物作りの妖精として誕生したティンカー・ベルが、春を呼ぶために色々やる話。
エンディングテーマを湯川潮音が歌っているということで鑑賞。DVDの場合日本語吹き替え音声の、エンドロール2曲目に入っている。このオリジナルの英語verが本編の最後の方、妖精皆でメインランドへ向かう所で聴けるのだが、客観的に見て完全なるBGMと化していたオリジナルと比べると、声の違いが如実すぎた。
基本的に人間の生歌は、上手であったり、下手であったり、立体的であったり、薄っぺらであったり、それら様々な要素の想像しうる範囲での配合、ちょうどマトリックス分布図のようなイメージで捉える事ができる。例えば浜崎あゆみやコウダクミのようなavex系の歌手の声質は大体「ああいう感じ」であるし、少し前のモーニング娘。のようなアイドル系であれば「ああいう感じ」であるし、カートコバーン的なオルタナ系も「ああいう感じ」、ヴィジュアル系や演歌はもちろん「ああいう感じ」、・・・・・・、それぞれにマトリックスで完璧に一致はしないが、近い集団に位置する事が想像できる。
湯川潮音ってのは、その分布図の範囲外にいるような印象がある。彼女は子供の頃ウィーン少年合唱団的なやつに所属していたらしく、それが今のような声質の源泉になっているようだが、そういう出自の歌手があまりいないことから察するに、やはり特殊な存在である。少女時代のシャルロット・チャーチに近いが、シャルロット・チャーチがややクラシックにカスタマイズされている分、湯川の方が無駄を削いでいる印象がある。ファルセットもほとんどの女性歌手と違う。最近カラオケとの相乗効果でやたら高い裏声を用いる歌が多いが、湯川の場合本来の声域の声と裏声の質がかなり近いので、曲全体のトゲが無くなりやわらかく聞こえるようだ。
前述のマトリックス(俺ver)に属さないであろう声の持ち主として、思い出しただけだが「大場久美子」・「小林旭(初期)」がいる。「カヒミ・カリィ」はどうかと考えたが、あれは声質というよりwhisper的な方法の違いだと判断した。分類的には「A Girl Called Eddy」や最近の「相対性理論」に近いかもしれない。また「白木みのる」は特殊だが、体型からして想像の範囲外かというとそうでもない。
でここまでが序論つーか、序論が本論つーか、映画自体はまあなんだ、さもありなん。ティンカー・ベルとピーターパンは名前だけ知っててその物語は全く知らなかったので(つまりピーターパンは今も知らないまま)、その点知ったのは良しとしよう。内容については、日本で言うところの昔話のような教訓が含まれているので、子供に見せたら何らかの作用を及ぼすかもしれないが、こんなもんに作用されるような子供はクソである。