自殺未遂で精神病院に入ったアダムス。そこで出会った人々により、彼は生きがいを見つける。それは医者になって患者の生を高めること。しかしそこは、画一性を保持する病院側との壁があった。
いい意味で凄くハリウッド的で、よくできた脚本の上に「こうすればいい映画になる」という方法論の見え見え具合、音楽の使い方、話の持っていきかたなど、見終わってすぐ感じたことが、これは感動的な映画の種類に入ると思うのだが、『よくできてるな』。
まず主演のロビンウィリアムスが過去に「ガープの世界」「レナードの朝」など大きく見れば同じような映画に主演してて実に好演、アメリカン感動にロビンありき、のようなことができてて、この主演というのは直球勝負のそれも160キロの直球で、手元からリリースした瞬間にその先が見えているようなものだ。
よくできた脚本と書いたが、これは実話を元にしているらしい。もちろん脚色はあるだろうけれども、この劇中にアダムスがやっている方法というのが、種類でいえば自分がやるようなことと真逆のことだと思われ、目指す部分は少なからず同じようなことかもしれないが、実際アダムスのような方法を取るのは自分には難しい。現実に自分の身の回りでやられたら、多分引く種類の人間だ。わしは。
にしても、医者としてこういう突き詰めかたは一つとしてアリだと思う。アクションが多分にアメリカナイズドされてるけど、死を伸ばすよりも残された生を満喫させる、また形式よりも心の問題、これは日本で言われている偏差値教育の問題とも少しリンクしたことじゃなかろうか。
しかしここで気を付けるべきは、アダムスが天才、それも「遊んでてもテストはできる」というこれまた典型的な漫画のような天才、おそらく現実でも少しはそうだったんだろうという点だ。仮にアダムスがただのアホたれならばこの話は大法螺ふきのバカチンの戯言として処理されている。そういう意味でアダムスは恵まれている。アダムスには、そうした自分の『個性』を発揮するべき資格があったとも言える。
翻って日本の偏差値教育に対する『個性を伸ばそう』のスローガンはこの映画で崩される。凡夫の個性を伸ばそうとしたところで凡夫は凡夫、どうしようもない。偏差値の画一化よりも個性の画一化の方が圧倒的に恐ろしい気がする。
映画に戻ろう。このように本作はヒューマンドラマの王道を突き進み、万全の体制で臨んでいるので一つの完成されたドラマとして見ごたえがあるし、関心した出来栄えだと思う。感動に付き物のくささもロビンウィリアムスという一級の演者により見事に漂っていない。これは凄いことだと思う。ハリウッドの歴史を感じる一本だ。と同時に、感動に付き物のあの安っぽい音楽をどうにかしてほしい。あれはハリウッドの歴史の汚物だ。
投稿者: bitch
MONDAY ★★★★★
月曜日、男は起きるとホテルの一室にいた。なぜそこにいるのか、まったく思い出せない。タバコを取ろうとすると清め塩が。そういえば葬式に行ったのだった。そうして身の回りの物から記憶をたどるうちに、大変なことがわかってしまった。
まず全体を見た感じで久しぶりに楽しめる作品を見た気がした。自分自身が酔っぱらうと寝てしまう質なのでわからんが、悪酔いする人間が限度を超した瞬間、彼はもう感覚のみで行動するしかなく、時に大胆、よくわからん正義感のようなものを振りかざす。それがスーパーデフォルメされている。
それとこれは後半から特にそうなんだが、鉄砲なんてのは格好悪い武器だ。あんなもの酔っぱらいでさえともすればこの映画では神になった瞬間があるのだから、しかも一度捨て去ってもなおそういう武器に依ってくる他者、味気ない一瞬の物事を突きつける他者に対峙して、結局は鉄砲に依った方がいいのだよという認識を得ながらも、ラストでは取るのか、取らざるのか、その選択を突きつける、いや人間ならばあんな野蛮な武器は放棄するということに本来なら賛同するはずで、ヤツが持ってるからワシも持つのかよ?ええ?と圧倒的に問うてくる、突き放した終わり方がいいと思う。
しかしその鉄砲によって緊迫感が出るのも事実。銃口を突きつけあい、どちらが撃つのか、撃たざるのか、その駆け引きなんかは映画でよくあるシーンだ。この映画は後半でそういう緊迫感のある画と、前半ではダンス音楽に乗った奇妙な画と、なんだか変な感じなんである。変だけど面白い。絶対ありえない話であるが、それだけにデフォルメされた連なりは映画という娯楽として正統派だと思うし、それゆえ楽しめるのではと思います。
あと音楽がかっこいい。
PARTY7 ★★★☆☆
組の金を持ち逃げしたチンピラ三木。人里離れた怪しげなホテルに身を隠していると、次から次に変な奴らがやってくる。一方で、ホテルには覗きのための隠し部屋があり、覗きマニアのオキタとキャプテン・バナナがそこから部屋の様子を覗いていた。
正直笑えなかった。
まず、ごめんなさい。感覚がダサくてごめんなさい。スタイリッシュじゃなくてごめんなさい。オキタとバナナの掛け合いがなんだか全然ハマッてなくてぎこちねぇなこの野郎と思ってごめんなさい。ハイテンションはいい味だしてるけど、こうワンパターンのハイテンションが続くとクドくてイタイよボケ、と心の中で思ってごめんなさい。
鮫肌男と桃尻女の感想を読んでもらえばわかるが、自分はこの監督さんの撮る映画のタイプは好きな方だ。もっと言えばタランティーノの映画が絶対的に好きだ。
映画の構成として、導入部は初見ではわからない思わせぶりなところ、それを利用したラストにかかる時間ずらし、そのラストまでの物語が基本的に”カスの論理のぶつけ合い”で連なってるところなんか、伝統的タランティーノ映画を踏襲してて基本の部分は凄くいい。こういう作りが自然にできるというのがまず素晴らしいと思う。
それを踏まえて、これは狙ってそうしてるのかもしれんがまず話に骨がないというのが全然ダメだった。骨太の話の中にああいうちょっとしたユーモアが埋め込まれているというのが許容範囲で、ああも敢然と”はい「笑い」ですどうぞ。はい、笑ってね。笑わなきゃスタイリッシュじゃないからね”という青春のメッセージ全開のシーンがてんこ盛りでは耐えきれない。
うーむ。あとどうしても、鮫肌の二番煎じである感は拭えないよな。鮫肌の感想でも次回作が楽しみ、のようなことを書いたがまんまで出てくるとは思わんかった。我集院と洋八のキャラはまんまだし、キャプテンバナナは田抜よりも全然いけてないし、正直あの原田芳雄の振る舞いはおそらくまだキャプテンバナナになり切れてない。
あとはそう脇役がくどい。ズラのボーイはもう最低だ。くどいんだよおめぇはよと叫びたい。こうなると肝心のスピード感もまったく感じられず「どうでもいい面白い話」がただのどうでもいい話となってしまう。
なんだろうな、やっぱこの監督さんはこんなコメディー調の変化球を投げることなんかせずに、タランティーノが作り出した方法に乗っ取って、+彼の笑いの要素を加味したおもしろストーリーをいくらでも作れると思うのです。事実それが鮫肌のおもしろさだとこの映画を観て反面的に思ってしまう。
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以上はこの現代においてスタイリッシュではない私の主観であり、仮にこの映画を観て、とても面白かった、ずっと笑えた、何遍でも何遍でも観たいというあなたはスタイリッシュであり、正解の人です。笑う犬の冒険等を見てそのスタイリッシュっぷりに磨きをかけてください。
燃える戦場 ★★★☆☆
まだ日本軍と連合軍が互角の戦いをしてた頃の太平洋決戦。連合軍は日本軍の通信施設破壊のため数名の部隊を送り込んだ。しかしイギリス兵のなかに一人アメリカ兵がいる、その一人が日本語を話せるという部隊はまったく統率がとれていなかった。
一応ドラマではあるけども、ほんとに一応程度のもので、別に特筆すべきことはない。そこそこおもろい。登場人物のキャラづけが典型的なもので、まさしく巧みなプロットに基づいた旧来からの映画手法を思わせるうえでのその時点での及第点といったところ。
それとは別に、最後にキャプテンとその部下が、日本兵に狙われながらもうぉおおおおおおと逃げまくるシーンがあるのだけど、これもまぁ前半に印象づけた部位のリフレインを用いてて姑息ちゃあそうなんだが、自分としてはその彼ら二人がウネウネと走る姿、それを狙うアンチャン達、またそれをただ突っ立って応援するアンチャン達、これら三者の姿がとても滑稽でよろしかった。
グリーン・デスティニー ★★★★☆
中国全土で剣の名手として知られるリー・ムー・バイ。修行から帰った彼は、ある決意のもと自らが所有する名剣グリーン・デスティニーを手放すことに。そして弟子である女性剣士、シューリンに剣を北京のティエ氏まで届けるよう依頼する。ティエ宅についたシューリンは、そこで結婚を間近に控えた貴族の娘イェンと出会い、親交を深めるのだが・・・。
マトリックスのようなワイヤーアクションが多用されているアクション映画。マトリックス以降、こういう派手派手なアクションはつくづく自分に向いていないんだなぁと思う。というのがおそらくアクションの部分で最も見せ場であると思われる、強いヤツ対強いヤツの組み手争い、逃げたり追ったりのピョンピョン跳びはねるシーンなど、ワイヤー全開のアクションをえらーく長ーく見せられると、正直うっとおしい。
なら端から見なければいいのだが、これまた風聞で知った以外は、事前に内容を知らずにポスターやパッケージの雰囲気のみで観るものだから、当たり外れは承知の上、とりあえずどんなに不適応でも最後まで観るのが自分への戒めだ。意外にそうやって最後まで観ると、「なんだ、おもしろいじゃねえかよ」と帰結する作品も多い。そりゃあ制作者が一応自信を持って作ってるのだから、そうなるのが自然な流れだ。だから★が1や2なんてのはよっぽどでなければ付けてないです。
そんなワイヤーアクション嫌いでも、全然いけてしまうのがこの映画のアクション以外の部分、ストーリー自体が結構よかったからだろう。メインキャラの四人の心理がニュアンスでうまく伝えられていて、それがまたうさんくさいアメリカ野郎の表情でなく、ハリウッドのアジアンテイストというのがよい印象を持つ鍵になったのだと思う。
ハゲのチョウ・ユンファ、その愛人、そしてチョウ・ユンファの仇敵の娘、ピエール瀧似の武人、彼らの心理が納得いくまで丁寧に作られ、その反動としての娘の暴れはっちゃくっぷり、チョウ・ユンファの懐の深さ、淡々と進む中にも生一本な筋がある。要するに話として見応えがある。
マトリックス駄目な自分でもいけたのだから、普通に観る分にはおもしろいのでしょう。ただやはり長回しがきつかった。
AVARON ☆☆☆☆☆
人類が現実に絶望しきった世界。若者はAVARONというバーチャルリアリティーの戦闘ゲームに熱狂していた。うおうおうおうおうおう・・・・・。
↑のようなことがまず映画の始まる前に字で説明される。この時点でやばい感じがした。いきなりこういう説明から入るのは、あるいはその内容の膨大さ、またわかりにくさを補うためにしょうがなくやる場合と、あからさまに狙ってやる場合がある。狙ってやるというのは、映画のストーリーの中でニュアンスとして伝えるということが困難な場合に用いられるのが多いようだ。まあそういう作品は往々にしてつまらん。そしてニュアンスで伝えるという方法は映画の冒頭で放棄されるのだから、当然その後のストーリー中にも数多の『説明シーン』が盛り込まれるということだ。ありがたや。
本作は攻殻機動隊で知られる押井守の作品だ。というだけあって、この映画は生身の人間が演ずる実写映画なのだが作り自体はかなりアニメくさい。登場人物はとかく無表情、ニヒルを決め込み全体的に暗い雰囲気の作りだ。こういうアニメ映画ってとても多い。GHOST IN THE SHELLもそうだし、スプリガン、VAMPIREとか人狼もそうだった。なんというか、全体的な方法がアニメの方法なのである。詳しくはわからんが。いきなり説明ちゅうのもアニメでよくある。「20XX年、人類は地球上のうららうららうららららら・・・」とか。
ストーリーもアニメっぽくて、無敵の女主人公がその無敵のさらに上を目指すというもので、適当に敵がでたり仲間がでたりサイドストーリーがあったりする。
で、なんで★ゼロかというと、映画の最初から最後まで見たが全然つまらんかったのです。劇中に盛り上がりが全くないと見て取れたのである。やーるこーとなーすこーと中途半端!こうも平坦に淡々と進まれると、ほんとやっとられん。
さらにいかんのが前に書いた『説明シーン』がやたら多いこと。変な諜報部員のようなやつがでてきてはしゃべり散らし、戦闘、またしゃべり散らし、戦闘、と思ったら台詞なしで垂れ流し、さらにはどうでもいい賛美歌、この『映画中に歌が思いっきり歌われる』というのもやばい。これは非常にやばかった。
つまり、俺にとって実写でアニメの方法をとられるというのが、全然ダメだった。さらに、1.説明シーンの多用、2.歌をおもいっきり歌いやがる、この2点、数年間映画を見てきて『クソつまらんぞ馬鹿野郎』と感じた映画に共通のダメな部分が直球ど真ん中で放られたというのが致命傷。よって俺にとっては”投資不適格”えーーー。だめです。これ。
バトル・ロワイアル ★★★★☆
未成年者の退廃がもたらしたとされている、大人が抱く子供への恐怖心や社会情勢の不安に対して、国家的な実験が行われる。少年少女が殺し合いを行うことを目的としたBR法。少年七原くん曰く、「なんでそんな簡単に殺し合うんだよ」
まずこれは間違いなく土曜ワイド劇場とかに登場しません。R-15というのは置いといても、学生が拳銃を撃ちまくり刃物で首を切り裂く、血がブシャアアアア、その殺しの描写というのがもの凄い。派手とかそんなんではなくエグい。ヤンエグ。
彼らのオーバーアクションが、こういうわけのわからぬ殺し合いの状況に置かれているということで逆に真に迫り、たまに引いてしまうこともあるけれども、総じてこのオーバーアクションが成功してる。それはただワーワーキャーキャー鬼のブギウギだけではなく、今際の際の「愛してるぜベイビー」的な臭さも全然ゴリ押せてしまうほどもの凄いハイテンションなノリだ。
ハイテンションってすごい。なんでもありになってしまうとこがいい。結局は主人公チーム(あの3人ね)の視点になるんだが、それまで数々の権謀術数、それは相当ショボいのだけどもそこはテンションで押し切る。逆に言えば極端なハイテンション野郎の、ファンデーション使ってない女とか、安藤政信のようなマーダーペニセストはかなりいい。彼らがいてくれてこの映画がある。ペニセスト同士の決戦はなかなかだった。
この前提の下においしいのがやはり主人公チームだ。最後は「やっぱ友情だよな」で締めくくるのがいい。こんだけ殺しといてそうもいかんだろうとは思わない。これはキン肉マン的友情に近い。戦い、戦い抜いた末にたどり着いた場所、それが友情だ!いや、「ゆうじょう」だ。ひらがなだ。
殺し描写が突出してた。深作欣二してた。つまり、やっぱ人は人を殺しちゃいかんよなと正直思う。間違ってもこれ見て「よし、ぶっ殺すぞ!」と意気込めるのはテロリストだ。銃を取れというメッセージはぶっ殺せと言ってるのじゃない。闘えと言ってるんだろう。主な登場人物は、いやもうキタノでさえも少なくともなにかと闘っている。表面的なブシャアアアアで一般的にはNGだけども、今と闘え!というメッセージはビンビンに感じた。それこそ「ガンバレ秋也」である。
ただこれはテンションでは無理だろうよおっかさんと思えるシーンが、特にテンションという武器をなくしたラストはどうもグダグダ気味、さらにこれはどうしても話に没頭できなかったことが、あのパソコン少年が活躍するシーンと、うさんくさいクラッキングの有様、あれなんかもっとこういい感じにならんものかね。
高橋名人の冒険島
このゲームは個人的に因縁の深いゲームである。まず筆者が小学生の頃、ファミリーコンピューターを親父殿に買ってもらった際に本体と同時に買ったのが「忍者ハットリくん」と「冒険島」。どちらもハドソンで、なぜか「ハットリくん」の方がミリオンセールス。そして小学生当時、当然極めるぐらいやりこんだ。
時は流れて大学生。学生寮にいた頃前から置いてあったニューファミコンとの運命的な出会いを果たす。さらに燃えないゴミとして出されていた大量のファミコンソフトを発見。オレには宝の山に見えたさ。
学生寮も退寮間際、ふと深夜「冒険島」を久しぶりにプレイ。適当に緩くやってそのうち止めるつもりだった。ところがやってみると高橋名人は健在。パンツ一丁に帽子というサイケデリックな格好だ。そこへ後輩が一人フラっとやってきて交互にプレイする。
・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・。ムズい。こんなはずか・・・?さらに眠い。
・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・。そして決断。
「電源付けっぱなしで寝ちまおう!」
知ってる方も多いだろうが、ファミコンはとかく接触・振動に弱い。寮という共同生活の場なので、事情が事情、全員理解と協力の上バグ防止につとめた。その結果、
3日間ぶっ通しの電源入れっぱなしで見事クリア。長い長い闘いの果てに我々が見たものは、ショボすぎるエンディングと(ブルーバックに文字の羅列)、ブロックの全員で果たしたというキン肉マン的友情であった・・・!おわり。
以上のように思い入れの深いゲームだが、その内容はパクリである。オリジナルのワンダーボーイ(確かセガ)は様々のハードで長年にわたってパクられ、この「冒険島」もゲームシステムはそのままに、キャラが当時チビっ子のアイドルだった高橋名人なだけである。
基本的に面クリ系のゲームで、名人のアクションはジャンプと斧投げ。斧のパワーアップに炎。そしてスケボー。単純である。この単純さゆえ万人受けするのか。そしてもう一つのフィーチャーとして体力がある。名人は常時食料を補給しないと力つきてしまう。画面上部の目盛りがそれである。
なのでゲームの進行としては、食料を取りながら武器を投げ、飛びはね、名人を進めていくというアクションゲームの王道を突っ走っている。まあはっきりいってやってることはメチャクチャである。
アクションのお手本のような「攻撃しながら面クリ」というものなので、そっちに特徴はない。特徴はやっぱ名人。高橋名人といえば疑惑の16連射、シュートのイメージが一般に強いが、いやいやこういうキャラゲーも多いのである。この高橋名人シリーズはハードを越えて通算5作出てるし、他にも「Bugってハニー」という、おめえがバグってんじゃねえかよ、という内容のゲームもだしている。
このように、高橋名人はハドソンがアクションとシューティングとコロコロコミックのメディアミックスでファミコン市場を席巻していた時代の産物であり、本来時代とともに消える宿命にあった。しかし今もハドソンで地味に開発してるらしい。ありがたや。
1.キャラゲーとして侮るなかれ!
このゲームは8面構成、各面はさらに4ステージ構成の合計32ステージあるんだが、面が進むに連れて驚異的に難しくなる。小学生の時、思えばこんなキチガイじみたゲームをやりこんでたんだから当時は凄まじい。なんでもありの時代である。特に各面のラストステージ(例えば6-4とか)が異常にムズい。蜘蛛がその原因だが、ジャンプのタイミングと長さがかなり微妙な配置の連続で、しかも武器が取れないのでジャンプでかわしていくしかない。発狂寸前。
2.ハチスケ!
ハドソンの初代マスコットである。1-1のラスト、1-2に入るゴールの寸前、何も無いところでジャンプすると卵が出現、割るとハチスケがでる。これを取らないとコンテニューができない!コンテニューの方法はハチスケを取って、ゲームオーバー画面で十字キー+Bボタン。これは必須。死にまくるからね。
3.がんばろう。
最早言うことはこういうことしかない。つまりゲームをやってコンテニューしまくるうちに、名人の操作を繊細にマスターしていくことである。そうしないと後半の面で通用しない。特にショートダッシュからのハイジャンプ、これはマスターすべき。習うより慣れよ、である。
よくもまあこんな単純なゲームに三日もかけたなと思う。否、単純さゆえ我々を熱くしそのエキセントリックな難易度がゲーマーとしてのファイティングスピリットを滾らせた。滾っちょる。そしてゲーマーが二人結集すると、三日という不毛なパワーを生み出すようだ。このゲームはゲーマーとしてのアイデンティティの再確認、ゲーマーとは如何なるべきか、それを模索するのに良好なゲームである。
余談だが、ノーコンテニューで8面まで行った、グスタフソンというエキセントリック鳥の巣野郎もこの世にはいる。
VISUALBUM ★★★★★
りんご編・・・・・システムキッチン/げんこつ/古賀/「都・・・」/ミックス
バナナ編・・・・ずるずる/マイクロフィルム/む”ん/いきなりダイヤモンド/ゲッタマン
ぶどう編・・・・・診察室にて・・・/寿司/巨人殺人/荒城の月/園子
松本人志企画・演出・脚本のコント作品集。セルビデオとして発売。その背景として、「ダウンタウンのごっつええ感じ」をやっていた時、その予算的・時間的・人間的制約が元で、納得のいくコントが作れないと言うことを日頃から感じていた・・・というのがあるらしい。
「ごっつ」をやめざるを得なくなったきっかけが、放送が予定されてた日にテレビ局側が急遽プロ野球の優勝決定試合を断りもなく放送したこと、「俺らの笑いは、そんなどうでもいい野球なんぞに劣るんかい」っちゅう理由で松本ブチキレ、「ごっつええ感じ」終了。・・・人間的制約が一番の問題だろう。
後で三谷幸喜も言っていたが、ライブ的作品に必然として生ずるアドリブのボケ、仕草などをカメラが映像に納めている、これが人間的制約がないっちゅう事だろう。さらにコントに欠かせない小道具、これは笑いが好きな種類でないと演者の想いとかなり離れてしまう。これも人間的制約。
今思えば「ごっつ」の制約はあまりに大きい。一週間で1時間番組という決まり、その内容は「チームファイト」というゲームみたいなコーナー・野球・選挙シュミレート・大食い・その他一発企画もの、そしてコントである。
コントについて言えば「キャラもの」が多かった。キャラありきで、毎週毎週ボケをマイナーチェンジさせれば長持ちするし、作るのに効率的なんだろう。しかしだ、それも面白いは面白いが、一番最初の衝撃、これはもう一辺限りなんである。毎週毎週面白さは薄れていくだろう。これは時間的制約。
金銭的制約は、やっぱ予算だろうな。テレビでは「巨人殺人」なんてカネがかかりすぎて作れない。「チームファイト」は明らかにコントより安いだろう。
と、このような制約を解き放った本作、一体どうなんだろう?
本作には、いろんなタイプの笑いがある。「げんこつ」「ずるずる」「マイクロフィルム」「荒城の月」のように、思いっきり下ネタで、それが逆に全然ヤらしくない、むしろそれぐらいさらけ出されると気持ちいい。例えばずるずる。「切らんとあかんネー」「え~・・・・・チンチンを、」「そうチンチンを」是非映像で見て欲しいが、この笑いはなんだか爽快感さえある。
要は下ネタオンリで笑いを取ろうとはしていない「下ネタ4割」の笑いなのである。マイクロフィルムは出てくるモノそれ自体が笑いだし、荒城の月は字も含めたヴィジュアルとしての笑いである。
その他笑いどころや話の筋が分かり易いモノも何本かあるが(寿司など)、ここでしか見れない作品に触れたい。それは俺が思うに「システムキッチン」「古賀」「いきなりダイヤモンド」「診察室にて・・・」、この4本。
その中で、システムキッチン。一本目(りんご)の一作目がこれなんだが、挑戦状のようなコントなんである。この作品に所謂「ボケ」はない。恐らく万人が万人笑いどころが違うと思う。人によっては全然笑えないだろう。それぐらいやばい。
おすすめは上の他、「都・・・」「ゲッタマン」とかか。実は何遍も見たのはシステムキッチンとゲッタマンだったりする。「カラン」とか、毒アゲハ人間のおはぎ、衣装さん、何遍見てもおかしい。
キャラありきのコントは信用しちゃいかんぞ!!
ナチュラル・ボーン・キラーズ ★☆☆☆☆
現代版ボニー&クライド。ミッキーとマロリーは、誰彼かまわずブッ殺しまくる猟奇殺人者として警察に追われるが、マスコミの過剰な報道により彼らの行動はカリスマ性を帯び、やがて彼らもそれに酔いしれる。警察は威信に懸けて逮捕したが、それはナチュラル・ボーン・キラーを呼び起こすきっかけにすぎなかった・・・。
クエンティン・タランティーノ脚本作品。監督はあのオリバーストーン。自分の主張を作品に盛り込み押し付ける弘兼憲史みたいなヤツだ。なのでこれは純粋なタランティーノ映画とは言えない。
この映画は友人が言うには、アメリカのメディアの異常な過熱ぶりを皮肉った「意味付け」のある映画らしい。
しかしねぇ、自分が見た時はそういう事前の情報、例えば宣伝広告とか見てないのでそんな押し着せの主義主張なんか、いざ映画を観てるときに感じ取ろうとか考えてないわけです。そんなのどうでもいいわけ特にこの映画は。俺の印象では題字通り「とにかくブッ殺しまくろう!」っちゅうことなんだから。
例えばオリバーストーン作品に「プラトーン」があるが、それはテーマそのものがベトナム戦争、いわば主義主張の塊。だからプラトーンは絶賛された。当時中学生の自分も少なからずベトナム戦争を考えたよ。ええ。
そう考えたのも束の間、せっかくのタランティーノのいい脚本骨子がオリバーストーンの過剰演出の前に砕け散っている。例えばマロリーがナイフを投げるシーンで瞬間的にナイフの動きを遅らせる演出、そのためにBGMをロックからクラシックみたいなのに変えるんだがこれがたまらなく古くさい。嫌になる。さらにマロリーとミッキーの出会いをこれも皮肉だかなんだかしらんが、テレビのどうでもいいコメディ仕立てにしている。これなんか最低。死にたくなる。
そうなると映像からなにから全て古くさく見えてくる。これは時代的古くささでなく、いかにも斬新さを狙った演出が見ていられないほどに古くさく感じるというものだ。これは最初から最後まで、とくにクライマックスの刑務所長が締め上げられるまで延々と垂れ流される。
オリバーストーンも題材によるなと思った。この映画はマスコミの過剰演出が反面のテーマなので、自らも過剰演出してみたのが裏目った。タランティーノが撮り直さねえかな。