痛みを感じることで活きた心地を感じ合う。
面白いのは、彼だけが狂気になれなかったことと同時に、もう一人の彼は一人狂気であったことを思い知らされた時の彼の言動である。その時に最早ファイトクラブは必要でなくなった。痛み→死の裏に生を感じるのではなく、やはり活を見いだすことを選択した。
前作セブンの破綻っぷり、本作もラス前までは破綻してたんだが、前作同様破綻の中に人間らしさが見られるラストの選択、これらの映画をたんなるサイコ野郎のブッ壊し映画と見るより、サイコに接した普通の人間の人間らしさの選択、と言う視点でみると相当面白い。

時計じかけのオレンジ ★★★★★

四人のチンピラを率いるアレックスは、毎日セックス&ヴァイオレンスに溢れていた。他のチンピラどもとケンカ、浮浪者をリンチ、きまぐれに強姦、なんでもあり。平時親の前ではいい子を装うこのクソガキもついに年貢の納め時。刑務所に収監されたのだが、ある手段を用いれば刑期が大きく短縮される。果たしてアレックスはどうなる?
数あるキューブリック作品の中でも最高の出来だ。
まず本編とは関係ない部分で、言葉の面白さに特徴がある。スラングと言ってもいい記号化された言葉が溢れ、丁寧にも字幕には下線まで引っ張ってある。「強姦」=「デボチカトルチョックしてインアウト」、「あほ」=「くそボルシーヤーブロッコあほ」意味不明。特に「あほ」の場合、「くそボルシーヤーブロッコあほ」とした方がより「あほ」を強調しているように感じられる。最後に「あほ」言ってるからね。つい女性のことをデボチカと言ってしまいがちになる。
内容についてはシナリオが示唆に富んでいる。原題「CLOCKWORK ORANGE」は、題名からしてあやしい感じだが、そのとおり映画はアレックスだけでなくその内容も剥けば見えてくる見応えのある内容だ。
アレックスは治療でセックス&ヴァイオレンスを拒絶、吐き気を覚えるほどになった。刑務所は悪人に偽善と虚飾を教え込み、本質的な犯罪の解決にはなっていないと学者は語っていたが、この治療は悪の要素を悪人から除去することで犯罪抑圧を計ろうとするものである。
確かにアレックスは悪を拒絶した。しかしそれは善でもない、悪でないだけである。結局彼は自分で抑圧を解放し、而してもとの時計じかけのオレンジ、表面イイコチャンの中身クソガキに戻ってしまったのである。
こういうアレックスをフィルターにして観るとどうか。特に後半、人間は所詮みんな時計仕掛けのオレンジだということがよくわかる。極端なアレックスに象徴されるように、正と負の二つの感情、そのどちらかが抑圧されれば均衡を失う。それに気付かない人間の滑稽さ。ラストの内務大臣とアレックスの記念写真、アレックスがなんだかヒーローに見えた。
そしてこのシナリオ以外の部分も、BGM・小物に至るまで官能的・本源的な感覚を覚えるほどで、完璧な作りだ。キューブリックにかかればスローモーション&クイックといった技法も全て美しく見えてしまう。一貫したクラシック、ヴェートーヴェンが後半に連れて大きなものとなる、こういったキューブリック節ともいえる映像は見事。「I singin’ in the rain・・・」トルチョックは強烈!
ジョジョ第三部のオインゴ・ボインゴ兄弟、彼らは時計仕掛けのオレンジがもとでゲームオーバーになるんだが、オインゴの能力が「顔を変える」というのも、なるほどといった感じじゃないかな。

ユージュアル・サスペクツ ★★★★★

拳銃泥棒の容疑で尋問を受けたキートン、マクマナス、ホックニー、フェンスター、ヴァーヴァルの五人。彼らはそれぞれ犯罪歴があるのだが、これがきっかけで五人でシゴトをすることになる。ヤクの強奪を成功させた五人に新たなシゴトの依頼が入った。依頼主は「カイザーソゼ」。果たしてカイザーソゼとは・・・?そして彼らはどうなる?
ストーリーが延々と映し出されるものでなく、一人のストーリーテラーのもとに場面場面が切り取って映し出される、そういうシナリオ構成がまずいい。そうすることでサスペンス系に必要な終末に向かうにつれての期待感が増幅されるし、最初はよくわからなくても後で段々わかっくる、こういうのが逆に印象深くするのだろう。
そしてそういう終末への持っていき方があって、その期待感に対するだけのラストが待っていることがまたこの映画の面白さだろう。序盤から断片的に語られる「カイザーソゼ」、こいつは誰だというのがラストに弾けるのが当然だが、実はもう一つのラストが待っていた!
・・・・こういう映画での欺かれる側(この場合は刑事さんかな)が驚愕してしまうのを観て期待感を処理する、サスペンス系に典型のラストの処理だが、この映画はなんとラストに観客をも驚愕させてしまうラストを用意していた・・・!なんとすごい。この映画が単なるサスペンス映画でない感じを受けるのはこういうラストだろう。
つまり我々観客も、カイザーソゼに欺かれていたのだ。ビックリ。

ラン・ローラ・ラン ★★★★★

ローラの恋人マニはギャングの卵。そのマニが偉い人から預かったカネを電車に置き忘れてしまう。受け渡しの時間まで後20分。ローラが走る。
映画の冒頭で、ガードマンがサッカーの話をする。「ボールと90分。後はすべて推測だ。」
本編での事実は大きくこのふたつ。
1.マニ(ローラの彼氏)の持ってた金がパクられた。
2.11時40分から12時までの出来事である。
要はこの事実の中でドリフの「もしもシリーズ」のように、3つの未来の可能性が考えられる。「ローラの死」・「マニの死」・「ハッピーエンド」いずれも事実と虚構の中にあるということだ。
題字のごとくローラはとにかく走りまくってるんだが、その20分の間の少しのずれでローラとマニだけでなく、途中でぶつかるババアやチャリに乗った若者の未来(一生)がめちゃくちゃ変わってしまうという、そこだけとってもこの映画の見せ方が把握できれば楽しめるところだ。
そもそもローラの「走る」という行為が未来へ向かっていくことで、それは決して自分の力で未来を切り開くものでない、すべて他人任せで未来が決まる、走ればなんとかなるだろうという主体性なきギャンブルのようなもので、結局ローラ、マニの「死」が残ったということだ。
結局未来なんてどんなに自分が道筋を用意しようとも、周りとの関わりの部分で決まることがあまりにも多すぎて、この映画のごとく未来の可能性の一つを歩んでいるにすぎない。
いやこの映画ではローラに念力という未来へのパワーを授けている。「ムキィーー」とかいって絶叫すると、ローラに望む未来がもたらされるというすばらしい力だ。こういうのもアリね。
ローラは念力でハッピーエンドをてにいれた。・・・いやハッピーエンドか?「もし私が死んだらどうする?」なんて言ってる所のローラとマニの主体性のなさからすれば、死の裏返しの生も、生=ハッピーとは言えないのかな。
とにかくこの映画は「そんな未来あるかよ」っちゅう未来を用意してます。スーパーバイオレンステクノお笑いムービーとでも言っとこうか。ドイツ映画ということでテクノ満載です。

ダイヤルMを廻せ! ★★★★★

資産家である妻が、彼女の友人である作家に心ひかれてゆく。自分の身を案じた夫は、妻の財産を狙った完全犯罪を計画し、旧来の友人にその実行を依頼する。ところが夫の友人は、逆に妻に抵抗され挙げ句に死んでしまう。そこで夫は妻に殺人の罪を被せようと画策するのだが・・・。
さすがに巨匠と言われるだけあって、ヒッチコックの作品はどれも面白い。まず驚異的なのはこれが1955年製作であること。なんとカラー!55年というと、日本では後の世界のクロサワが白黒フィルムで「い~の~ちぃ~み~じ~いぃ~かぁ~しぃ~~」なんてやってるちょっと後。それでこの映像クオリティなんだから、当時のハリウッドはかなり飛び抜けてたんだろう。
サスペンス映画よろしく、結局はミスが命取りとなって夫は捕まるのだが、そのミスが「必然のミス」とも言えるもので、つまりこの映画の伏線の張り方、クライマックスの持っていき方などは、後々の映画に大きく影響したことだろう。今見ても全然色あせていないことからわかる。
最近よくあるサイコサスペンス、「超」のものをもちこんで何でもアリにしてしまってパワープレイで成立させてしまうような作品は、サスペンスである以上やはり無理があり緊張感は持続しないし、ヘタしたら退屈なだけになる。それよりサスペンスならこういう古典的な推理ものが王道だし見応えある。

12人のやさしい日本人 ★★★★★

ある女が、離婚した夫を殺した容疑で裁判にかけられた。最終的な判断を委ねられたのは12人の陪審員。一般人である彼らは所詮他人事、全員「有罪」で一致するかと思われた時に、本当に有罪で一致した・・・。その時一人の若者が切り出した。「私は議論がしたいんです。」そのあとどうなる?
大元は前に書いた「12人の怒れる男」という映画で、原作というかもともとは三谷幸喜の劇団劇だったらしいが、これは舞台でも大爆笑だっただろう。なにより設定が舞台向きだ。場面転換はほとんどなくそのぶん舞台のスピード感も増すだろうし、一気にいける。
まず最初の全員有罪がいい。日本人っぽい責任放棄。この辺でなんとなく、ただのパロディでなく日本人を全面に出そうというのが見て取れる。12人はそれぞれに付和雷同、グレーゾーン、弱いものには強い、みんな日本人に「ありそうな」側面を持ってる。
なので、発言するにしても「あなたはどう思いますか?」と聞かれてから「はあ・・・。」こういうのが多い。「怒れる・・・」のパロディだけでなく、これは日本人のパロディなんである。
まあ全体の感想はこんな感じで、肝心の中身はそのクライマックスがとてつもなく凄い。さすが三谷幸喜。「まさかあの言葉が・・・そうなる・・・かぁ~!」。とにかく初見は度肝抜かれる。絶対見るべし。

12人の怒れる男 ★★★★★

ある少年が自分の父親を殺した容疑で、裁判にかけられた。最終的な判断を委ねられたのは12人の陪審員。一般人である彼らは所詮他人事、全員「有罪」で一致するかと思われた時に、一人が「無罪」に。そのあとどうなる?
曖昧な記憶であるが、現在陪審制を採用している国はたぶんない。かつて採用されてた国はあったが、この映画の冒頭のように所詮は他人事、陪審員も各自の正義感よりも日々の暮らしが優先されてしまったようだ。
だからといってこの映画がそう簡単に終わってしまっては元も子もない。やっぱいるんです反乱分子が。結局彼がきっかけとなって物語は様々の事が語られ、明らかになり、終息していくのだが、かわいそうなのは最後まで「有罪」と言い続けたオヤジ。なぜそこまで固執したのか、真相は物語の最後に語られるのだがあまり理解できん。オーバーラップするかぁ?他人様の事が?
しかし、その後日本でパロディが作り出され、またこの「12人が一つの部屋で話すだけ」というような密室のシチュエーション、緊迫感は全然古くささを感じさせない。つまり名作。
関連
12人のやさしい日本人

七人の侍 ★★★★★

江戸時代になると、戦国時代の残りカスである野武士が横行し、各地の農村は被害を被っていた。それを恐れたある村が、一人の武士に用心棒となることを依頼する。依頼された武士は仲間を募って、六人+一人の用心棒軍団ができあがった!
世界のクロサワ渾身の一作。当時としては考えられなかったであろう3時間近くに及ぶ物語は、なんとレンタルビデオで2巻セット、同時代でこんなのは同じくクロサワの「白痴」あるいは「風と共に去りぬ」ぐらいしかすぐには思いつかん。それぐらい「渾身」なんである。
話としては単純明快。野武士がウワーっと攻めてくるのを、用心棒と百姓がウワーっとブッ倒す、それだけ。しかしそこにはクロサワ映画の特徴でもある、人物を切り取ることがある。
日本独特の機微、例えば「百姓」には「farmer」にはない感傷的な響きがあるし、「武士」「野武士」なんて、およそ「soldier」にはないなんちゅうか、背ってるもんが違うぜ的響きがある。少なくとも俺はそう感じる。
そういう感覚的なものを白黒映画の時代から取り入れてきたのがクロサワ。だから世界。世界は普遍。故に面白い。こういうことになる。
3時間は間延びしないし単純におもしろい。あとやっぱ菊千代かな?

いきる ★★★★★

市民課課長、渡辺(志村喬)は時間を”埋め”ていた。彼にとっての日々は、ただ過ぎてゆくのみである。そんな彼に衝撃的な出来事が起こり、それがきっかけとなって今までの人生の無意味さ、またこれからの生き方を模索し始める。今見ても何ら遜色ない黒澤作品の凄さは、人間の永遠普遍のテーマを正面から取り組むことにある。
いのちみじかし こいせよおとめ
人間にとっていきるとは何だろう。自己実現、成り上がり、歴史に名を残す、単なる時間潰し、諸説あるがこの映画のテーマのように、生きている時は”いきる”実はまあ、ない。残念ながら日々の雑然とした生活・憂い・享楽など数多のものに、その人間の本源的な問いは封殺されてしまうのである。特に安定的な社会では。
若ければ若いほど、生に対して真剣になりきれない、つまり死に対しても真剣になりきれない。若ければ本質的に死なない”だろう”と思っている。現に渡辺が”いきる”事を模索しだしたのも、直接的な死が真剣の舞台に登ってきたからである。結局我々が”いきた”心地を感じるのは、その日その日を真剣に生きる、とてつもなく難しいことだがこれしかないだろう。
映画ではこれらのテーマを蕩々と語る。”いきる”事のわからない渡辺は、とりあえずの快楽に走るふりをするが、生来の性分がそれを受けつけない。彼がたどり着いたのは「活きる」事、自分の範囲内でもがいてみせる事である。
しかしこれで話は終わらない。このような「活きる」姿勢を目の当たりにした市役所の職員、彼らもまた渡辺に習おうと決めたものの、できない。それもまた人間。生に対して真剣であることは相当のパワーと意志が必要なのである。