内科医ビルとその妻は互いに信頼の置けるパートナー。しかし、ふとした会話から互いの根底に存する思想がぶつかり、妻への信頼が揺らいでしまう。そんな折、ビルは知己からとあるパーティーの話を聞いてしまう。スタンリーキューブリックの遺作となった、かなりエロい作品。
真実と虚構、正常と異常、対局する二つが融合した状況を扱うものが多いキューブリック作品の中で、本作はその境界がはっきりしていないといえる。ロリータにはあの教授がいたし、時計仕掛けのオレンジには悪たれガキ、フルメタルジャケットにはデブ。
そういった、いわゆる異常者がいないのである。なんというか映画全体の雰囲気が異様なんである。なので見ている最中になんだかこんがらがってくる。なにいってんだこいつはとか、なんでそうなるんじゃとか、疑問だらけになってなんかよくわからんうちに物語は進行する。
まさしくこれこそビルへの感情移入、その結末がある意味原点回帰だ。つまり最早両者の対立軸と言ったものは、そんなものはないと。あるがままをあるがままに受け止めよと、そういってのけやがる。
しかし話ももとより、やはりキューブリック作品の醍醐味は、その映像手法、音の使い方など、五感を多分に刺激するヴィジュアル感覚だろう。ピアノの短音が妙に耳に付き嫌な感じだ。
しかしなんだか・・・。どうしても比べてみてしまうのだが、はっきり言ってしまえば過去の作品の方が相当面白い。これが駄作だとは言わないが、あんまり面白いともおもわないのである。
投稿者: bitch
エリザベス ★★★☆☆
宗教上・経済上国家的危機の状況の中、女王に即位したエリザベス一世の物語。ある意味彼女が一生涯処女を貫いたという通説に、違った見解を出している。
前半部分、イギリス国教会が成立する過程までは間延びした感じで、前半がなければ後半が成り立たないというほどのものでなく付け足しみたいな感じだ。まあそれも歴史的に見てもエリザベス即位までのイギリスは、カトリックとプロテスタントの対立、そしてスペイン王朝の介入など国内は分裂状態で、スペインに助けを求めるほどだったんだから、ダイナミックに描くわけにはいかない。どうしてもイメージとして暗くなってしまう。
しかし救いはロバート卿がいたこと。エリザベスはロバート卿とイギリス国との板挟みで、最終的にイギリス国の隆盛を取った、そういう意味でエリザベスは処女なのだぁ。こういうのは結構すんなり飲み込める。高校の世界史の時でも「エリザベス一世は一生処女だった」なんてウソつけよ!とか思ってたが、「私はイギリス国に恋しました。」まあアリか。それにしても当時世界史の先生がこの話にかこつけて、「おまえらも処女か」とかって興奮気味にしゃべりちらしてたのは、ありゃあセクハラだな。
御法度 ★★★☆☆
幕末の佐幕攘夷主義集団、新撰組に二人の武士が加入した。北辰一刀流の田代と、商家出身の加納惣三郎。美男子である加納に、もともとソノ気のあった田代が、ソノ道を教える。やがて加納にソノ気があるといううわさは組内に広がり、様々の問題が起こる中、統率を重んじる幹部達、近藤勇・土方歳三・沖田総司らは解決に動いた・・・!
大島渚監督の最新作。そういえば、昔過激描写で話題となった「愛のコリーダ」が近々(2000年秋)渋谷のミニシアターで上映されるらしい。機会があれば見たい。でも渋谷嫌いだからたぶん見ない。
まず目を引くのが出演者。話題作りかどうだか松田優作の遺子、松田龍平が事実上の初主演である。ただどうしても優作と比べてしまう・・・・。優作と比べられたらかわいそうだが、あの独特の雰囲気や存在感はなかった。少なくともこの映画では。しかしあの切れ長の目はいい。
映画の内容は簡単な話、衆道(ホモ)の攪乱なのである。しかし事は単純でない。一方で近藤・土方・沖田・伊藤の天然理心流系新撰組オリジナルメンバーを柱とした、いわば軍隊の規律を重んじる部分と、外部からの加納という美男子が持つ妖艶な魅力、これによって互いが互いに不信感を抱いてしまう、少なくとも土方はそういう風に描かれている、肝心なのはこの描写だと思うが、如何せんそこまで引っ張るのが長い。
できるなら、その後の4幹部の関係も見たかった。土方の不信感が特に近藤にどう影響するか?崔洋一は本業は監督ながら結構いい味だしてた。結局クライマックスは一つだけ、なんだか物足りなく感じてしまう。
ストーリーの骨子はかなりいいと思う。しかし・・・・。こういうなんというかやりきれなさみたいなものは、「アイズワイドシャット」を見終わったときのモヤモヤに似ている。
π(パイ) ★★★☆☆
天才数学者が、自然界のあらゆる事象を数式化、その法則を解き明かそうとしてついに216の数列にたどり着く。それは株式の相場をもすべて予測できる法則を秘めており、やがて数字にとりつかれた数学者は、自らも数字によってイカレてしまうという話。
「脳が数字に殺される。」こういう副題が付いていたんだが、観ているこっちは脳が映画に壊されかけた。まず観たときは体がしんどくて、だる~い気分で始まり。モノクロ映画なので、こういう気分の時に例えば走り回る映像があると、当然画面がぶれまくってなんか神経が逆なでされるような気になった。イライラ。
さらに、数学者の精神状態を表そうとしたのか生理的に受けつけがたい音が延々と垂れ流される。電話のベル音とかドリルの音とか。あと全体的にテクノが含んであるんだが、自分の体の状態、精神状態によってはただイライラしてくるだけだというのがよくわかった。結局観るときの気分、体調によって感じ方は大きく異なるということだろう。
考えようによっては観ているこっちも精神が壊れかけたんだから、それぐらい入り込める映画ともいえる。ただしそれは映像の話で、確かに新感覚ホラーなのかもしれん。過去にあったホラー映画の、瞬間的な視覚による恐怖とは異なる、五感を駆使したジワジワくる恐怖というか、恐怖を通り越してイィィィィィーーってなるような、もう精神に突き刺さるものだ。
そう考えると陽気な気分で観てるよりは、最初からだる~い気分で観てる今回は結果的によかったかもしれん。仮に陽気な気分で観てたら・・・・・?想像を絶するな。
東京日和 ★★★☆☆
写真家アラーキーとその妻陽子の話らしい。
竹中直人監督・主演の映画は、これまで「無能の人」「119」とあったが、それに一貫してみれるのは、なんというか、静寂というのが正しいのかわからないが、とにかく「静」だと思う。
そういう意味では「無能の人」が一番しっくりきたし、逆に「119」はなんとなく終わった感じだった。静けさというのは見る人によっては爆弾を抱えているもので、たとえば自分の場合「119」は面白くないと思う。しかし「119」最高だと思う人もいるだろう。つまりアクションなんかの激しい映画に比べて、静かな映画は見る人によってはほんとに120分の苦痛となることだってあるわけだ。まだ激しい映画だったら若干万人が楽しめる余地が在るはずだ。だから、静の映画の宿命として、ニュートラルがないとも言える。
そこでこの「東京日和」。いい映画と思う。まずしがない写真家・アラーキーというのもいい感じだし、妻の陽子は情緒不安定でかわいい。日々のたわいのない出来事に互いの愛情を感じるのも、この夫婦ならありえることだ。
ラストシーンで陽子が編集者の名前を間違えた理由を気付く。こんな何気ないことで妻の大事さを感じるのは、それまでの暮らしが大きな前提となり、見ているこっちもじんときた。
しかしねえ、さっきの「ニュートラルがない」ということで言えば、どうでもいいといえばどうでもいい話だし「退屈だった」という人もいるだろう。また、仮に陽子が中山美穂でなく、そのへんのババアとかだったら絶対成立しない話ではある。その点-1。
ユメノ銀河 ★★★☆☆
これまでの人生、何の起伏もない平坦な道をただ淡々と歩んできた(らしい)女車掌トミ子が、連続殺人鬼と目される新高という男に、「殺人鬼」ということへの憧れにも似た恋心を抱いてしまうという話。
非日常への羨望というのは誰しもあるもので、またそれが日常に刺激がなければないほど強まってくる、一種狂気じみてくる、でまあ現実の話ならそこに落とし穴があるというのがよく聞くことだ。不倫とかね。
トミ子は自分が狂気であることを客観視しながらも、それを捨て去ることはできない、そんなこんなで「私って、狂気だわ」なんて考えてるうちにラスト、線路の踏切で「オーライ」の声。それは「こんな私もオーライよ」的なものも含んだ声に思えたが。
結局新高という男が本当に殺人鬼なのかどうかはわからずに、女車掌同士の噂が噂をよんで、こんな狂気じみた死に繋がったんじゃないのかなぁ。女車掌という仕事はやってられないわ、みたいなことを冒頭に言ってたし。
人間、普通でないことを求めてそんな自分に恍惚感を覚える。トミ子の場合はそれがすぐ死に繋がったが、あらゆる刺激の強すぎる現代ではまずそこに繋がらない。だから本作の時代設定、またモノクロであることが活きてくるのだろう。
梟の城 ★★★★☆
織田信長による伊賀忍討伐の生き残りである葛籠重蔵。時代は豊臣の世に移り、重蔵は俗世を離れて暮らしていた。そこに秀吉暗殺の依頼が来て、彼は依頼主の思惑を超越した、自己のための暗殺を決意する。一方同じく生き残りの伊賀忍風間五平は、忍者という隠密の殻を破ろうと、前田玄以に仕官していた。豊臣暗殺を狙う重蔵と、それを”豊臣臣下”として阻止する五平。対照的な両者を描く。
原作司馬遼太郎。ちなみにこれは直木賞受賞作らしい。原作は手元にあるがまだ読んでない。司馬作品はいくつかあるんだが、まともに読んだのは「竜馬がゆく」ぐらい。にしてもその面白さ、なにより分かり易さ・読みやすさはよくわかる。
膨大な数の人物が現れては消え、その把握がまず困難になりがちだが、司馬作品は人物が出てくるたびに前の状況をフィードバックすることはあまりなく、出てくるたびにそこで完結させる。なので周辺の人物関係にあまり執着することなく、しかもそういう自己完結的なほうが印象に残るので読みやすく感じるんだろう。
この映画はそういう原作に触れずに観た。重蔵と五平の他に主役級として女忍が二人登場するんだが、この女忍がイマイチパッとしない。重蔵以外の五平・女二人の背景を均等に描こうとしているので、ラストに壮絶な最後を遂げた五平を除く女忍二人はかなり印象が薄く感じる。それだけにもっと女忍を脇役に添えて、重蔵と五平の部分を厚くできればラストまでのストーリーがもっと観れたんじゃないかと思う。
それにしても凄いのはラス直前からラストまでの移ろい。重蔵が大阪城に忍び込む~五平の大花火、この辺までの緊迫感や話のつながりは面白い。五平バンザイ!っちゅう感じである。
終わりよければなんとやら、自分にはこの映画は面白い作品として原作を読むその時にフィードバックされるんだろう。
復活の日 ★★★★☆
1982年、人類は人類によるウィルスのために死滅した。世界中が廃墟と化す中、ウィルスが零度以下だと機能しなくなるという特性のために生きぬいたのは、南極にいた各国の調査団。人類の生き残りは彼ら八百余名だけである。人類は果たしてどうなるのか、スケールはやたらとでかい。
どうも自分には70~80年代のカドカワ映画が合うみたいだ。今のところ観た映画でハズレはない。まあそういう映画ばかり狙って観てるというのもあるが。最近も「リング」シリーズがヒットしたが、小説の映画化、そして時代の要求を刈り取る、こういうのは得意なんだろう。
それにしても、この映画はスタッフから演者までビックネームが連ねる。監督深作欣二、原作小松左京、撮影木村大作、音楽羽田健太郎、そして演者は、主役草刈雅雄、他の主役級はすべて外国人なんだが、脇役に緒方拳、渡瀬恒彦、千葉真一など、もうすごく豪華なんである。これだけの演者に先ほどのスタッフ、いい映画に仕上がるのが仕組まれてるような感あり、それに被さるは小説家の原作。万全である。外国人演者もかなり良くて、中には「人間の証明」のあの刑事もいる。
肝心のストーリーはしっかりした原作があるので面白い。しかも原作映画の必然であるハショリについては、この映画は2時間半をフルに使い、肝心な部分は遠回しで見せ、ハショれる部分はニュアンスで伝える、これも監督のなせる技で見てて間延びしない。
世に数ある大作のうちそれがポシャるか成功するかは、大作ゆえの自己主張がいかに押さえられるかという点も大きいと思う。この映画では主人公をヨシズミ(草刈雅雄)にしぼり、名優を名脇役として花を添えてもらう、後はスタッフが仕上げる、こういう連携のなせる技でかなり面白かった。ラスト、「Life is ・・・・・・」これがくるとわかっていても感動してしまう、これは面白いという証拠だ。
ただいかんのが、日本映画だけども外国映画ともいえる外国人演者の多さ、それに伴う字幕の多さ、その字幕がメチャクチャ見づらく、これはどうしようもなかった。そんな戸田奈津子系字幕係に-1。
地雷を踏んだらサヨウナラ ★★★★☆
カンボジア内戦において行方不明となった戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の話。
まず見終わった率直な感想として、カンボジアに行きてぇなと思った。一ノ瀬泰造を写真家として駆り立てたアンコールワットを是非見てみたいなと単純に思った。現実に一ノ瀬が最後の最後にアンコールワットの写真を撮ることができたのか、それはわからないが、映画での終わり方は結構好きだ。
当時でもポル・ポトを中心としたクメール・ルージュの凶暴さ、気にくわなかったらすぐに殺すという情報は伝わっていたはずなのに、それでもクメール・ルージュの本拠地に向かわざるを得ない心境、それはまったく理解できない。命を賭してまでせねばならないことは今のところ、無い。それは多くの人がそうだろう。
一ノ瀬が、ただアンコールワットを撮りたいというのならなにも戦争中で無くてもいい。彼が撮りたかったのは戦争中の、クメール・ルージュの象徴としてのアンコール・ワットなのだろう。物語でも描かれているように、戦場カメラマンに求められるのは感傷的な写真だ。しかし彼を突き動かしたのは、戦争はダメ、カワイソウという感傷的なものではなかった。彼がフリーの立場で撮りたいものを撮る。たまたまそれが戦場だったなんて言うと聞こえがいいが、本当にそうだったのかもしれない。
双生児~GEMINI~ ★★★★☆
軍医として戦地で活躍した雪雄は、故郷に帰り医者として人々から信頼される存在である。帰郷の折に出会った妻おりんを実家に連れてきてから、雪雄はこの家に何者かの存在を感じる。具現化された光と影、それが解け合い入り交じる様を描いているのだが、じりじりわき出る恐怖感が痛い。
雪雄が井戸に放り投げられてから、捨吉が雪雄になりすました時から、お互いの存在の入れ替わりのようなものは始まっていたんである。自分の同胞が貧民窟で生きてきたと言うこと、また今の自分がその捨吉の手にゆだねられている、雪雄は捨吉に激しい憎悪を感じてしまう。また捨吉はおりんとの関係から、だんだん悪で無くなっていき、ついには雪雄の手にゆだねられる。そして足のあざは消え去り、多分雪雄に乗り移ったのだろう、最後は雪雄が貧民窟に消えてゆくのである。
見所は井戸でのやり取り。光と影をうまく演じわけ、またその融合具合も見事だと思う。雪雄が雪雄でなくなり、捨吉が捨吉でなくなる。これを映像に納めるのに、なんだか芸術チックなものを感じた。