機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ★★★★★

宇宙世紀0093、地球連邦は宇宙全域を支配し、なお反乱軍は残っていた。ジオン公国の生き残り、シャア・アズナブルは自らジオン再興を目指し、連邦軍に戦いを挑む。地球にコロニーを落とすという作戦を防ぐアムロやブライトや。いやぁ、なつかしいなぁ。
公開当時は1990年前後だと思うが、これは劇場で観た記憶がある。その後のF91も観た気がする。最後のコロニーどーんはなんとなく知ってたし。こういう記憶の底にあるものを忘れた頃に再び見るというのは、なんにしてもそれがおもしろければいいものですね。
でまぁこの映画がおもしろいと思えるには、当然0079の頃のファーストガンダムを通過せねばならんのだが、まずファーストのどうしようもなくドロドロした人物描写が相変わらずだったのでよかった。ただ映画ということもあり、実質的にはシャアVSアムロという構図にはなっている。ブライトやミライ八島も登場するがあんまし活躍しない。とくにミライは懐かしさで登場しただけ。
そしてもう一つのキーパーソンが直接には出てこないララァスーン。ほかにあの金髪女とかクェスパラヤもそうだが、これらがシャアのマザコン爆発触媒になっている。多分シャアがこんなにニュータイプでない劣等人間を否定するのは、適切なママがいなかったからだろう。だからカリカリしてるんだ。

ピストルオペラ ★★★★★

ストーリーはあって無いようなもの。どうでもいい、ってわけではないけど、特にこの監督の場合ストーリーはメインじゃないと思う。
まず観終わった後の後味がものすごおおおおぅく悪い。「おもしろくねぇ映画を観てしまったなぁ」では絶対無いのだが、なんというか「狐につままれた」ってやつか。ラストは大笑いしたし。
昔のモノクロの映画(すべてが狂っているなど)はそうでもないんだが、カラーになって映像に色彩が持ち込めるようになってからは、この鈴木清順という監督の映画は実に特殊な映画が多いようで、実際前作から10年ぶりという本作も要するに”意味不明”なんである。
問題は観る側がそのアドリブではない、最初から決められた「意味不明なセリフ」とか「意味不明な映像」を受け入れられるかどうかだ。映像はまだしも、突然「ちゅうちゅうたこかいな~」とか言われてしまっても、「はぁ?」「うわくっせぇ」の人は多いと思う。
自分の場合清順映画は音楽の聴き方と同じ感じになる。自分は音楽を聴く場合、その歌詞すらも音の一部として聴くように自然となっている。例えば「愛してる」という歌詞があればその意味などはあまり気にせず、その曲全体のつながりとそのときの「愛してる」の音の響き具合、こっちを重視している。つまり、セリフという音声もすべて映像の内に取り込み全体を一つの映像映画として観る感じ。だからこういう意味不明な映画では、セリフにだけ意味があるよりは、全体が意味不明という方がツキヌケているのでよろしい。
そうなると、意味不明なセリフさえこの映像の一部なのであると感じられるから意外に楽しんで観れる。そう、いかに楽しんでみようとするかが大事だと思うんだなぁ。いきなり「わけわからんぞてめぇ」じゃなくて。
でまあ、映像はすばらしいです。これは実際観んとわからないと思うが、キメの映像がきっちり様式キマってるのが格好いい。確かに、こりゃやりすぎじゃろうがと思う部分(特に後半の妖怪博覧会での決闘)はあるけども、ここぞの清順節はやっぱかっちょいい。
で音楽はEGO-WRAPPINのブルースラッパ、要するにラッパ万歳です。この映画のヘンテコな和風によくあっている。ただあの幼女のテーマ曲は納得できないがねぇ。
幼女といえば、この映画には児童ポルノが登場するのです。小学校高学年くらいの子供(パンフレットによると1990年生まれ。って平成生まれじゃねぇか)の少し膨らんだ乳やおしりが数回バーンと、バーンと、出るのです。瞬間はジーッと見てしまったが、あれはいいんだろうか?抵触しないんだろうか?まぁ映倫通ったってことはOKなんだろうが、ドキドキした。全体的な映像がエロいのだけど直接的なエロはそこだけ。それだけにインパクトでかいよ。幼女だし。
主役二人もがんばってた。江角の元々からのオトコオンナのような雰囲気と野良猫のキャラクター、また山口小夜子の特殊な雰囲気も良いと思う。というか映画の映像感覚がOKならだいたい、役者がダメだったってことにはならんと思う。
総じて、自分は楽しめましたがこれは人にお勧めできません。後味悪いし、好き嫌いは激しく分かれると思う。
何かで見た監督のインタビューで、「この映画で伝えたかったことは何ですか?」の質問に監督「そんなもの、ありませんよ」←こういう82歳っていいねと思えたら観よう。

アメリカン・ビューティ ★★★★★

レスターとキャロリンは、夫婦共働きで郊外の一軒家に住み反抗期の娘ジェーンがいるという、普通のアメリカの家庭。自分があって家族があるのだ、家族こそ最高、彼らはこういう現実的幻想の前に自らを塞ぎ込み抗い続けてきた。その結果が家庭崩壊に仕事の不振。そんな彼らにもそれぞれ少しのきっかけが訪れ、そこから自らのビューティーを追求することになる。
この映画では主人公のレスター一家三人と、隣家の住人の大佐とその息子、そしてジェーンの表面的友人アンジェラ、都合6人の関わり合いで物語が動いている。彼らがそれぞれある時点からの人生の美学、私はかくある”べき”、こういう思いを抱くようになってからはおのずと最後の悲劇的な結末は見て取ることができた。
現実にふとした瞬間思いつくような事を、たとえばあの女とやりてぇなぁだけどもそりゃ無理かだって娘の友達なんだぜと、仮に一瞬(この映画で最後に語られる一瞬とは違う、物理的な一瞬)思ってすぐにその思いは消える、その感覚をそれぞれにスーパーデフォルメして喜劇的に表現したのが、そういう物語全体が哀しいけどもおかしかった。こういう類の喜劇を見ると、やはり喜劇は悲劇と表裏だと感じられる。
そしてこの映画があくまで喜劇の体裁を保っていられたのが、話が進むにつれてすんごく重~い感じになっていくのだけれども、まっことくだらぬ事を随所に入れてて、この辺はゲラゲラ笑えるというところだ。朝起きて自慰をしてそこから先は地獄だというのが生身の人間の本音だろう。そう、見てる側がおかしい・笑えるというのはそれが自分の思いだからで、それを解放させるのは笑いの方法としてある。
結局ビューティーってなんだろう。表面的なビューティーなんてのは、この映画で言えば「赤」であり、「アンジェラ」であり、「ファインダー越しに映る物像」である。しかしそうでなくて、一見救いようのないような絶望に収束していったレスターだったが、それは六者六様それぞれの美に向かった結果なのである。特に最後に救われなかったキャロリンと隣家の大佐、彼らはその時幸せだったのだろうか。
またいつか、完全に内容を忘れたころに観ようと思う。そしてその時また自分のビューティー、自分は幸せですかと問うてみたい。
いい映画だと思います。

教祖誕生 ★★★☆☆

ど田舎に現れた、訳のわからぬ新興宗教団体。あからさまにうさんくさい神様が、あからさまなサクラの万病を治し、宗教本を売り歩く。そんなどうしようもない商売に魅せられた青年あり。彼もこの商売に加わることになった。
この映画が作られたのがおそらく90年代初め頃、その頃からかどうだか、今では崩壊しているオウム真理教や、今でもあるんだかないんだか、統一教会やらなんやらが芸能人といわれる変な奴らを伴いマスコミに登場し、一般に知れ渡るようになってきたまさにその時期で、そういう背景を考えながら観るとなかなか面白い。
日々の生活に根付いている仏教習慣・文化はともかく、これこれこういう明確な宗教に属する、属しようというその根性がわからん。端から客観的に見るとあからさまにうさんくさくぼったくられてるのに自らは気づかない宗教野郎、たまーに以前なにかの宗教団体に属していて、金をせしめられたので賠償してほしいという阿呆を見るがそれは間違いなく己のせいであり、しかもその宗教にいる間はなんらかの問題を忘れ去れさせてくれるほど没頭していたのであろうから、そのぼったくりを賠償しろこのチンカスとぬかしてしまうのはあまりに図々しいし滑稽だし、これは高らかに「私は阿呆です」と宣言するのと同等だ。
オウムは別として、福永なんとかというやつの宗教も結局は金のふんだくりだし、全国にたくさんいると思われる仏教以外の特殊な宗教に属する人々、「帰依しとるのだワシは」と感じている人々、これらは「金を払って安心感を得る」という”神(=金)”との契約に基づいてその宗教にいるので、一度入ったが最後絶対ここに帰依し続けるのだという強い覚悟はやはり必要だろう。そうでなければ夢から覚めた後は悲劇的な喜劇が待っているだろうから。

ビッグ・リボウスキ ★★★☆☆+

ロサンジェルスに住むジョン・リボウスキ。その彼はリボウスキ違いが元で、借金取りに凄まれ、絨毯に小便をされるハメに。弁済を求めるべく彼はもう一人のリボウスキ、大金持ちの方のリボウスキに会いに行った。
一通り見た感じとして、なにがなんやらどうでもいい話だったなぁと。そう、最後にカウボーイが締めているように、「あれやこれや色々おかしかっただろう?」これがすべてだと思う。
要するに「あれやこれや、色々おかしかった」だけの話なんだ、これは。特に感動するでもなく納得するでもなく、また大笑いするでもない。ただ、おかしかった。何度かくすりと笑った程度の話だ。
しかしそれこそがこの映画の楽しみ方なんだろう。一言で言えば喜劇の楽しみ方。おかしい中に哀しみがあり、この作品を見て、まぁどうでもいいじゃねぇかよこんなもん、クソったれの時間の無駄だと感じるならばそれはそれでよいと思う。今回たまたまあってないのだろう。
内容ではベトナム上がりのあのデブはかなりいい味出してるキレキャラだし、リボウスキの気違いぶりもいい。ボーリングトリップとか。このへんを受け入れられるかどうか、変に臭ぇなこの野郎と感じたらたぶんこの映画は受け付けられないだろう、自分は楽しんで観れました。
だからして、★3というのはある意味最高点だ。なんというか、おもしろくないということはないが、非常に魅力的だということもない、大爆笑だということもない、もう一度観たいかと言えばそれは違う、しかししかし、単におかしかった。その、中ぐらいの範疇で最高だと言える。中の上。そうだなぁ、+を付けとくか。

影の伝説


発売日
定価
メーカー
ジャンル

1986年4月18日
4,900円(税無)
タイトー
雇われ忍者アクション

 ゲームの内容とゲーム進行

古い割にかっこいい
主人公の忍者・影は、捕らわれた姫を救出するため、地を駆け、水に潜り、城壁を飛び回り、挙げ句に城に潜入して姫を助け出すのだが、
その姫の圧倒的さらわれ易さの前に、為す術もなく立ちすくした後に、ああまたかよ的倦怠感と、ちょっとのワクワク感ないまぜ状態で、
さっきと同じ行動を繰り返し、さらわれちゃあ取り返し、またさらわれるという、雇われ忍者体感ゲーム。
プレイヤーは影の武器である剣と手裏剣 、そしてこのゲームの印象を鮮明なものとする驚異的ジャンプ力 をつかって各面をクリアしてゆく。先ほど挙げたように、森→城の堀→城郭→城内→森・・・・・・これを延々繰り返してゆく。
また、このゲームは四季の概念が導入され、森~城内までが一つの季節として設定されている。春夏秋冬すべて姫を助け出したら、 一応のエンディングのような字の羅列が飛び出すのだが、そのあと「HOWEVER・・・・・・・」と表示され、また春に戻るのである。 一説によると、この春夏秋冬を5回繰り返すと真のエンディングが現れるらしい・・・・・。姫はその間20回さらわれる。
 ゲームの特徴

ジャンプ力。これだろう。一画面をはみ出してしまうほどの跳躍で、つい調子に乗って斜めジャンプしながら手裏剣をばらまく。
これがおおよそのファーストインプレッションでの楽しみ方である(これでは攻略で話にならんことを後に思い知る)。
また、アーケード移植作らしく、基本的に即死ゲーである点。影は玉を取ることで2段階にパワーアップするのだが、 玉を取ってないノーマル段階では、忍者といえど無力である。まあ、常に即死の危険がつきまとうのが魅力ではあるが。
そのほかにも、標準の武器である手裏剣と忍者刀、そして赤いマーク(正式名称しらん)を取ったときに使える八方手裏剣や分身の術、そして、春のステージでたまーに画面上にあらわれる忍法念仏の術などなど、忍者プレイが楽しめるところもいい。
 ゲームの攻略

クソ女
1.武器を選択せよ!!

これはいろいろ意見があろうが色々試した結果、フィールドによって異なると思う。森と城内では手裏剣、城の堀と城郭は剣。これがよかろう。まず剣について。城の堀では、水に潜って上のザコ忍を突き刺す。ザコ忍が水中で近寄ってきたら避ける。これでまず死なない。城郭は、ひたすら剣を回しながらジャンプ。これがいいと思う。ここで剣の、手裏剣をはじくという利点が活きる。てゆーかこれだけ。そもそもタイミングのずれのせいで、この城郭でやられるのが意外にも一番多いように感じる。しかし最大の問題は、手裏剣パートである。
手裏剣パートで最も怖いのはザコ忍である。特に赤ザコ忍の投げ玉。これはしゃがみで避けられない。即死割合も一番これが多くなる。次に、青ザコ忍の「デアイガシラ手裏剣」。これは、プレイヤーの進行方向からいきなり青ザコ忍が出てきて、そいつがいきなり手裏剣を投げてきて即死、って感じである。
手裏剣パートでは、進行方向に保険として手裏剣を投げながら移動、これがいいだろう。
2.ジャンプを捨てよ!!
城郭以外では、基本的にジャンプしないのがいい。確かにジャンプは楽しい。「ジャンプしない影なんてただの足早いオヤジだ」なんていう意見もあるだろう。しかし、攻略を考えるならジャンプしないのである。
このゲームのジャンプは凄く高く飛べるのだが、ゲームでよくある「ジャンプ中の動作」ができない。空中で体をウネウネさせる、人間離れしたアレである。影は一度飛んだら着地するまで動かせないのである。コンピューターもえげつないもので、着地のタイミングに合わせて手裏剣ねらい打ち→即死コースもある。だから飛ばないのが一番いい。
3.命は大事に!!
以上書いたように、死にまくる。到底最初の2機じゃあ全然足らない。よって増やさなけりゃならんのだが、このゲームは50,000点で1機増える。これを使うしかない。場所はスタート地点。ゲーム開始と同時に右端に移動、保険の意味で一定間隔で左に手裏剣を一発ずつ撃ちながら右に手裏剣連打。手裏剣の最大画面表示数は2発なので、一発左に撃ちながら右連打、これで当分死なない。画面外からの手裏剣は無いので、右は封殺でき、左からの手裏剣にも距離があるので十分対処できる。
そしてしばらく撃っていると、上に灰色のマークか赤色のマークが飛んでくるだろう。灰色は10,000点で、赤色は忍法が使える。忍法は八方手裏剣か分身の術。最高のパターンは、まず分身の術を取って無敵になる。それから灰色マークで点数を増やしつつ、適度に分身の術を取る。そうしていると敵の数も増え、攻撃もシビアになるだろう。無敵なのでこいつらもきちんと殺す。そうしたらそのうちにパワーアップの玉が取れ保険ができる。
このゲームは同じ所にずっと居続けると、敵の数と攻撃が増えるようだ。だから分身の術が切れそうになったら、たとえそこに灰色マークが見えていても一目散に逃げるべきだ。逃げたら数と攻撃も普通に戻るので、また右端で同じ事を繰り返し。俺はこれで20機まで増やした。けど、それでも5週は無理だった・・・・。
ちなみに裏ワザで、「コントローラ1のスタート、セレクト、A、B、コントローラ2のA、Bを押しながら電源を入れ、タイトル画面がスクロールする前にコントローラ1のA、コントローラ2のBの各ボタンを1回押してスタートすると影が10人になる。」っちゅうのがある。しかしこれを成功した例しがない。押しながら電源なんて凄く曖昧、裏ワザ自体にもかなり無理があるようです。
 総評

未だ真のエンディングを見ていない。もう見る気もない。デアイガシラ手裏剣をくらったときの、まさしく「殺られた」感じ、またそれを避けて「生きた」心地、ここに恍惚感は感じるが、「姫救出」に恍惚感は感じない。

ダンサーインザダーク ★☆☆☆☆

近視のセルマは、日々の労働での稼ぎと趣味であるミュージカルに生き甲斐を感じていた。金を貯めて自分の息子ジーンに遺伝性の近視手術を受けさせるためである。同時にミュージカルのリズムは生きる術であり、周りを巻き込んで踊り狂う。ところがそのお金に関する事件が起こる。
ホモジェニックなビョーク主演です。まずこの配役はこの映画にしてアリだと思う。この映画は決してミュージカル映画ではなく「主人公の趣味がたまたまミュージカルだった」だけであり、惚れた漢が極道だったという極妻となんらかわらない。なので自分のように「アンチミュージカル」のポジションの方々でもひとまず鑑賞することはできる、普通の映画だ。そこでこのビョークをあてがうというのが、彼女の声はそりゃもうホモジェニックでありガンガンに響くし、歌うときの至福の表情はいい。
ただ前述したように俺はミュージカルが大嫌いなわけで、もちろんこの映画におけるミュージカルシーンでは新聞を読んで過ごしたのだが、だってさぁ、ストーリーの途中でそれまでの人間関係や背景なぞ関係なしに全員一致で変な歌と踊りを展開してしまうなんて、あんなもん見てて気持ちが悪くなってくる。正直、ミュージカルが全開に好きだとか言ってしまう人は敵かもしれん。
↑はミュージカル全般に対する自分の思いであり、この映画にはなんら影響しない。まあそらいい気がしないのは確かであるが。それよりも問題ありありなのがこの映画の人物描写と、納得いかないストーリーである。ある事件がもとでセルマは犯罪者になるのだが、それからの彼女の息子に対する強烈な偏屈っぷりは全然わからない。もちろん客観的に見たセルマは、彼女の自己犠牲的所業に自分で納得しそれを受け入れたのだから、客体視した見せ方ならばある程度理解できたかもしれん。しかしこの見せ方というのがリアルタイム撮影とでも言おうか、セルマの表情を真に迫って映し出してるのでそうそう客観的に見ることもできない。
要するにセルマの言動にはいちいち納得がいかないし、そもそもそういうセルマに置いてしまう周りの状況、ストーリーの進み具合がクソだった。すべての元である事件にしたって全然理解できない。あれを理解しろ、理解しなきゃ感受性の薄っぺらな呆け者だと言われようがなんだろうが、俺は理解できない。
ネタバレになるが、たとえば自分の子供が間違いなく失明する危険があり、それにかかる手術の金を巡って殺人者になってしまったとしたら、セルマになるかもしれん。ここは理解できるし、考えようによっては納得もできる。ただしこの状況を打開する策はいくらでもあるわけで、やっぱりストーリーは理不尽。冬木よりも理不尽。さらに映画のような娯楽ぐらいは、こんな神妙にならんでもファンタジックに描いてもよろしいのではないかと。こういうリアリティの追求の形は、物語にされると相当イヤだ。
というわけで、映画としてダメとかではなく俺に合うタイプの映画ではなかったと。意味ある★1です。

マルコビッチの穴 ★★★★☆

うだつのあがらぬ人形操師クレイグは、自分の才を認めぬ現実に辟易していた。その妻ロッテも覇気のない暮らしに辟易していた。クレイグがしょうがなしに働くことになったある会社はビルの7と1/2階にある。そこで彼は、ジョン・マルコビッチのあたまの中に通じる扉を発見する。
まず「穴」の設定が面白い。15分間マルコビッチの中に入り彼の視点で見る。しかしこちらの声は届かない。その後高速道路の脇に突然降ってくる。それもその対象が、日本で言えば笠智衆のような名脇役であるジョン・マルコビッチという微妙な人気者なので、変身してもとくに豪華であるとかそういうのがない。
これは変身願望ではなく、まさしく後々クレイグがやってしまったようなマルコビッチという新しい乗り物に乗った喜び、そこから見た視界の広がりがくれる新しい発想、ロッテにしたら自分が同性愛だと気付かせてくれた新発見の喜び、これがマルコビッチの効用ではないだろうか。
そしてマルコビッチがマルコビッチに入った瞬間、観たものが凄かった。すべてがマルコビッチで帰結している世界。爆笑だった。同時に滑稽だった。そしてこのあたりから、この映画自体をどういう形で終わらせるのだろうか?そもそも穴の正体というか、理屈を解明してしまうのだろうか?という考えが起こってきたんだけど、結局なんだかへんてこな理屈を付けて正体を現してしまった。正直このへんで冷めました。
こういうよくわかんないのはよくわかんないまま、置いてけぼりに置いていくという終わり方もアリだったんじゃなかろうか。一切のことを気にせずに気持ち入って見れたのも途中までだし、いやもちろん、じゃあどういう終わり方があるのかと言われると正直わかりませんが穴の説明はいらない。
是非一度見るといいです。おもろいと思います。

60セカンズ ★★★☆☆

かつての凄い車泥棒として有名な○○、その彼の弟がギャングに拉致された。取り返す条件は、24時間で50台の車を集めてギャングに渡すこと。○○は弟を救うため、足を洗ったかつての相棒どもを集結させ、再び車泥棒をやることになった。
禿のニコラスけいじ主演。全体の雰囲気はリービングラスベガス寄りだけども、内容はアクション映画。全体を半分に割って前半と後半がかなり雰囲気が違う。前半は、ギャングとの交渉や仲間集め、そして実際の車泥棒と、淡々と進んでいく。意外に車泥棒のシーンがあっさりしてて、それはいいのかと思うほど淡泊だ。
このまま淡々と進行して、この流れで最後までいくのかと思ってたら後半のカーチェイスで一気に暴れ出した。カーチェイス自体はもうハリウッドのアクション映画では当たり前の見せ場であり、最早見る側にとってはどうでもいいシーンになりがち、どっちかといえば制作者側の「単純に、作りたいんだよお」という自慰行為になりがちなシーンであるから、はっきりいってしんどい。普通はしんどいんだが、この映画のカーチェイスはなぜかおもしろかった。
これは前半があまりにも淡々と進んだため、意外に(もしや狙ってか)後半の、この映画唯一の長~い見せ場、盛り上がりどころがヒートアップした、しかもそのカーチェイスは特にこうギミックのような色もんを随所に配置するのでなく、カーのチェイスを存分に堪能できるようになんかよくしらんが格好のいい車を走らせるという、そこはよかったと思う。
かといって、これが一生もんの心に残る映画になるかといえばそういうことは絶対なく、良くも悪くも一時的な享楽を満たすハリウッドの一級アクションであることは違うことない。なので可もなく不可もなし、★3つです。