市民課課長、渡辺(志村喬)は時間を”埋め”ていた。彼にとっての日々は、ただ過ぎてゆくのみである。そんな彼に衝撃的な出来事が起こり、それがきっかけとなって今までの人生の無意味さ、またこれからの生き方を模索し始める。今見ても何ら遜色ない黒澤作品の凄さは、人間の永遠普遍のテーマを正面から取り組むことにある。
いのちみじかし こいせよおとめ
人間にとっていきるとは何だろう。自己実現、成り上がり、歴史に名を残す、単なる時間潰し、諸説あるがこの映画のテーマのように、生きている時は”いきる”実はまあ、ない。残念ながら日々の雑然とした生活・憂い・享楽など数多のものに、その人間の本源的な問いは封殺されてしまうのである。特に安定的な社会では。
若ければ若いほど、生に対して真剣になりきれない、つまり死に対しても真剣になりきれない。若ければ本質的に死なない”だろう”と思っている。現に渡辺が”いきる”事を模索しだしたのも、直接的な死が真剣の舞台に登ってきたからである。結局我々が”いきた”心地を感じるのは、その日その日を真剣に生きる、とてつもなく難しいことだがこれしかないだろう。
映画ではこれらのテーマを蕩々と語る。”いきる”事のわからない渡辺は、とりあえずの快楽に走るふりをするが、生来の性分がそれを受けつけない。彼がたどり着いたのは「活きる」事、自分の範囲内でもがいてみせる事である。
しかしこれで話は終わらない。このような「活きる」姿勢を目の当たりにした市役所の職員、彼らもまた渡辺に習おうと決めたものの、できない。それもまた人間。生に対して真剣であることは相当のパワーと意志が必要なのである。