世の中のすべてに嫌悪感を抱いているイーニドとレベッカ。彼女らがひやかし半分でイタ電した冴えない男シーモアに、なぜか興味を持ってしまう。
今完全な思いつきで、アメリカで言えばブリトニー、日本で言うなら浜崎あゆみ、マジョリティーの感覚がわからんのでズレてたらごめん、要するに時代時代のポピュラーとされるものが、そういうものに敏感な思春期~思春期ロスタイムまでに受け入れることができたかどうか。この映画をおもしろいと感じられる線引きはそのへんにあると思う。
本作にはこういう、社会との違和感を感じている三人の人物が登場する。一番軽度がレベッカで、こいつはエセ。ただ思春期特有の反抗的な感情が、後述する真性のイーニドに触発されただけ。イーニド・シーモアの引き立て役としてあっさりと社会と折り合いを付けてしまう。二人目が冴えない男シーモアで、こいつは世に言うオタクのデフォルメであり、すでにそういう違和感のようなものをクリアして「俺は俺、俺の道」的なものを確立している。そして一番キツいのがイーニドで、こいつは全てにおいて違和感しかない。何もかもがイヤ。イヤと感じている自分もイヤ。で最後は結局フェードアウトと。
このように書くとなんだか本作がすごく感じの悪い、煮え切らないような映画のように思えるかもしれないが実際はかなりおもしろい。三者の感情の移り変わりというのが見事で、特にイーニドとシーモアのキャラがいい。このシーモアをやっているブシェミという役者、度々出てきては印象に残る俳優である。
というのも、冒頭に書いたとおり線引きで引っ掛かったかどうかが重要で、自分自身も本作の登場人物同様社会との違和感を強く感じたこともあった。少し客観視できるようになった今でも少なからず感じてはいる。そういう人も多いだろう。
極私的な話になるけれど、高校の頃はハードロックしか聴いてなくて、つうかそれしか聴ける音楽ないと勝手に思ってて、ZARDとかBzをマジで死ねと思っていた。存在が死ねという感じ。それが今たとえば、流行りのジャパニーズHIPHOPに対しては「勝手にやっていいけどこっち側のフィールドに来ないでね」ぐらいの感情しかない。こっち側に来られると死ねと思うが。
それに以前は、こういう崇高なハードロックという音楽を聴いている自分は音楽センスという点で上(←少年ナイフだ)、ZARD聴いてるカスどもより確実に上、正直こういう優越感さえあった。今は区別してるだけ。その点イーニドはパンクロックの件あたりから察するに、まだまだ差別の段階である。それが故、周りとは違う価値観を持つシーモアに惹かれたのだろう。
ついでに書くと自分はオタクではない。自分にオタクの素質があることは知っているから、こう断言できる。今は彼らほど熱くなれるモノ、一つに没頭できるモノがない。だから自分は軽々しくオタクであるとは決して言えない。だが世間ではかなり広い範囲をオタクと言っている。これはオタクの人達に申し訳ないと思うので、もう少し文化的な背景が醸成されるといいですね。
違和感を感じる以上、レベッカのようにあえて封印する必要もないと思う。ただイーニドの違和感には最後まで「社会=クソなもの」という差別的な感情が抜けなかった。
あーなんだかまとまらんな。だってしょうがないかもな。自分が持ってる、そしてこれからも一生持ち続けるであろう感情の行く先を少なくとも3パターン見せられたんだからね。せづねぇよね。アメリカン・ビューティに近い映画だが、テーマがvividなものだから文もかなり私的になるし、ハマる。
そしてもう少し大人になればもうちょっと客観的に書けるかもな。今はもう、このままメチャクチャでいいや。ごめんなさい読みにくくて。でもこの映画今一番のオススメかもしれん。かなりおもしろいです。それにこんなに文が進んでいるし。
特に「違和感」の自覚がある人は是非見なさい。イーニド達の抱く感情、たとえば「ファンキー!」女とか、タンポン+ティーカップの評価とか、かなり自分の感情と遠目にリンクするだろう。そして彼女らの周りの人々の客観視したセリフも理解できると思う。
最後に、ヌンチャク男は爆笑です。