肉体の門(1964) ★★★★☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。次は1964年、鈴木清順監督作品。

清順監督と言えば、色彩の美麗さや奇抜な演出で、世界的にも名の通っている人だが、今作でもそのエッセンスは感じられる。まずパンスケ4人を赤・緑・黄・紫のワンピースで色分けして、それぞれのキャラクターもその色が持つ印象に仕立てているのが技巧的だ。例えば、五社版では主役だった小政は直情型の赤、清順版の主役であるボルネオ・マヤは緑で感受性の強さを表しているし、紫はそのまま売女、黄色=デブで陽気というイメージはいつからなんだろうか。

戦争に負けて、彼女らは仕方なくパンスケになったと思うが、それが故に徒党を組んで助け合い、シノギの場では虚勢を張っていきがる女の逞しさ、そして一人の女性としての愛を望む気持ちとがせめぎ合い、その葛藤のコントラストがよく表現されていた。五社版では小政と男の関係、彼女らの儚い夢物語だったのが、清順版はより深く、内面も描いている。

おっぱいについてはかなり控えめだ。つーか五社版の1988年ってバブル絶頂期か。そりゃおっぱいも中心になるよなあ。それから20年前になると、例えパンスケを題材にしたとて本作のような控えめおっぱいになる。

「肉体の門」とは関係ないが、数年前「おっぱいバレー」という作品がちょっと話題になった。見てないので詳しい内容はわからないが、バレーの試合に勝ったら先生がおっぱいを見せる云々のやつだ。五社版のおっぱい中心、おっぱい動説からすると、20年して再び控えめおっぱいつーか、妄想おっぱいへと衰退しているのかもしれない。この20年間周期のおっぱい描写循環は意外と面白い。

肉体の門(1988) ★★★☆☆

戦後まもなくの東京、米兵相手に体を売るパンスケ達の話。

映画とは関係ないが、「パンスケ」という言葉の響きが好きだ。「売春婦」では重たいじっとりしたイメージがあるし、「売女(ばいた)」は蔑んだ印象があるし、他「淫売」「立ちんぼ」「街娼」「夜鷹」「パンパン」「P」「肉便器」「公衆便所」など、まあ我ながらよくこんな破廉恥な言葉を知ってると思うが、これらの中でも「パンスケ」はライトな感じで語感が良い。

今回は監督の違う「肉体の門」を2作続けて見た。最初は1988年、五社英雄監督作品から。

「吉原炎上」「226」の間に作られた作品と言うことで、作風はその2作に非常によく似ている。大袈裟な演出で、映像のインパクト重視つーか、おっぱい重視の描写が多い。主役級の俳優は前年の「吉原炎上」とほぼ同じで、おっぱい描写OKのかたせ梨乃・名取裕子・西川峰子が、吉原の花魁から戦後のパンスケに変わっただけだ。つーかひょっとすると、「吉原炎上」がそこそこヒットして、その要因を分析したところ「例の、女のおっぱいである」とわかり、おっぱいありきの原作を探していたら、たまたま「肉体の門」を見つけたのかもしれない。内容よりもまずおっぱいというわけだ。

うん、こう考えた方が色々合点がいく。次の感想で書く鈴木清順監督作品と比べると、鈴木版が文学的な印象を受けるのに対して、五社版は正直、不発弾とおっぱい、それからこれも吉原炎上で使われていたが、最後の口に爆風が入ってグワーってなるやつぐらいしか印象にない。女の喧嘩シーンとか、なんかよくわからん意気投合のダンスシーンは見てられないという意味で印象に残ってるが、一つの作品として果たして何を描きたかったのかはよくわからなかった。

そこでおっぱいである。女優の名をもって、大々的に公開される映画作品でおっぱいを見せても構わない女優さんがいて、しかも前述の三人のような名の知れた面々であるならば、これはもう「テーマ:おっぱい」で十分説得力がある。こんなにおっぱいと書いたのは初めてだ。

蒲田行進曲 ★★★★☆

スター俳優・銀ちゃんと、大部屋俳優・ヤスの話。

オリジナルが舞台作品ということで、映画とは言えかなり舞台を意識した作りになっている。俳優の演技は大袈裟で外連味たっぷり、BGMも押しつけがましく、クライマックスシーンも一画面に収まる。舞台はよくわからんが一週間とか長いと一月とか上演するようだが、階段落ちは毎回実演したのだろうか。

この押しつけがましいケバさは、結果的には映画全体の熱気となってプラスに作用している。なんつーか、あの奥崎謙三の「わかってやってるガチさ」に通ずるガチさというか、最後劇中劇のネタ晴らしでもわかるように、演技することを強調してみせたのが、テンポの良さに繋がっていた。

スターである銀ちゃんはシンボル、何が何でも存在を守るべき対象である。大部屋はスターのためにいるし、その言葉は絶対的、わたくしを捨てねばならない。だから強く結びついているように見えても、互いの心根は理解できない。階段落ちの前、ヤスが意図的にゴネてみせたのも、この大勝負の前に銀ちゃんに存在をアピールしたかったのかもしれない。「ヤス、あがってこい!」でケバさはピークに達するが、ここまでくると俺自身は性格的に引いてしまった。熱さが空回りせず全体の推進力となっている良い映画だった。

バートン・フィンク ★★★★☆

WWII前後、ニューヨークの舞台劇で成功しハリウッドに迎えられた脚本家が苦悩する話。

仕掛けは多い。疑い出すとキリがない。ラスト、ホテルを後にしたバートンが海岸にいると、突然女性が歩いてきてバートンの前に座る。するとまるでバートンが滞在したホテルの壁に掛かっていた、浜辺にたたずむ女性の絵と同じような構図になる。しばらくして、鳥が海に潜ってエンド。ここだけ見ても示唆に富んでいる。

デジャブのように、なんもない浜辺に座っていると、急に美女が歩いてきて自分の斜め前に座る、なんてのは現実としてありえない。だとすると、浜辺の美女はバートンの妄想だと言うことになる。海に潜った鳥は、その女性以外が現実である事を示している。脚本家であり、ストレスの発散時やダンスシーンでわかるように、「クリエイター」という意識が非常に強いバートンにとって、妄想が膨らんで現実と重なるのは、無くはない事だ。

するともう、このストーリーはわけがわからなくなる。細かい部分では、蚊・ホテルの異常な暑さ・外壁からしみ出る糊のようなもの、バートンの目にとまる奇妙な光景は、彼の妄想かもしれない。知り合ったばかりの女性が、バートンのような奇抜な風貌の男の部屋に、呼び出してすぐに来るだろうか。朝起きて、横を見るとその女性が血まみれで死んでいるなんて、クリエイターにとっては非常にエキサイティングな状況だ。ひょっとして、チャーリーや、ハリウッドに来たことすらもバートンの妄想かもしれない。チャーリーに渡された箱は、いわば「現実」のシンボルであって、バートンが「チャーリー」の私物である箱を「開けない」のは、そこに現実が詰まっているから、深読みすると、酷い戦争が詰まっているからという事になるかもしれない。

以上は俺の想像(妄想ではない)であって、コーエン兄弟の狙いは全く違うかもしれないし、そもそも狙いなんてなく、示唆に富んだ仕掛けを張り巡らせれば、見る側が勝手に解釈してより良い着地点を見つけるだろうと、見る側に評価を丸投げしているかもしれない。沈黙は金とはよく言ったもので、ある妄想を、雄弁な連中に想像させれば、勝手に良い方にまとまるのである。落語にもこういう噺はあった。見終わって調べてから分かったことだが、実際本作は1991年度のカンヌでパルムドールを含む三部門を受賞している。

この「カンヌ」つーのがわかりやすいつーか、映画を熟知した批評家連中にとって、本作は雄弁に語るのにうってつけな素材だったのだろう。そこまで見越してコーエン兄弟が製作したとすると、月影先生言うところの「恐ろしい子」になるが果たして。

武士道残酷物語 ★★★★☆

江戸時代から昭和30年代まで、自分の先祖の残念な人生を振り返っていく話。

江戸時代の封建社会の理不尽さを描いた作品。極端ではあるが、こういうの見ると昔ってすげえと思う。主君が死んだら、主だった家臣が後を追って殉死する。流石にこの風習は江戸の初期、第4代の家綱の時代だったかに法律で禁止されたが、戦国時代あたりから少なくとも家光の時代までは、殉死が「忠義を示す絶好の機会」として捉えられていたということだ。あーーーーー、すげえなやっぱ。

つまり死は家を繁栄・維持させる手段である。個人は家の中に埋没し、その家は世間を形成して国のために存在し、その国は大名のためにある。ここでようやく個人(大名=主君)が家に先立つ。大名の上には徳川幕府があり、頂点に個人(将軍)がいるが、江戸時代の日本は実質的には一つの強力な国がある連邦国家のようなもので、各藩の政治体制は極端なトップダウンだ。トップダウンの場合、トップの資質が優れていれば、民主/共和制よりよほど機能する。逆の場合は最悪で、本作のようになる。

特に酷かったのは天明期の田沼時代、剣の達人である先祖が、まず自分の弟子と結婚させる予定だった娘を身売り同然に江戸に送られ、妻に殿様の一時的な酔狂で死なれ、挙げ句に弟子と娘を自分の剣で殺してしまう。それでもなお、主君の名を尊ぶ心理は、先祖や家を考えての耐え難い我慢なのだろう。仮に怒りにまかせて主君に刃向かったとしたならば、自分は当然処刑されるとしても、家は取り潰され、一人残した幼児は転地の上平民か、最悪非人にまで貶められる事になる。それを考えての態度であり、また主君の方もわかってもてあそんでいる。

そして現代、このきちがいじみた封建社会は、特攻隊出撃の際の特攻兵と帝国海軍との関係性、また(当時の)現代社会における会社員と会社との関係性に置き換えて当てはめている。この構図・残酷さは確かに普遍的に通ずる感覚であり、今なお残る日本的価値観・封建社会的家重視の名残なのだろう。

めし ★★★☆☆

主婦として日々炊事・洗濯・掃除とルーティーンをこなす事に疲れたミチヨが、気晴らしに帰郷する話。

タイトル「めし」に込められた意図は、夫が妻に単語で命令する、「(おい)めし!」ではないかと思う。昔ドリフか何かのコントで、「めし!」「風呂!」「寝る!」の3つだけの夫婦生活を描いたものがあったように記憶しているが、本作もその状況における主婦の心と、まるで女中のような窮屈な暮らしぶりを描いている。

そんな日常をぶっこわしたのが、東京から急に家出してきた親戚の娘だった。彼女は典型的クラッシャー、自由奔放な行き方は、今のミチヨにとってその存在そのものが気に触る。夫との関係も微妙にこじれ、ついに彼女は日常からエスケープ、実家でのんびり暮らすことになる。

東京の実情や、昔の友人の苦労を見ることで、あの日常がいかに充実していたかを思い知らされて、またいつもの普通に戻る。ストーリーでは大した展開は起こらないし、まさに平凡・日常を淡々と綴るのに終始する作風は、逆に現代にはない落ち着きがあって興味深かった。

鬼畜 ★★★★☆

昔の女との間にできた三人の子供を押しつけられ、今の女と共謀し子供をなんとかしようとする男の話。

表現の規制(自粛・自主規制)が、表現そのものにとっていかに足かせ・ボトルネックとなるかが、本作を見るとよくわかる。演技とは言え三人の子供に対する仕打ち、いじめ、疎外感、家庭内暴力は、今の世情で製作するとなると、子供の人権が、だの、トラウマうんぬん、PTSD、などなど、「諸々の事情」でそれらしい雰囲気を演出するに止まるだろう。

しかし、本作におけるまさに鬼畜な二人の人物描写は、子供に対する非道な行いを通してしか見る側に対して伝わらないと思う。ストーリーはなんのことなく、ただ愛人に愛想尽かされて子供を押しつけられた男と今の女がその子供をどうにかするという、何の仕掛けも奇抜さもない、どストレートなものだ。ほとんど見た事はないが、よっぽど今の火サスのようなテレビ2時間サスペンスドラマの方が、ストーリーの起伏に富み、トリックもあり、面白味はあるかもしれない。ただそれが小手先の幼稚なものに感じられるほど、本作の鬼気迫る描写がもたらす本気度の高さは、たとえ現代の基準では人権蹂躙であろうと、あのむごい仕打ちを隠さず描く事で表現されている。女の苛立ちを描くのに口に飯をぶっ込む事は、どうしたって必要だ。

冒頭からして凄い。切羽詰まった女の表情、押しかけ対決する二人の女、そこに重なるしょぼい男、この20分程度の導入部分はよく目が詰まって凝縮されていて、三者三様かっこいい。小川眞由美という女優さんをあまり知らなかった(なんかどっかで見た事あるけど、何の人だったかな~程度)ので、見た後調べてわかった事だが、小川眞由美と岩下志麻はこれ以前に共演することが多かったらしく、それが本作における素晴らしい啖呵切りの、見事に呼吸のあった最強さに繋がっているのかもしれない。

現代でも家庭内暴力は時折ニュースとして見るので、こういう事は現実に起こっている。知らないガキが常に家にいて自分を苦しめるうっとうしさ、我が子を暗黙的に殺害したり、捨てたり、海に突き落とすために旅行する、この心理は、今の俺のリアルにはならず、時代性もありリアリティも薄かった。ただ、今まさに自分の問題として本作のような状況を抱えている人が見た場合、それはリアルにも重なり、また時代を超越した心理状況においてリアリティを持てるだろうから、不謹慎ではあるが、そういう人の感想を見てみたい気にもなった。つーかこの発想、ちょっと鬼畜だな。


ブレス ★★★☆☆

何度も自殺未遂を繰り返す死刑囚のもとへ面会に通う、家庭崩壊寸前の女の話。

キム・ギドクのファンタジーということで、主役二人は言葉をほとんど発さない。男に至っては一言もなかった。ただし通常(ギドク作品の)そうすることが独特のファンタジー世界演出ということだったが、本作の場合自殺しようとして咽に鋭利なものを突き刺したのが原因のため、物理的に話すことができない。

女は、心の離れた夫の代わりを求めて、死刑囚の男に会いに行ったのだろうか。発作的に始まった逢瀬、最初彼女は自分の鮮烈な記憶を話すことで、まず秘密を共有し言わば人工的に恋愛関係を構築していった。次の春・夏・秋それぞれの変な歌3連発は、夫との関係の中で記憶に残るシーンを模してある。

そこであの歌なんだが、恐らくだが(曲調から推測)韓国における、日本で言うところのポピュラーなアイドル歌謡(ex.木綿のハンカチーフとか瞳はダイアモンドとか)であって、歌と当時の記憶が結びつきやすい類の、ポピュラーソングだと思われる。それを唐突に、壁紙や小道具まで用意して歌ってしまうのは、良かった時代の記憶にすがりたい心境なのかもしれない。ベルが鳴って死刑囚の男がいなくなってからの、壁紙をベリベリ剥がす時の無表情は、過去の理想的非現実から、今の絶望的な現実へ戻される、コントラストから生じたものだ。

だから、最後の冬の歌を歌うのが家族関係を修復した親子三人になるのは、あまりに悲惨な印象が残る。結果から逆算すると、死刑囚の男は夫婦関係修復のための手段として用いられたということになり、さらに彼が一家殺人で死刑となったこと、家族三人が車内で歌っているのとは対照的に、雑居房の同居者から絞め殺されるという対比は酷に感じた。

というのは、彼がなぜ一家殺害をやってしまったのか、その理由がわからなければ、まず彼女を受け入れたこともそうだし、こうして無碍に殺されるに値するのかどうかも、見ている側は判断の材料がない。ここで、キム・ギドク的無声の弊害が出てしまう。保安課長が許可し、成り行きを静観したのもよくわからないし、いくつか謎が残ったままの終幕となった。

スパイナル・タップ ★★★★★

ロックバンド、スパイナル・タップの全米ツアーのドキュメンタリー。

ロックは、残念ながら、ダサい。この事をすぐに気付く人は少ないと思う。一見、ロックはかっこよく見える。なんかよくわからんけど、ギターを持ってギュイーングワユワーってやって、ピロピロ~~とかやって、・・・、・・・、・・・・ドコドコドコドコ、!!!!チャーチャーチャーチャーチャーン!!!ビービー!とか(各自脳内で変換)、一連の演奏がきまったら、かっこいい。

でも一寸よく考えて欲しい。その、先程までかっこよかったロッカーは、なぜ髪がもっさりと長いのだろうか。ソバージュをかけてるんだろうか。オカマなのか。ギターのヘッドを斜め上に上げて、苦悶の表情を浮かべているのか。☆のマークがいっぱい入ったラメのシャツを着ているのは。袖にすだれみたいのがついているのは。革ジャンにジーパンでラバーソールを履いているのは。なぜ演奏が終わったら半裸なのか。むしろなぜ最初から半裸なんだろうか。これでもわからなければ、「マイケル・アンジェロ/Michael Angelo」というキーワードで検索し、なんでもいいから動画を見て欲しい。・・・・・・。しばらく待とう。・・・・・。・・・・・。どうだろうか。

このように、本当に残念なのだが、ロックはダサいのである。一見して感じるかっこよさは、音楽の素晴らしさとそれに取り組む衝動との相乗効果で、ダサさが覆い隠されたに過ぎず、やはりよく見ると本源的なダサさはどうしても隠しきれない。スパイナル・タップとは、ロックのダサさを真正面から捉えた、全ロッカー(リスナー含む)推奨の、愛すべきロック映画だ。

ストーリーの中で、幾度となくロックの本質であるダサさが描かれるが、それはどれも、ある種の「あるある」に感じられるから、なんかもう、そういう俺がイヤだ。「11の方が10よりでかい」という事に意味を求めてはいけない。11は10よりでかいのである。問答無用。

音楽に限らず、ロック愛好家は人生の様々なシーンにおいてスパイナル状態に陥る。ロックに魅入られた人生は、これまた残念ながら苦節続きである。スマートに、予定通り、秩序立てて、論理的に、積み上げるのは不可能だ。いつもグダグダ、思い通りにいかず、急がば回れども遅れ、理屈が通じず、笑われのけ者にされて、道の端っこを歩くハメになる。ただ根っこの部分で一番やっかいなのが「当の本人がどこかでそれを望んでいる」つーのがもう、ホント、質悪い。ロックとはそういうものであり、そういうロックは、必然的にダサくなるのである。

これまでの映画感想を振り返る PART5 完結編 ☆★☆★☆

「見た映画については必ず感想を書く」という俺ルールについてのこれまでを振り返る話その5。

ついにPART5、本編最後である。なんせ「完結編」なんだから、なんらかの完結を迎えねばならない。それでは、と、それでる前に、見る映画の入手方法についてこれまで一切触れてこなかったので一応書いておこう。

・ソフトの入手方法

映画の場合、視聴環境は主に映画館または家になると思うが(あと飛行機の中とか携帯端末とか)、よっぽどすぐに見たい映画でない限り家で見ている。映画館は割合にして5%ぐらいか。映画館は集中度や没入感、音響の面で家を圧倒するが、なんせ他人様がいるもんでそっちが気になる事もあり、また家の場合つまんなく感じると、ギターの運指練習をしながら観たりできるが、映画館での拘束は最後まで観ると決めている以上、解消しようがない。

家視聴のうち半分がレンタルだ。まだブルーレイ環境がないためDVDがほとんどで、VHSしか在庫がない過去のドマイナー作品のみ、未だにVHSでも見る。逆に言うと、「VHSで残す価値(需要)がある」という事でもあるため、今VHSで在庫されているものは大抵の場合超個性的な作品が多い。後述するぽすれんの場合、1回10本前後借りて2,000円程度だ。PART4の評価ポイントデータは、俺個人についての統計データとしてかなり信用できるサンプル数に達している。それによると、厳選したところで45%の「ふつう・まあまあ・つまんない・クソ」があるのだから、映画館とレンタルの10倍近い料金差はかなりでかい。

後の半分はスカパーの映画チャンネルになる。こちらは月単位のパッケージとして配信されるものの中から気になるものを観るという、半受動である点がレンタルや映画館と異なる。ジャンルや年代も幅広く、意外と1-2年前の作品で見逃していたものがあったり、監督特集は数ヶ月にわたって10-20本まとめて観れたり、ハマればレンタルよりも便利だ。数年前のイマジカのキム・ギドク特集は、まさに見たいタイミングで特集を組んでくれたので、スカパーの良さを感じるプログラムだった。昔わざわざ新宿TSUTAYAまで借りに行ったATG作品やマイナー・ヨーロッパ映画も結構やってくれてあなどれない。反面1本も見ない月もある。

セルDVDについては視聴目的ではなく、レンタルで見た後特に印象的な作品や、数年後見直すとまた違った感じになるであろうものを、保存目的で購入することがほとんどだ。現在映画以外のソフトも含めると数十枚セルDVDを持っているようだが、パッケージ開封すらしていないものも結構ある。

・レンタル屋の変遷

レンタルの入手元は色々変わっていった。最初期の「記憶のみ」を観ていた頃は、その当時日本に進出していた「ブロックバスター」で、VHSビデオをレンタルしていた。料金は正確には覚えていないが、大体1本400円前後だったのではないかと思う。あるいは3本1,000円とか。やがてブロックバスターが日本撤退し、しばらくは大手でない個人営業のレンタルビデオ店を利用していた。その後2000年頃に、ゲオがレンタル全国展開を始めたような気がする。つーかWikiで調べると、まさにゲオがブロックバスターを買収して、レンタルのフランチャイズを拡大したのが2000年頃のようだ。そしてしばらくはゲオの5本1,000円を利用していた。一度に5本・10本借りるようになり、このくらいから映画鑑賞が習慣化する。またこの頃ようやく、VHSとDVDが半々ぐらいになった記憶がある。

TSUTAYAは何やってんだ。あるにはあったが、店舗が小さく在庫も料金もゲオに負けていた。その後2000年代中期に大型店が近くにできて在庫数でゲオに勝り、さらに定期的に出されるクーポンを利用すればゲオ並の5本1,000円も可能になって、ゲオからTSUTAYAに乗り換えた。そして最近までTSUTAYAだったのが、ここ1年は主にぽすれんを利用している。

ぽすれんは宅配レンタルサービスだ。ぽすれんのサイトから見たい映画を選んで、諸々の発送手続きをすると、なんか知らんがメール便で勝手に送られてくる。返却は郵便ポスト。現時点では最大12枚まで一度にレンタル可能で、旧作の100円レンタルの場合送料含めると、12本で1,500円となる。1本当たり125円。レンタルビデオが出始めの頃は1本1,000円が普通だったらしいが、今や1/8だ。100円レンタルはいわゆるロングテールの下側需要を狙って始められたサービスだと思うが、やってみるとかなり好調らしく、期間限定が延長に次ぐ延長で今に至っている。

ここで、店舗型と宅配型それぞれの特徴を挙げてみよう。

・店舗型

店舗型は閲覧性が高い。入店すると大体入口付近に最新作が並び、その近くに準新作のトップ30みたいなのがあり、旧作は50音順かカテゴリ別に配置してある。ピンポイントで見るものが決まっている場合は関係ないが、「とりあえずビデオ屋行ってから見たいのあるか探そう」という徒手空拳の場合には、この閲覧性の高さは重要である。

それぞれのカテゴリを横断的に見ていくと、昔見ようと思って見逃していたものや、タイトル一発に興味を引かれるもの、同一カテゴリで抜けていたもの(監督コーナーなど)を、網羅的に見る事が出来るため閲覧の効率は高い。宅配型の場合、網羅的に閲覧するにはPCをグリグリいじらねばならず、適していない。例えば同じ100本のタイトルだけザーっと見るにしても、店舗でDVDの背を見ていく方がはるかに情報量が多く時間効率も良いだろう。

・宅配型

宅配型は利便性が高い。店舗型の場合、まず店に出向き、店内を馬鹿みたいに徘徊して、通路の狭さに苦痛を感じ、最下段のアイテムを見るときはうんこ座りか己の体前屈能力との勝負、目的のタイトルがあっても正確な配置場所はわからず、レジでは並ばされ、一連のマニュアル対応に従い、そして、これが店舗型一番のデメリットだが、返却せねばならないのである。宅配型の場合、家のPCでゆっくり快適に探す事ができ、目的のタイトルはキーワード検索で特定でき、レンタルから数日後には家の郵便受けに入っていて、見終わったら郵便ポストに投函し、完了である。この点は店舗型はどうやっても勝ち目がない。

また料金的にも店舗型より安い傾向にある。これはネットショッピング全てに共通する事だが、地代と人件費を圧縮できるためその分レンタル料金を安くすることができる。ゲオとぽすれんがスポットレンタル100円を始めてから、店舗型との料金差は大きく広がった。地方によって、店舗のゲオとTSUTAYAが近くにあって熾烈な競争をしているような地域だと、場合によっては1本50円程度でレンタルできるようだが、店舗型の基本線は未だに1本400円である。

一方確実性という点では、ソフトを直接受け取り、レジまたは返却ポストに戻すという手続きを踏むため、店舗型に間違いはまず起こらない。宅配型は、メール便(現時点では佐川の飛脚メール便)と定形外郵便の併用で、どちらも手渡しでなくポストに投函で終了となるため、万一の間違い(メール便の遅配・ポスト荒らし・ビニールの破損による事故)が起きる可能性はある。俺自身こういう事は経験していないが、一度でも起きてしまうと、利用を控えるかもしれない。

この点VODは宅配型のメリットを残しつつ、返却不要というので理想的ではあるが、高速ブロードバンド環境や専用ソフト・ハードの普及、コンテンツ保護、コスト面など、問題は多そうである。アクトビラなどは面白い試みではあるので、今後の動向待ちだ。

・在庫

次に在庫についてだが、店舗の場合、当然各店舗にあるだけが実質的な在庫となるので、在庫数は店の売り場面積に依存する。メジャー系や新作は大体どの店舗にもあるので無視するとして、旧作、特にマイナーな作品は店舗によって大きく差がある。例えばTSUTAYAの場合だと、新宿・渋谷TSUTAYAにだけしかない作品はかなり多い。この二つは在庫の豊富さで有名であるから、むしろ例外的な店舗なのだが、映画をよく見る場合、大型店でないと在庫に満足できないだろう。

宅配の場合、システムは厳密にはわからないが、恐らくどこぞの配送センター(たぶん千葉)に集中して在庫され、在庫量はレンタルサイトとリアルタイムで連動している。ひとつに集中しているため、店舗格差は当然無く、メジャーも新作もマイナーも条件は同じだ。ただし、マイナーはそもそもの在庫量が少ないので、それを全国のレンタル希望者と争奪することになり、マイナーだが人気は高い(いわゆるカルト的)作品については、レンタル自体が困難である。

まとめると

  利点 欠点
店舗型(TSUTAYA・ゲオ) ・閲覧性の高さ
・思いがけない発見
・レンタル手続きが不便
・在庫が地域によりマチマチ
宅配型(ぽすれん・DMM) ・利便性の高さ
・料金が安い
・全国均一の在庫
・網羅的閲覧には不向き
・在庫数によってはレンタル自体がかなり困難な場合がある

となる。

なんじゃこれは。感想の感想を書くはずが、店舗型と宅配型レンタルの比較になっとるじゃないか。どうなっとるんだ!

天狗じゃ~~~~~~~!!天狗の仕業じゃ~~~~~~~!!!

これでいいか。