フリーダム・ライターズ ★★★★☆

複数の人種が混在し互いに対立状態のクラスを担当した新米女教師の話。

ハリウッド映画は大小なりとも”アメリカ”そのものを全世界に印象づける、コマーシャル的要素も含まれているだろうから、映画冒頭で描かれたまさに戦争状態の町はあまりに生々しく衝撃を受けた。制作年は前後するが、同じようにリアリティを意識したイーストウッドの「グラン・トリノ」でさえ、本作を観ると「ああ多少はソフトに描かれてるんだな」と思えてくる。本作で描かれたロングビーチの状況は、実話ベースであることや、描写の温度の親近感から考えても、かなり実際の状況に近いのではないかと思われる。正直な感想だが、冒頭を見てこれが日常ならアメリカには行きたくないと思った。

島国・単一民族の日本人が、日本でリアルに人種差別を感じるのは困難だ。これは他の差別、例えば障害者や能力の優劣・単なるいじめなどと置き換えるのは困難な種類の差別である。なんせその根底にあるのは、単純に言うと「顔の色や髪質が違うから」敵であり、「近いから」味方であるというものだからだ。理由は明確だが決して解消される事はなく、実際には無いのと同じだ。

アメリカは人種のるつぼ・多民族国家で、先住民族(ネイティヴ・アメリカン)を駆逐した白人(ホワイト)・奴隷の子孫である黒人(アフリカン)・南米から移って来たラテン系(ヒスパニック)・アジアからの移民であるアジア系(チャイナ・アジア)が混在している。この分類もかなり大雑把なもので、例えば同じホワイトでもアングロサクソン・ゲルマン/ケルト/スラヴ/ユダヤなどルーツによって別れるし、多人種混血もいる。この分類こそが言わばアメリカ建国以来の闘争の歴史であり、その歴史は今もなお、子供のけんか(と言うには死人が出たり規模が凄いが)にまで落とし込められているというわけだ。

だから映画を観ていくうちに段々と理解できたことは、本作が描いた子供達は不良のおちこぼれでは無いという点である。もちろんグレードの低いクラスの話なので、勉強は出来ない子ばかりだが、それも人種に由来する家庭環境の悪さで、単に適切な教育を受けていないから現状出来ないだけだ。外面は悪そうに見えても教育に対する好奇心は、初めてに近く学ぶことの面白さを知ったため旺盛であり、よって吸収も早い。なにしろ素直である。ここらへんが所謂「不良」とは違う。彼らは彼らのポジションを保つため、訳の分からない敵と、訳も分からず闘っているだけであり、「そうするのが正しい」と教育されたので否応なく闘わざるを得ないのである。

従って、本作からは「不良が更正して立派になりました」系の熱血青春映画のような薄っぺらい印象ではなく、もっと根深い、アメリカが抱える社会問題も含めた描写が根底にあるので、ドラマとして非常に重厚である。であるからこそ、通り一遍の恋人とのフィクション的描写パートが異様に軽く、ハッキリ言って邪魔で箸休めにもならない。いやもちろん実話ベースだから実際ミスGがあまりに教育熱心で夫が愛想を尽かして離婚したのかもしれないが、正直映画のメインテーマとはなんも関係がないし、この恋人との離別の件だけ本当に不要だった。

人種間の対立を解消させる手段として、ミスGはユダヤのホロコーストを生徒に教えることから始めた。そもそも「ホロコースト」という言葉を知っているのが白人の子一人だけというのも、あのシーンだけでも教育の重要性を痛感させられる。知らなければ何にも始まらない。知らなければ分からないし、理解もできない。これは本作のテーマと共通する。

今日本でも適切な教育を受けていない(ただし日本の場合人種的要因ではもちろんなく、単に本人の資質による部分が大きい)子供達の中に、WWIIはもちろん原爆が広島・長崎に落とされた事を知らない子もいるという。教育も、高度になればなるほど当然専門的になり、知識の前提は増えて、より狭小化していく。これはこれで必要だが、その前に「知ってて当然」をまさにその状態にする教育、この大切さを感じさせられた作品だった。

選挙 ★★★★☆

2005年、川崎市議会議員補欠選挙に公募の落下傘候補として”自民党公認”で出馬した、山内和彦さんの話。

2010年現在、山内さんは川崎市議会の議員名簿に載っていなかったので、恐らく映画内で言っていた2007年の改選までで、市議会議員としての務めを全うされたのだろう。映画を見終わって、果たしてこの人はまだ政治家をやっているのかどうか、そこが一番気になったのですぐに確認した。いや、ある意味貴重な体験が出来て良かったですね。本作は一切演出のない素のドキュメンタリーであるから、選挙運動中に垣間見える山内さんの性格から考えると、はっきり言って政治家には向いていなかった。

驚くべきなのは、政治家としての資質や適性が無い人でも、「自民党公認」が付くと当選できてしまうという事だ。これがどういう意味かは本作を見るとよくわかるが、選挙を戦うにあたっての物的・人的リソース、作戦の展開、その他必要な要素は、すべてあらかじめフォーマット化されていて、その通りにやると実際当選できてしまう。山内さん自身の活動自体はペラペラである。日本の選挙戦ではおなじみの選挙カー・街頭握手・老人への媚び売りを使って、「小泉自民党の公認候補、や・ま・う・ち、和彦です!」この言葉を呪文のように連呼する。こういう時に「よろしくお願いします」は日本的最強の言葉だ。

正直誰でもできるし、誰でもいいんだろう。山内さんの場合は東大卒というイチゴが乗っていたから尚更良い。政治家個人としてのマニフェストや、市議としてやりたい具体的な法律や行政への提案内容は、選挙そのものとは全く関係ない。カーネル・サンダースへの握手はギャグというか、自分に向けられたメタな皮肉に感じられた。

つまり山内さんは自民党公認としての御輿であって、本作でも何度も念を押されていたが、その組織力をフルに動員して当選させてもらったに過ぎない。当時絶大な人気を誇った小泉首相が応援演説に来ても、外様の彼は選挙カーの櫓の上で並び立つことすら許されないのである。これが、ずーっと感じていた違和感の理由だと思う。山内さん個人の活動を見るだけでは、どう考えても有権者約20,000人の得票と結びついたとは思えない。組織力恐るべしである。御輿が御輿を担ぐのはとても滑稽だったが、他にもラジオ体操やゆる~い下ネタを絡めた馬鹿話など、政治とは無関係の、違和感有りまくりの選挙戦こそが、結果的に得票に繋がるのは恐ろしい。だからこそ造反議員に対する厳しい言葉は、本作で選挙戦の実態を見ると納得できる。

そういう意味ではこれは民主主義の限界を示唆している。最初の方に出てきた、酒屋のおばさんが「水路の改修をして欲しい」という願い(市議会議員に訴えるものとしてこれほど適当なものはない)を反映させる手段としての一票と、「公認だから」の思考停止での一票が、同じであるのは民主主義の限界だ。意味ある10,000票が、思考停止の組織票20,000票に負けてしまうのだ。これは日本ムラ社会による民主主義の換骨奪胎だけではないと思う。アメリカでもNRAやAIPACのようなロビー団体が選挙に大きな影響力を誇示している。

本作の山内さんの場合はあくまで例外として、一般的な候補者は、自発的に立候補するぐらいだから政治を通じてやりたいことはいくつかあるだろう。それを実行できるようになるためには、まず「選挙で勝たなければならない」のである。政治と選挙がまったく別物である事が、民主主義の最大の問題点だろう。俺は選挙カーが使われる限り、日本の民主主義には参加しない事にしているのだが、騒音以外の何者でもない選挙カーも一連の「選挙セット」の一つであり、ずーっと変更がなされないのだ。

そもそも日本に民主主義はあっただろうか。戦前は納税額による制限選挙だったので、一般市民の民意が反映されていたとは言い難い。戦後はGHQの管理下以降、しばらく間を開けて例の自民党55年体制に突入し、バブル崩壊で経済がポシャるまで続いた。こうして見ると日本は長いこと政府と官僚主導の利益誘導型政治を行ってきたのだとわかる。バブル後の今は、変化の過程における混迷期と位置づけても良いかも知れない。

今の時点で根付いてないなら、いっそもう民主主義とか止めちまえばいいのではないかとさえ思えてくる。代替手段はわからないが、当面はその道を究めた学者さん連中の合議制とかにして、違った視点も必要という意味で異色の人材を少し入れて、民主主義は今の参議院のように、補完的役割でいいんじゃねえかと。今は学者のゴールは大学教授だろうが、そのまた上にゴールを設けることで、結果的に教授のポストも空いて研究者の活性化にも繋がる。

優れた政治家もたくさんいる事はもちろんわかっている。一方で民主主義だからこそ成立している無意味な政治家も大勢いる。選挙の都度扇動家やメディアに乗せられて世論を形成するバカな連中が選んだ人間が、バカの代表であるのは至極当然である。今の日本における政治の迷走も、その一番の原因はなんであろう、その都度メディアに乗せられて現体制を批判している民衆(=民主主義)そのものなのだから。

アメリカン・ハードコア ★★★☆☆

1980年代初期、アメリカ各地でわき起こったハードコア・ムーブメントについての話。

最近再燃してきたパンク・ハードコア熱の流れで見始めたパンク系映画。前見た「PUNKS NOT DEAD」はパンク全般についての、比較的長い時代を薄めて扱っていたが、本作は80年代アメリカハードコアシーンに絞られている。FUGAZI・Youth Of Today・Discharge・Chaos UK・CRASSなど、ハードコア全体で見ると重要なバンドについても、時代や地域が違うため少しも言及していない。つまり本作は、あの時代の熱さというか、時代がもたらした衝動を描く事がメインテーマとなっている。

冒頭5分で紹介される時代背景は、アメリカン・ハードコアの精神面をよく表している。レーガン政権下のネオリベ政策は、ハードコアを志向するようなマイノリティ側の人間にとって抑圧的だったのだろう。横分け、カーディガン、ファッションショー、紹介されるアイテムがことごとく「彼ら」を象徴していて、まあなんつうか、宗教的ではあるが素直に共感してしまう。キース・モリスが語ったように「勉強して良い大学入って良い会社入って良い給料貰って、結婚して二人の子供・郊外の住宅・ペット・車に車庫・・・・、人生そんなもんじゃねえんだよ(that’s not just the way it is.)」とはもうまさに、ハードコアの神髄を表しているし、誰にも分かる表現だ。

中心となるのは、この手のドキュメンタリー映画には珍しくLIVE映像である。インタビューらしいインタビューも特になく、かつての80sハードコアバンドのメンバーが、場面ごとにちょっとずつ当時のことを(思い出話のように)話すだけで、映画作品として流れを作るような意図はない。そういう意味では本作も「PUNKS NOT DEAD」と同じように、映画としてはあまり優れた出来ではないし、また興味がない人が見るようには作られていない。各バンドの説明も一切無し。見ていくと、Black FlagとBad Brainsがシーンで重要な存在だった事はわかるが、その他はthe othersとしてまとめて、LIVE映像中心に扱われる。

これは意図的にそうしたと見るべきか、映画を作るうちにそうした方が良いと感じたのか、作者の真意はわからない。が、結果的にかなりの数の、よほどのマニアでなければ名前も聞いたことも無いようなバンドを知り、また彼らが一番熱かった頃のLIVE映像を見ることで、その中のどれかに興味を持つ人がいるかもしれない。俺の場合半分ぐらいはバンド名を聞いたことがあって、大半のLIVE映像は初めて見たが、見ていくうちにやっぱ心躍るというか、かつて自分にもあった・また未だに存在するハードコア/パンク魂が燃えるように感じられた。

音楽的にどれも似ているのは否めない。それぞれに個性があるとも、正直思えない。単純にパワーコードを3つぐらいかき鳴らすだけなので曲の面白味も薄い。一応プレイヤーとしては、この早さでコードを次々かき鳴らすのは意外に大変である(疲れる)。それをやれるのもあの時代、また10代を中心としたエネルギッシュなプレイあってこそだろう。

意外だったのがMinor Threatの扱いだ。後追いで知った限りでは、当時やりたい放題に暴れていたシーンに、「ストレート・エッジ」という禁欲的なDIY精神を導入し、「ハードコア」の概念そのものを確固たるものにした、先に挙げたBlack FlagやBad Brainsと同等、またはハードコアを象徴するバンドかと思いきや、本作ではthe othersの一つとして扱われるにすぎなかった。確かに、Minor Threatは後乗り組であり、言わばコロンブス的な存在であるBlack FlagやBad Brainsはパイオニアとしての存在感があるので、当時はその程度だったのかもしれない。マッケイ本人も「もっと評価されていい。音楽的にもチャレンジしている。」と語っていたが、やはりthe othersとして扱うにはあまりにもったいない。

あとあれだ、1シーンだけだったが、なぜかガンズのダフ・ローズ・マッケイガンがインタビューに登場した。他の連中はなんか薄汚れていて、だらしない感じだったが(=ハードコア的正装)、ダフだけはびっちり格好良く決めていて、明らかに他とは違うオーラが出ていた。これもマイナーとメジャーの違いか。

映画では「音楽的単調さもあり、3年程度で飽きられ、その後は皮肉にも正反対である商業ロック、ハードロックやヘヴィメタルに侵食された」という流れで終幕したが、やっぱどう考えてもそんなことはなく、ハードコアの萌芽はその後に受け継がれ、FUGAZIに代表されるポスト・ハードコアだけではなく、Sonic YouthやNIRVANAなどのグランジ・オルタナシーンに至る流れにも影響は大きい。やっぱ映画的にはあんまりいい作品ではない。ハードコアの息吹を感じたい、色んなハードコアバンドのLIVE映像を見たい人におすすめだ。

最後にアメリカン・ハードコアバンドをいくつか

Black Flag – Rise Above

Bad Brains – Pay To Cum

Minor Threat – Straight Edge

Minutemen – Corona

2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ 終了

スペイン優勝

ぼーっと見て良かった。結果的にワールドカップを楽しめたのだからこの見方は正解だった。どんなに素晴らしい能力を有したプレイヤーであっても、1ヶ月かそこらで作られた即席チーム同士の試合では本来の実力は発揮されない。サッカーはチームスポーツであり、チームとして機能して初めて、個の能力が発揮される余地が生まれる。数々のスタープレイヤーが窮して単騎で突撃して散る様を何度見たか。数年かけて熟成された100点満点近いチームにおいて、メッシやロナウドのような100点前後のプレイヤーは機能する。80点の代表チームでは、チームそのものがボトルネックとなってしまう。

だがそれこそがワールドカップ・代表チームの見方だと、今回のぼーっと見たワールドカップを通して感じるようになっていった。100点満点同士のタイトさとはまた違った、80点同士のブレや遊び幅が、サッカー的な番狂わせを生み出す。もちろんそこに魅力が生じるようになったら元も子もなく、あまり望ましくない状況だが、短期集中トーナメントではまた一つの魅力のように感じられたのが正直なところだ。

そんな中でチームとして機能し、その上で個の能力が発揮されたスペイン・ドイツ・ウルグアイあたりが最後まで残ったのは順当な結果だと言える。スペインはアラゴネスがEUROで作り上げたチームをデルボスケが引き継ぎ、またカプデビラ・トーレスを除く先発固定メンバーがバルサとレアル。ドイツは前回のクリンスマンのチームの実質的コーチであったヨアヒム・ルーフがそのまま4年かけてチームを熟成させていた。ウルグアイは南米という事情柄、元々守備(=組織力)の実力は高く、今回たまたまそれにフォルラン・スアレス・カバーニのような優れたフォワードがいただけだ。

逆にフランスは個が大勢いてもチームとして機能できなかったし、イタリアには個がいなかった。アフリカは、地元の利を自らブブゼラの騒音でフラットにした。あの楽器はまさしく騒音で、果たして応援したいのかブーイングなのかわかりずらい。まあJリーグ初期に「オーレーオレオレオレー」つってラッパ吹いてた日本人に言われたくないだろうが。

また希有な個はいないが、チームとして機能したスロバキア・日本・韓国・アメリカ・チリ・パラグアイが大会の帰趨を大きく左右した。グループリーグ、スロバキア・アメリカは劇的な方法によって、また日本・韓国・チリ・パラグアイはチーム力の結実としてそれぞれRound16に進出した。中でもスロバキア – イタリアは、イタリアの凋落ぶりを見事に示した、しょっぱい試合だらけのグループリーグの中でもワールドカップらしいブレ幅の大きい白熱した試合だった。

これは決勝仕様の”ジョブラニ

しょっぱい原因は何か。ジャブラニ。確かに本田やフォルランが蹴った、野球のナックルボールのようなフリーキックを生み出し、流れの中のシュートでもキーパーの逆を付いたりして(日本的にはオランダ戦の決勝点)、そういう意味では当初の狙いも一部達成されている。だがほとんどのシーンではボールの扱いづらさに多くのプレイヤーが難儀し、見る側にとっても可能性ゼロのシュート・クロス・フリーキックが目立って興が削がれ、結果的にはボールの”改良”が裏目に出てしまった。

急造スタジアム。今大会がおそらく全試合HD画質で放送された初の大会だと思うが、SDと大きく違うのは選手の顔がよく見えるではなく、芝目が結構よく見えることだ。会場名を把握して試合を見なかったのでどこがどれほどとは言えないが、とにかくグラウンドは全体的にボコボコ、試合後は穴ぼこだらけというのが印象に残った。

負けない意識。優勝候補チームのプレイヤーが、リーグ戦の疲労を残したままワールドカップに突入したため、「グループリーグを利用しながら調子を上げていく」というイタリア伝統みたいな方法を採らざるをえず、それでも勝ち点は積み上げねばならないので「先制点を奪われないこと」を最優先していた。それが結果的に調子の上がらなかったチーム、そもそも実力がなかったチームを生み出し、各試合かなりばらつきが生じた。優勝したスペインも初戦スイスに負けている。それも攻めて攻めて点が取れず、スイスの一つのカウンターで敗れるという典型的な方法で。地上波では放送されなかったようだが、全64試合の中でも、負けない意識の薄い三決・ドイツ – ウルグアイが試合としては一番面白かったという皮肉。勝つ意識を持てれば攻撃的な試合をできるチームなのに、負けない意識が作用してしょっぱくなってしまった。

決勝トーナメントに入ってからは、調子も上がり面白い試合が多かった。全て好ゲーム。それぞれに、サッカーがもつ様々な魅力を感じられた。中でもオランダ – ブラジルは、リスク管理や試合マネジメントという側面において、何度見ても面白いと思う。最高の出来だった前半のブラジルが、ハーフタイムでオランダをなめて、対するオランダは決死の覚悟をもって後半突入、アクシデンタルな失点~うやむやの決勝点~メロの退場、つまらないブラジルを選んだドゥンガの哲学が崩壊する瞬間。その顔。ダサいファッション。よく言う「流れ」の重要性や、結局サッカーはメンタルスポーツであることが、実証された試合だった。

そうしてサッカー的な勝利で決勝まで進んだオランダと、優勝候補が順当に調子を上げて、今大会ベストチームのドイツすらも退けて進んだスペインのファイナルでは、パススピードとトラップの正確さで両チームのレベルの高さはよくわかった。結果スペインが優勝したが、この試合もオランダのゲームマネジメントが展開を左右した。

個々のタレントを見ると、攻撃側ではオランダもスペインも、方法は違うが遜色ない。対して守備(組織)側では明らかにスペインに分がある。バルサの2センターと世界最高のGKカシージャス。中盤はバルサのトリデンテにXアロンソの展開力。対してオランダはどっかの馬の骨的センターとGK、中盤は世界最高のスナイデルに壊し屋二人。五分の勝負をしては勝ち目がないと判断したオランダが、ラフプレイを連発して試合を壊した。いつものパス回しが悪質なファウルで潰されリズムが生まれないスペインに対し、オランダの速攻は効果的だった。

だが結果的には、この作戦がオランダに不利に作用したかもしれない。それも含めての賭けだったかもしれないが。イエローカードの判定はほぼ順当に感じた。オランダは主審とも駆け引きをしていた。中には一発レッドでおかしくないファウルが、ワールドカップファイナルという性質上、イエローに止まったものもある。90分終了時のカード数はオランダ6・スペイン3。延長では合計5枚出た。その中で延長後半にハイティンガが累積退場。ファイナルの主審を務めたのはハワード・ウェブのイングランドセット。4thに日本の西村さん。プレミアリーグを見る人はよく知っているが、ハワード・ウェブははっきり言ってザルだ。終了間際の重要な場面で、ザルっぷりを存分に発揮した。だが大会を通じてよくわかるように、それもサッカーである。

ランパード幻のゴール

テベスのオフサイド

審判の誤審問題も色々出たなあそういえば。ランパードのシュートやテベスのオフサイドで大騒ぎしたのもなんか懐かしい。いやそういう問題じゃない。ランパードの幻のゴールについては後日談というか、過去の因縁話があったりして、本当に面白い。1966イングランド大会ファイナルでの疑惑のゴールが、44年後に解消されるとは、なんてドラマチックなんだ。そういう文脈で理解もできるが、これまたそういう問題じゃない。

判定に機械を導入するかの是非は昔からあって、FIFAもアンダーの大会でボールにチップを埋めたりゴールラインに専用の審判を配置したりして実験した結果、「現時点では必要なし」と判断している。詳しい経緯は知らないが、個人的にはサッカーのオリジナルから考えて、必要であれば機械の導入も審判増加も積極的に行うべきだと思う。つまり本来サッカーに審判はいなかった。オフサイドもなかった。選手交代も出来ず、骨折したままプレイした人もいたらしい。またむしろ審判がいない方が、互いに気をつけていたのでファウルも少なかったという話もある。

ルールの整備を行ううちに、これら追加ルールが設けられたわけで、であれば金科玉条ではなく不都合であれば柔軟に変更するべきだ。前述した二例の場合、ランパードのゴール見逃しについては、ゴールラインという定点観測なので、むしろ機械で厳密にやった方が絶対に良い。具体的にはゴールラインを完全に割った時点で主審に信号が届くとか。なんならGPSでミクロ単位でゴールラインを捕捉してもいいだろう。ただテベスのオフサイドは現状機械では難しい気がする。今のルールでは「ボールに積極的に関与したかどうか」がオフサイドの判定基準なので、その曖昧さを機械で判断するのは困難だし、ゴールラインとは違ってオフサイドラインは絶えず上下動するため捕捉が難しい。

まあー、、、ざっとこんな感じかな。最初に書いたが全然期待してなかったのもあってか、終わってみればかなり面白い大会だった。この感じは試合のクオリティだけでなく、その周辺も併せてのものだと思う。以下気になった点を挙げてみよう。

・今大会のスカパー
富樫洋一さんに捧げる番組

スカパーで見るのは2002年から3回目だが、それぞれに(地上波と比べると金銭的しょぼさは感じられるが)周辺の内容が充実していた。2002年のジャーナル、2006年のデータスタジオ、そして2010年のジャンルカなうと、誰もが楽しめるサッカー番組を提供してくれた。

長くなりそうなので以下列挙 =特にインプレッシブ

マラドーナ
初戦の勝利後会見でりんご喰ってたマラドーナ

-ゲイではありませんよ。ベロニカです。金髪です。
-マンクーソ・エンリケとのトリオ
-十字7回
-サムエルにウザがられる
-どう見ても酔っぱらい

オシムじいちゃん
日本敗退決定直後のオシムじいちゃん。スーツとネクタイは日本仕様

-・・・Fu
-エゴイストがいる
-私も戦っていましたよ。世界が終わったわけではありません。
-バルカンシンドローム
-オシムTwitter
ハニュウか?
-オスシ
-野々村の切り込み

・Ke-Nako-
・ブブゼラうるさい
・ジャブラニクソすぎ
・ワールドカップ史上最悪の誤審 → 1966年ハーストの因縁
・パッカくん
・桃色ハピニャス
素人目線っちゃあ素人目線
・amie VS ミック・ジャガー
・タコのパウルくん
・子供店長とかいう糞餓鬼
・エグザイルの歌覚えたくない
・アンビシャス覚えたくない
・見せてくれ内田 ←見れない
・アクエリアスの一人勝ち
・HDのダンディ
・サムエルのブロック
・チョンテセ号泣
・本田ドヤ顔
・ドメネク死亡
・イタリア死亡
・バティ盗難
・オリベイラのガン見
・青いセーター
・娘のコーディネイト
ドイツの変化
・ハムシクだけパンク
・ドノヴァンかっこよすぎ

マンUにいた頃がなつかしいフォルラン
・邪悪なお兄さんフォルラン
・フォルランの漢気
大会前に注目していた平畠はさすが。乗っかり芸能人とは違う。
スアレスのレシーブ
・ギャンのPK
・ギャンとザクミ
・ごっつぁんパレルモ
・テリー鮪
・ロッベンがさらにじいちゃんになっている
・アメリカ国歌斉唱の肩組み
・グリーンやっちゃった
・松井もっと良いチームに移籍して欲しい
・日本についてはきちんとトレースしていた連中が分析・評価するだろう
・マイコンみたいなサイドバックがいると超楽
メッシ/ルーニー/トーレス がノーゴール

最後に俺的大会ベストメンバー

フォーメーション:4-3-3
          FWフォルラン
          (ギャン・アルティドール

 FWビジャ             FWロッベン(ミュラー・イニエスタ)
                            

 
MFエジルドノヴァン        MFスナイデル(チャビ)
      
MFシュバインシュタイガー((Xアロンソ)
             
 
DFフシレ(ラーム)                DFマイコン(ラーム)
         DFプジョル  DFルシオ
                    ←←←テリー
        
GKカシージャス(ノイアー)
        スアレス
監督:マラドーナ

フォーメーションは今大会を象徴する4-3-3。このシステムは近年バルセロナやインテルで採用されたトレンドが、代表にも反映されている。伝統的なオランダ型4-3-3との一番の違いは両ワイド。典型的ウインガーではなく、中に切り込んでシュートを撃つフォワードやセカンドトップが配置される。

中盤の3人は流動的で、高い運動量と確かな技術を求められる、このフォーメーションでは一番難しいポジションだ。3人とも10番と5番の役割を兼務し、前の3人とも連動して攻撃する。最近では試合後にどれくらいの距離を走ったかのデータが出るが、大抵この3人が12km前後走っている。

守備の4人は役割としては4-4-2と同じだが、ここも中盤と連動するのでラインは高くなりがちだ。よってセンターの2人は足が速い。

ゴールキーパーも守備ラインと連動するので、捕球だけでなく足元が上手くないと使えない。ボールが軽量化したおかげで、キーパーからのロングキックやロングスローが重要な攻撃の起点となっている。

各プレイヤーそれぞれについても触れたいが長くなるのでこれで終わり。


現時点での結論:
ワールドカップは始まってから急に見るととても面白い


今更Amazonアソシエイト

トップページを見ると字しかないので、画像によるコントラストを得ようと、ほんと今更&安直だがAmazonアソシエイトに登録した。ハッスルサーバーの禁止事項では「Amazon,楽天などの大量の商品を検索、表示、リンクさせるサイト 」となっているので特に問題はない・・・と思う。

映画の場合、紹介タイトルのパッケージだけでなく、本文中の固有名詞や元ネタについてのリンクとしても使っている。これを見つけて貼るのが案外楽しい。ただ過去のが300近くあるためそれ全部に手作業でやるのは現実的でなく、支援ツールをいくつか探したが、表示に関するものが多かった。表示については評価☆を表示できたり、ヴィジュアル的に優れているものも多いが、結局凝りすぎて破綻する可能性が高いので、このまま公式のを使う。今後の更新で過去のも少しずつやっていこうと思っている。

2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ

サッカートピックを最後に更新したのは2006年7月、2006ドイツワールドカップの決勝の頃だった。それから4年、毎年8月~翌5月までのヨーロッパリーグ観戦と、早春~秋にかけての自転車3大レース+ワンデーレース観戦は、すでに日常となっていて、なんら特別な事ではなくなっている。アーセナルは今年も無冠で終了。この4年は補強で失敗してきたわけだが、ヴェンゲルが長年言い続けてきたように、ソング・ディアビ・デニウソンがようやく使い物になって、これでセスクをキープできて、ラムジーも復活して、シャマクやらハイクラスのキーパーやらバックアップの充実ができれば、来年こそ・・・いけるかもしれない。

逆に、その間断続的に行われるインターナショナルマッチに関しては、イレギュラーな、非日常的なものとして興味が薄らいでいる。これは日本代表に限らず、代表戦そのものに興味がなくなった。むしろ、リーグ戦の日程を乱したり、マッチデーの週は強制的に国内リーグ戦が休止となるため、邪魔ですらある。また過密日程による個々の選手への負担→怪我、そして代表戦での怪我(今シーズンのファン・ペルシ)など、実際クラブや国内リーグにも余計な負担を与えている。今大会もすでにロッベン・リオ・ドログバ・ナニなど活躍が期待されるスタープレイヤーが怪我で離脱している。ワールドカップは主要選手がリーグ戦で消耗した後に行われるのである。

ワールドカップは4年ごとだが、その間に、例えばヨーロッパでは欧州選手権(EURO)、アジアではアジアカップがあって、ワールドカップと同じように予選リーグ、本戦リーグ、決勝を行う。よって実質的にインターナショナルカップは2年周期だ。予選に使えるのは恐らく15ヶ月ぐらいか。ヨーロッパ(UEFA)の場合、この15ヶ月でどのように予選リーグを行っているだろうか。

現在UEFA加盟のFA(サッカー協会)は53。加盟国ではない。ワールドカップはFIFA主催の大会なので、国ごとではなくFAごとに出場資格がある。例えばフェロー諸島はデンマーク領だが、フェロー諸島FA(これもFIFA?)はUEFAのリージョンで予選リーグに参加し、毎回いいカモになっている(ただまれに波乱あり)。またフットボール発祥国のイギリスでは、FIFA設立前に既に存在していた英国四協会にそれぞれ出場資格がある。逆にIOC主催のオリンピックではこれが仇となり、「イギリス代表」を結成できず、もう長い間発祥国が出場していない。

そして今回の予選では、53を6×8+5×1の9リーグに分けて予選を行ったようだ。6チームのリーグ戦の場合、ホーム&アウェイで1チームあたり10試合行う。こう見ると意外に少なく感じるが、10試合を通常の国内リーグ戦に換算すると、実に2ヶ月~2ヶ月半の試合に相当する。この分日程が詰まるので、週2試合だとか、中2~3日で試合が続くとか、負担の多くは選手や所属クラブにむけられる。これだけではなくて、予選に付随する国際親善試合を入れると、恐らく14~16ぐらいにはなる。

この負担を減らす方法がないわけではない。ワールドカップの場合、UEFAに与えられた本戦出場枠は13。現状これを、9リーグの1位チームと、2位チームの中から勝ち点の多い順に8チームがプレーオフ、勝った4チームとを組み合わせて、9+4で13チームを選んでいる。リーグ2位チームへの救済措置もあるというわけだ。減らす方法とは、この救済を無くし、すべて予選リーグ1位通過のチームを本戦出場チームとすることである。

53/13=4.07、つまり4×12+5×1の13リーグに分けて予選を行えばよい。4チームのリーグ戦の場合、ホーム&アウェイで1チーム当たり6試合行う。これでもまだ多いが、4試合=1ヶ月分の試合が減るのなら良いだろう。リーグ戦も4チームならば成立する。

予選リーグの組み合わせによっては本戦優勝も狙えるようなチームが2チーム・3チームとか重なる可能性もあるが、それはそれで「予選から死のリーグ」の面白さもある。逆にミラクルでフェロー諸島が本戦に出場できる可能性も今よりは高まって、そういう意味での面白さもある。実際今大会でもロシアやスウェーデンのような、個々人を見ると世界トップレベルの選手がいるのに本戦に出場出来ない場合もあるわけだから、なんら問題はないと思う。

問題あるとしたらやっぱ経済面か。何度も何度も例示して悪いが、フェロー諸島にとってインターナショナルマッチの経済効果は意外と大きいかもしれない。イングランドFAカップは伝統的にFA所属であればアマチュアクラブさえも出場可能な大会で、ちょっとの運があればマンチェスター・ユナイテッドと8万近い収容のオールド・トラッフォードで試合ができる。FAカップの収益は基本対戦クラブ同士の折半だから、アマチュアクラブにしたらこの1試合で向こう何年分の収益が得られる場合もある。それで設備を改善したり、良い選手を買って上のカテゴリに昇格できるかもしれない。つまりFAカップはカップ戦だけでなく、裾野の拡充にも寄与しているわけだ。ワールドカップやリージョナルカップは規模も相当大きくなって、経済効果も大きいため、こういう側面もないわけではないだろう。

結局治安の問題は解消されずに南アフリカワールドカップが開幕する。日本からの観戦ツアーも定員に達していないケースも多いらしく、また日本代表も初出場の時から比べても、一番状態が悪いかもしれない。なんか、オリンピックに近い感覚がある。特に応援したいチームも、そのバックボーンをまったくトレースしなかったから無いし、今更ミーハー的に見ることも不可能だし、こうなりゃ一周してボーッと見てやろうかと思っている。

お早よう ★★★★★

テレビがあこがれの存在だった時代、近所付き合いの話。

見ている途中で、平凡な日常を描く内容と映画制作レベルの高さとのギャップに戦慄を覚えた。比喩表現ではなく、本当に恐ろしくなった。恐ろしい、いや、そういう感情ではない・・・・。なんというか、うまく表現できないかもしれないが、とにかくこの感情を具体的に説明してみる。

まず最初に書いたように、本作の舞台は、ある時代(昭和30年代ぐらいか)の平凡な一社会である。そこには世間が当たり前に存在し、その成員も世間の掟に無条件に従っていた時代である。今のように、核家族化・親の過保護とかモンペア・マイルールとか、掟をぶっつぶす価値観を世間が大ナタでぶった切っていた時代だ。今見ると昔懐かしかったり、在りし日の良き日本であるとか感じたりするが、制作された時代においては、極普通の生活を描いたに過ぎない。

その極普通が、なんつーか、表現するのが難しいんだが、極端に?極普通なのである。”普通””平凡”であることに完璧さを求めている。今ざっと部屋を見渡すと、俺の生活に必要なものがいくつも目に入る。それらは全て(記憶忘れもあるが)何時かの理由があって其処に在る。連続している。生活はアナログだ。本作で描かれた、画面に映される登場人物の生活の証は、証としてシンボリックに意味をなし、それ自体は生活ではない。この極普通はデジタルなものだ。冒頭、集合住宅の間から、右→左に何人か人が出てくる。あのタイミング・手前から奥に向かう画面構成・光のコントラスト、すべて瞬間であり、1である。そこから生じるデジアナの齟齬に、違和感というか、恐怖感のようなものを感じたのかも知れない。これでも上手く説明できてねえなあ。

で俺は、終始この完成された、完璧な普通の生活を見せられて、心は阿鼻叫喚、画面に提供される圧倒的情報量の処理にもがき、打ちのめされてしまった。林家の住人や、そのご近所みんなが宇宙人やロボットのように感じられ、むしろあの14型ナショナル謹製テレビにホッとさせられたのである。押し売りが持ってきた鉛筆は、なんか違う鉛筆かもしれない。芯が硬いとか言ってたし、トンボ鉛筆ではないし、サイボーグの鉛筆かもしれない。楢山行き決定の産婆の婆さんはエイリアンかもしれない。いや、それぐらい恐ろしかった。そんな中、「ナショナル」と書かれたテレビ、厳密に言うとテレビの箱は、俺が持っている膨大な直線のどれかと、ある所で交わってくれる。この安堵感は本作にして得難い休憩ポイントだった。

このように見方によっては、「シャイニング」とか「ファーゴ」の要素も含まれた得体の知れない恐怖感を感じてしまうが、単純に一本の映画としてみても相当面白いし、また恐い恐いと書いたが笑ってしまうシーンも多かった。笑いについては、漫☆画太郎の世界観に似ている。

タイトル「お早よう」に込められた意図と、日本的世間の交わりが本作のテーマだが、現代においてずいぶん解体された世間と、まだずいぶん残っている世間の残滓との乖離やギャップに悩むマイノリティの人間として、興味深いテーマであった。「余計なものがなくなったら、味も素っ気も無くなっちまう」「無駄があるから良いんじゃないかな」と語る兄ちゃんが、天気の話をするラストは、普遍的に通じる人間にとっての大切さを示唆している。

しんぼる ★☆☆☆☆

ちんこ型のスイッチがいっぱいある部屋に閉じ込められた男と、メキシコ・ルチャレスラーの話。

松本人志監督二作目。処女作「大日本人」は笑いの方法やコント仕立てのラストに賛否両論巻き起こり(どちらかと言えば否が多い)、作品の評価は人それぞれだが「無難でなかった」という点において良い作品だった。俺個人はその当時の感想に書いたとおり、笑いの部分は基本に忠実、それより映画作品としてよく出来ていると感じたので二作目もあると確信し、評価としてはニュートラルな★3にした。二作目である本作は、それを受けての評価となる。鑑賞は前回の教訓を生かし、DVDリリースまで情報封鎖。

「しんぼる」はダブルミーニングで、一つは「男のしんぼる」=ちんこ、もう一つは「人類のしんぼる」=神、である。閉じ込められた男は言わば神に成り得る、成りかけの男であり、ちんこスイッチのある密室から、試行錯誤して脱出しようと試みることで、神様修業をしているのだろう。

ケツから出る出前一丁のように、ちんこスイッチを押す=何かが出てくる、という構図は、何かの誕生・組成を意味している。ここからは推測だが、ある日、主にキリスト教系のモチーフとして見られる天使に、ちんこがついている事を発見した。「天使て男なんかい」と軽くつっこんで、そこからちんこスイッチの着想を得たのかも知れない。

一方、ストーリー上長いこと謎の存在だったルチャレスラー及びその家族は、神成りかけ男の成長によって終盤にようやく結びつく。言わば男の成長過程は、ルチャレスラーの「首伸び」に至るフリであり、あの瞬間、新たな神としての可能性が芽生えたことを意味している。神の些細な好奇心で、人間の首だって伸びるし、火も噴くし、犬とも会話できるのだと。

そうして神は新たなステージへと上り始めた。ちんこスイッチをつかみながらロッククライミングのように上っていく過程では、様々な生命の誕生・人類の営みが描写され、ここで本作の主題が明確に伝えられる。やがて上り詰め未来へと向かう神には、また別のちんこスイッチが眼前にあり、彼はやはり押そうとする=未来を切り開く、のだった。

以上のように、本作は一言で言えば神誕生を描いた作品である。そのような観念的な世界を描くのに対して、その描写が全体的に大雑把というか、底が浅い。例えば前述した神が未来へと向かうシーンでは、過去の映像を切り貼りして、その中を神成りかけ男が通過していくのだが、なぜああいう明快にわかりやすい、誰でも思いつくような方法を採ったのだろうか。ラストシーンもそうだ。わかりやすい程の未来、それに対する行動、全て想像の範囲内だった。

これは松本本人の世界の浅さ・狭さゆえであるように感じる。過去の実績からして、彼は間違いなく笑いに関して独特な観点を持った、感性で勝負して勝ってきた人だ。本作のように神を描くのであれば感性だけでこなすのは難しいだろう。森羅万象あらゆるものへの興味・知識、自己がこれまで培った思想・死生観、様々な要素が自分の引き出しに入っていて、ようやくなんとかなるレベルだ。松本に果たしてそういう部分の蓄積があったのかどうか。ダウンタウンの番組で見る程度でしかないが、実際彼は言葉やモノをあまり知らない。誤用も多いし、それを指摘され恥ずかしがるシーンも結構ある。同じお笑い芸人でも、例えばタモリやビートたけしに感じる知性は、残念ながら松本には無い。つーかそもそも求めていないし、いまさら獲得する必要もない。ただ本作のように、複合的要素が絡み合う作品では、それが無いのは大きなマイナスとなっていた。

だからこそ、松本は狭い世界で勝負するべきである。要するに、またそれかという話にはなるが、「システムキッチン」の世界を突き詰めれば良いのである。良いというか、より一層の高みに至るにはそれしかない。狭い世界を、とことんまで突き詰め、一般に媚びず、もちろん(本作のように)外人に媚びず、「日本の笑いの機微が世界一」という自負を持って、狭い世界を追求して欲しい。


東京物語 ★★★★★

広島・尾道から東京にいる子供らを訪ねた老夫婦の話。

今回小津初体験ということで、代表作の本作を選んだ。もともと小津についてはヴェンダースから逆戻りして知ったということもあり、自分の大好きな監督が尊敬する監督、それも代表作ということで敬意を込めて、見る前から★5は決定済みだ。

敬意はさておき、率直な感想としてはとても素晴らしい映画だった。映画の世界に小津ブランドが確立されているのもよくわかる。映画監督が、これほど映画そのものを支配できる様は中々見ることができない。たぶん日本一世界で有名な黒澤明作品でさえ、監督の力だけでなく、志村喬や三船敏郎、あるいは仲代達矢あたりが強烈な個性を発揮しないと、推進力は損なわれただろう。しかし小津作品では、主役の笠智衆や当代のトップアイドル原節子ですらも、色は消され、小津色にすっかり染められている。

だから小津作品にとって、俳優は恐らく映画を構成する一つの要素、コマでしかなく、たぶん、たぶんだが、監督の指図通りにやってくれたなら、誰でもいいんだと思う。それを物語るように、登場人物のセリフは棒読み気味で機械的であり、そこに俳優個人の色付けや感情は表現されない。もちろん、本作で言えば美容室をやっていた長女や、大阪にいる次男のように、「家族関係の崩壊」を明示する記号としての、感情の表出はあるが、それは監督のコントロール下にある。

そうして(商業主義とは別の意味で)機械化されたオートメーティッドな作品は、監督と俳優が互いに強調・協力して作り上げる一般的な映画とは異なり、独特の印象を見る者に与える。老夫婦の淡々とした語り口、現実離れした現実との関わり方は、機械化された故幻想的であり、また感情が無い分、世間に生ずる様々な情景を、客観的に描写してくれる。長男や長女の身勝手な態度や、自分で「ずるい」と言った次男嫁の態度を、我々は日々の生活で自分の中に見つけられる。

サッカーファンの俺からすると、これは1974西ドイツワールドカップにおける、リヌス・ミケルス率いるオランダ代表のローテーションフットボール(後のトータルフットボール)を初めて見た衝撃に匹敵するかも知れない。笠智衆にクライフほどの奇抜さはないが、この時代にこういう作品を作っているのは、とても先進的なことだ。

さすらい ★★★☆☆

大型トラックで移動しながら映画を上映する男と、自暴自棄になった男の旅話。

見終わるのに3日かかった。180分の映画なので通常の映画の1.5倍のボリュームがあるが、それ以上に体感時間がものすごく長く感じる映画だ。見始めては退屈になり途中で止めて、またしばらくして見て、止めて、そういう風に見ても、この映画は良いように感じられる。

しかも見終わっても何も残らない。何の追加的知識を得られるわけでもないし、もちろん感動するわけでもないし、印象的な何かがもたらされる事もない。ただただ浪費、このゆったりした時間に身を委ねるのが、本作との関わり方だ。

しかし本作のように、映画そのものにマジメに取り組んでいる作品はあまりない。例えばハリウッド、その作品は多かれ少なかれ、消費できるように”制作”される。消費に値する明確な何かが必ずある。それはストーリーだったりキャストだったり、映像の奇抜さだったりと、まあ色々あるが、確実なシンボルがなければならない。

ロードムービーということで旅に例えるなら、それはまるでパック旅行だ。シンボリックな観光地があらかじめ決まっていて、一旦そのパック旅行に参加すると必ずそのシンボルに到達できる。それをどう受け手が感じるかはそれぞれだが、とにかくシンボルを拝めるのである。ヴィム・ヴェンダースの映画は、その点行き当たりばったりの無計画旅行と言ったところか。

無計画ゆえ無駄が多い。なんで野グソシーンをあんなにマジメに撮影するのか。このダルさとマジメさは、映画そのものが持つ映像作品の魅力を感じるには良いと思う。ただほんと、退屈で長い。それもコミで面白い。