キャピタリズム~マネーは踊る~ ★★★★☆

リーマン・ショックや住宅バブル崩壊の影響により顕在化したアメリカの格差問題をきっかけとして、資本主義の本質を探るマイケル・ムーアの話。

本作が制作されたのは2009年、リーマン・ショックの悪影響が色濃かった時期であり、またオバマ新大統領の「Change」にアメリカ国民が期待を寄せた頃である。全体の構成としては、金融資本主義がいかに劣悪かを印象付け、共和党の「socialist」オバマネガキャンの失敗~民主主義の力~フランクリン・ルーズベルトの新しい権利章典と、民主的な新大統領の誕生により、未来への希望を見据えた作りになっている。

約2年後の2011年8月現在、果たして「Change」はなされたのだろうか。アメリカは国債発行可能限度額の上限に達しそうになり、上限繰り上げの代わりに、今後長期間緊縮財政政策を採らざるを得なくなった。紛糾した二大政党間の混乱が史上初めてアメリカ国債の格下げへとつながり、ドルはかつてほど基軸通貨の役割を果たせなくなっている。失業率は9%前後で高止まり、資産価値下落の逆資産効果が消費を冷え込ませ、最早クレジットカードで支払いを先延ばししてまで消費する事ができなくなっている。期待のオバマもグリーン・ニューディールやらゼロ金利+QEの金融緩和政策を実行したにもかからわず、持続的な経済成長には結果として結びついておらず、景気のダブル・ディップへの懸念も根強い。オバマ政権最大の課題と言ってもいい、医療保険制度(国民皆保険)改革は2010年3月に法案成立した。しかしそれも今後の緊縮財政で社会保障費が削減されると、メディケア・メディケイドの予算枠も削減される。「Change」でも逆の方に行ってしまったわけだ。

マイケル・ムーアが最後に呼びかけた「俺だけじゃ無理。みんなでやろう。」という試みであったり、オバマの「Change」は、約2年後の現時点では失敗であると言うべきだろう。むしろマクロ経済が停滞していたにも関わらず抜本的な変革がなされなかった(20年間それを見過ごした日本人が指摘するのは片腹痛いが)ため、本作の着眼点である「貧富の格差」は拡大している。また今後、その差は加速度的に広がっていくだろう。

こうした中で先日、アメリカの著名な投資家であり大富豪のウォーレン・バフェットが「超金持ちにもっと税金を支払わせろ」と、超金持ち自ら提言した (Stop Coddling the Super-Rich)。曰く、超金持ちの蓄財は主にキャピタル・ゲイン(金融商品の売買益や利息・配当)によるものであり、その課税率が所得税率に対して低すぎる(36%に対して17%)からだと言う。言い換えればアメリカはこの特例的なキャピタル・ゲインの低税率を推進力に、金融取引によって見せかけの経済成長をなしていたわけである。

資本主義は文字通り、「資本をより多く持っている方が良いだろ!!!!」というシステムだ。1年間で10億円稼ぐのに手っ取り早いのは、「1兆円を金利0.1%の銀行預金に預けて、1年間好きなように暮らし、1年後利息を貰う」事である。つまり資本が多ければ多いほど、さらなる資本獲得のオプションも増え、得られる・失う額も大きくなる。これにより「資本獲得」への動機が万人に生まれ、その結果みんな豊かになり、便利になり、素晴らしい将来が開けてくるという考え方である。

確かにこれこそが資本主義の本来の有り様であるし、過去になされたからこそ、今我々は100年前誰も持っていなかったものを持っている。物質に囲まれた暮らしが豊かであるかどうかは別問題として、これがそもそもの資本主義なのだ。問題は”過度な”資本主義なわけである。

本作では”過度な”資本主義の利得者を、主にマネーゲームで成り上がった超金持ち、被害者を家を失った一般の人々や倒産した企業の従業員として、明確に色分けして描いている。超金持ちが、貸すときはニコニコ金髪美女、返すときはシチリアン・マフィア(あれはたぶんビト・コルレオーネのパロディ)という二面性を持っているのは、単純化するとその通りだ。強制退去の現場を見ると、いかに自己責任とは言え、法律の非人間的な力に人として心が痛む。

だが、見る前に俺がマイケル・ムーアに期待したのはこんなステレオタイプな描写ではない。以上のような惨劇や収奪は、他の媒体で山ほど見てきた。あの、「ボーリング・フォー・コロンバイン」や「シッコ」のマイケル・ムーアだからこそ、一発かます何かがきっとあるだろうと期待していた。

マイケル・ムーアは空気を読まない突撃リポートを得意とする。中立な第三者として、一般に聞きにくいこともアホのふりして聞いてくれるから見る価値があった。俺が抱いた期待とは、

「なぜ超金持ちは、個人としてそんなに金が必要なのか?」

という点の追求である。だが結局突撃リポートはなかった。それどころか本作では突撃すら出来ず、せいぜい蚊帳の外からアジったり、よくわからんロープを張り巡らして「逮捕だ逮捕」とか、パフォーマンスのためのパフォーマンスをしただけである。この点は、マイケル・ムーアに期待したものが全くなかったので本当に残念だった。それだけ、超金持ちの壁は厚いということかもしれないが。

「なぜ超金持ちは、個人としてそんなに金が必要なのか?」。企業の場合、利潤追求のため資本はあってありすぎるという事はないから、際限なく金を得ようと(=企業活動をしようと)するのはわかる。また近代資本主義では禁欲的な勤勉さが結果的に資本の蓄積に繋がるため、職能集団である企業がその役割を果たせば自然と蓄財されるのも納得出来る。ただ本作に登場した、利権構造などで個人的に利益を得る超金持ち、まだミリオネア程度はわかるが特にビリオネア(10 億ドル)には、「そんなに金を得てどうするの?」という単純な疑問がある。

もちろん金がある方があらゆる点で恵まれるのは理解できる。上にも書いたが今仮に1兆円持っていれば寝てても1年間で10億円入る(ただし1兆円持っている人はこんなずさんな運用はしないと思うが)。それこそ資本主義本来の効能だ。欲も満たしやすいし長生きもできるだろう。

でも、それでも、個人で使える額には限度がある。金持ちになればなるほど、皮肉なことにお金の限界効用は逓減する。「過度な資本」は行き場を失し、特に目的はないがさらなる資本を得るためのタネ銭となるか、あるいは「無駄遣い」に消えてしまう。金が無ければ興味もないのに、金があるから自家用ジェット・大型クルーザー・一等地の大豪邸などに使ってしまう。アラブの石油王は”本当に”マンチェスター・シティが欲しかったのだろうか。もちろんこれはこれで消費活動であり経済に貢献しているのは間違いない。彼らが本来それらを求めて超金持ちになったのなら、否定できない。ただ、無駄遣いの自家用ジェットを一人が買うのと、フードスタンプを受給しているような低所得者に少しだけマシな食事を与える事の、どちらが幸せだろうか。

この”過度な”資本主義を抑制するアイデアとして、本作では一つのヒントがあった。「Shame on you」である。”過度な”資本を有する者は、潜在的に誰かを犠牲にした恥知らずとして、社会的に圧力をかけるというのだ。だがこれも間違っている。そうすると結局超金持ちは、鉄壁の防御を誇る金持ち集落に自らをエンクローズしてしまい、「Shame on you」を主張する連中を無視してしまうだろう。そもそも問題解決に対して、対立構造を助長するというのは正反対の方法だ。

自ら税率アップを提言したバフェットや、世界一の富豪マイクロソフトのビル・ゲイツは、ありあまる金の使い道が無くて、結局慈善活動家(フィランソロピスト)として消費する道を選んだ。これがまあ、現実的であり人間的な選択かもしれない。強い者こそ寛容であって欲しい。

ユニバG物語 ☆☆☆☆☆

原料バナバ100%の健康茶「ユニバG」を探し求めフィリピンのジャングルをさまよう、大神源太の話。

昔のファイル倉庫として使っている80GBの裸ハードディスクを整理していると見つけたので鑑賞。厳密に言うと映画ではなく販促ビデオだが、なぜか「映画」のフォルダに入っていたので映画だと思って見た。

ただ平常心でこんなの見れたもんではないので、夏の暑さを利用し敢えてエアコン停止・室内気温35度前後、雨上がりの湿度が高い、環境的に非常に不愉快な、それこそ東南アジアのような環境で鑑賞した。よって脳は基本的に思考停止状態であり、あるいはこういう状況の方が、詐欺に引っかかる人の心理状態を再現できるかもという淡い期待もあった。

知っている人は知っているが、大神源太氏はかつて「ジー・オー・グループ」という、俺ももう詳しくは覚えていないし、wikipedia等で調べる気もないので、適当な記述かもしれないが、ようするにマルチ商法的な錬金術で多数の人を勧誘し、後に詐欺罪で立件された?人である。ボディービルダーのようなプロテイン筋肉ボディに黒いシースルーのタンクトップ+迷彩ズボンというユニフォームが一部好事家の関心を集め、当時はマスコミ含めて大いに盛り上がった。

本作は恐らくジー・オー・グループ絶頂期(ちょうど自転車が上手いこと回り始めた頃ぐらいか)に作られた作品であり、ただの販促ビデオとは思えないほど予算がかかっている。ヘリコプターによる空撮の冒頭シーン(BGMはロッキーのテーマをギリギリ著作権侵害してないようなアレンジ)から、ジャングルの密林をさまようドキドキハラハラの展開、最後にはB級アクションではドルフ・ラングレンと双璧をなすほどの超ハリウッドビッグスター、ジャン・クロード・ヴァンダム閣下まで登場し(大神源太の親友らしい)、当時の熱気と潤沢な資金力の裏付けが感じられた。

でこのビデオだけで判断した場合、「フィリピンの貧しい人々にユニバG製造という仕事を与え、さらにユニバGでたくさんの人の健康状態が改善される。俺の夢の一つが国際貢献!」とぶちまける大神源太のメッセージはよく伝わる。詐欺師は詐欺師でおそらく自己暗示にかかっているようなものなので、彼の詐欺師としてのカリスマ性は大したものだ。

うーーん、暑い。もうこれぐらいでいいか。とにかくよかった。おわり。

女衒 ★★★☆☆

日露戦争の時代、香港で日本の対露スパイとなり、その後成り行きで東南アジアの女衒になった男の話(一応実話ベース)。

女衒という言葉は聞きなじみが無いが(NUMBER GIRLの「ZEGEN VS UNDERCOVER」という曲タイトルでしか見た記憶がない)、女郎斡旋業を意味するところから、売春防止法施行後の現代では使う機会が無いからだろう。今だとAV女優の所属事務所が類似する商売かもしれない。大抵のAV事務所のサイトには、「高収入」「アリバイ完備」「高級マンション寮」「安心」「楽しく」など、わかりやすい美辞麗句が並んでいる。AVを鑑賞する、主に男性はそれによって興奮を得られ性欲を満たし、出演するAV女優はそれら美辞麗句を享受できる。使い古された言葉で言うとWIN-WINの関係、理想的な職業ではないか・・・・。

ところが現実は異なる。美辞麗句で表面を覆うということは、そうせざるを得ない理由がある証でもある。その理由とはAVを見ると一発でわかるだろう。最近だと容姿のレベルもかなり高くなり、人気の単体女優はタレントやアイドルよりかわいい事も多い。そんな女性が不特定多数の人にセックスはもちろんフェラ・クンニ・オナニー・ごっくん・顔射・大量ぶっかけ・3P・二穴などを鑑賞される。日本の現行法ではなぜか肛門の映像使用はOK(たぶん医学的側面?)なのでボカシが入らず、綺麗な女性の菊座(この言葉結構良い)が映像として収められる。美辞麗句を享受する代わりに、これらの犠牲を払う、この点にどれくらいのAV女優が、好意的に同意しているのだろうか。

もちろんだからといってAV女優を卑下しているわけではない。俺自身AVを見た事がないかというと、山ほど見てるし、その点AV女優にお世話になっているわけで、彼女達がやっていることを否定できる分際ではない。結構、本音のところでたまげた女性達だなと思っている。ただ、例えば自分の家族や知り合いが「AV女優をやっている」となった場合、理屈では理解できても、気持ちの面で受け入れられるかとなると・・・・、今リアルに想像してみたが、完全に無理である。理屈と感情のギャップを埋めるのが、美辞麗句なわけだ。

本作でもその点を、女衒や女郎の存在意義・大義名分として用いている。明治時代、日本国民は総じて天皇陛下の御子であり、その天皇が統べる日本国発展のため、徒手空拳の女性達が自らの体を売って、家族に送金し、家族がその金で消費したり働いて税金を納める。さらに女郎街が賑わうと、それによって街も発展し日本の産業にも貢献できる。女郎は故郷の田舎で一生貧乏暮らしすることもなく、年季明け(借金完済)したら体一つで稼げる。理屈だけで見れば確かに筋は通っている。

だがこのような大言壮語は、実際に体を売る女郎達には全く響かない。感情の壁は乗り越えられない。このことを女衒達は「よ~く”言い含める”」と表現している。体を売るという事実は変えられないわけだから、せめて感情面だけでも、天皇陛下を引用し意義有ることのように見せかけて、説得しているのだ。

体は売っても心は売らない。これができたら理想的だ。女を買う男も、心まで求める場合はそうそうない。AVにしろ女郎にしろ、目当ては体や行為である。体と心の完全な分離を女性は割り切ってできるのだろうか。あるいはいわゆる”慣れ”の問題なのか。この点は男性には想像し難い。大勢の撮影クルーがいて、カメラのレンズが向けられる中、乳首の部分を丸く切り取られた競泳水着の股間をずらして(ちゃんとSPEEDO社のやつ。なぜか水泳帽は被っている)アンアンアンアン言っている異様な空間において、腰を曲げて大根を収穫しているばあちゃんの顔とか、さんま御殿を楽しげに見ているお母さんの顔とかよぎらないんだろうか。想像しただけでも身震いしてしまった。

この点、映画と離れていくつかの議論を見てみた。でも答えは出なかった。「AV女優のやってることは否定しない、でもそれが家族だと無理」この二面性はどう決着付けるべきか。散見された意見として「AV女優もその職業に誇りをもって立派にやってる。需要があるからやってる。」というのがあるが、そんな客観的な話じゃねえんだよな。そういう意見を持っている連中には「じゃあテメエのかあちゃんがAVやってたら、リアルに想像してお前どう思うよ?」と聞いてみたい。

で現時点の結論としては、自分の感情として解決はできていない。一方事実としてAVや性風俗は供給されている。この時俺自身の判断として、そういう類のものは利用しない、という選択肢がある。ただし性欲は人間すべからく持ち合わせており、たとえ俺一人が利用停止したところで、根本的な解決にはならない。供給の性欲弾力性はメチャクチャ小さいのだ。よって「感情の問題は黙殺!!!!!、大日本帝国統帥部ばりに黙殺!!!!!!、そして事実は供給の範囲内で活用させていただく」という、超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超独善的な結論に達した。こんなのこじつけであることは百も承知。AV女優さんごめん。そしてありがとう。

ストーリーは典型的なサクセスストーリーで、起承転結がそのまま栄枯盛衰になっているのでわかりやすく素直に楽しめた。残念なのがオチだ。「オチをどうするか困った」のがわかるほど酷いオチだった。