ロスト・イン・トランスレーション ★★★★★

アメリカから日本にやってきた男と女が、日本に色々違和感を持ち、若干恋愛する話。
まず内容は置いといて、スカーレット・ヨハンソンと言えば「ゴースト・ワールド」でのソーラ・バーチの完全なる引き立て役で、控えめで目立たない印象しかなかったのだが、なんか知らんが本作で主演女優だったり、ハリウッドが一応本腰入れてる「アイランド」でユアン・マクレガーと同格扱いだったり、いつのまにか大物女優になってた。個人的には断然ソーラ・バーチなんだがなあ。いやデブ専じゃないよ。
「翻訳の中で(過程で)喪失」。オレはこう解釈する。一つは単純に、アメリカ人が日本に来てみてアメリカ人目線でのおかしな点や不便さや、逆に新しい感動であったり発見・認識をするという、異文化に直に触れてみての再構築を意味しているのだろう。つまりこれまで抱いていたであろう漠然とした「日本観」を喪失し、実際自分が触れた印象と置き換わる。なにも字面そのままに「言語の違い」という点だけでなく、もちろん言語障壁が一番大きなものなのだが、これは伝統文化や現代日本の(日本人のオレでさえ感じるような)違和感も含めた事だと思う。もう一つは、これはストーリーと直結しているが、異文化にやってきて自己喪失感を感じた時に、似た者同士が恋愛感情を持ってしまうという話だ。
つまりこの映画はまずおそらく監督のソフィア・コッポラが実際昔日本に来た時に感じたであろう異文化感覚を何かに書いていたり、思い出したりしてそれをとにかく散りばめたということ、そしてそれだけでは単にドキュメンタリーになっちまうもんで、そういう感覚を感じたという設定の男女を置き、とりあえずまあ恋愛話にしてやっつけた?のか?まー実際問題そのへんのウェイトの置き方はわからんが、殊日本人がこの映画を見ると外国人目線の異文化認識という、「自国文化の逆輸入」が起こっていて、その点だけでもかなり楽しめると思う。
具体的に覚えてるのでそうだな、ゲーセンは個人的に印象深い。あんなにやかましいのに各自が勝って気ままに楽しんでいて、その「場」に対してなんの違和感ももっていない。オレも実際小学校高学年ぐらいからビデオゲームをゲーセンでよくやっていたので、完全にその感覚は麻痺していた。これは軽く衝撃的な再認識だった。あと選挙カー。あんなもんは日本人の多数が違和感もってるのに、アメリカ人にとってはそりゃインパクトある光景だろうなあ。
一方で、日本の伝統文化的な行事や日常のあり方での「美意識」ともいえるものが、伝わる人には伝わっているという事が素直に嬉しかった。つまりこの人は端から拒絶する気は無く受け入れる度量があるというのが、ニュートラルな視点を保っているという証だ。
ストーリーもやっつけた割には?よくできてんじゃなかろうか。出会いから発展の過程も自然ではあるし、距離のとり方も「いかにも演劇」な展開ではなくすんなり入り込める。
異文化交流は、この映画でも分かるとおりまず言語の障壁があり、次に文化そのものの隔たりがあるので、概してめんどいししんどい。ただその先にある文化のミックス行為というか、生の異文化体験は間違いなくスリリングだし、一歩踏み出せば自分にもその返りがあるだろうから、なるべく積極的にやっていきたいもんだ。

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