テレビがあこがれの存在だった時代、近所付き合いの話。
見ている途中で、平凡な日常を描く内容と映画制作レベルの高さとのギャップに戦慄を覚えた。比喩表現ではなく、本当に恐ろしくなった。恐ろしい、いや、そういう感情ではない・・・・。なんというか、うまく表現できないかもしれないが、とにかくこの感情を具体的に説明してみる。
まず最初に書いたように、本作の舞台は、ある時代(昭和30年代ぐらいか)の平凡な一社会である。そこには世間が当たり前に存在し、その成員も世間の掟に無条件に従っていた時代である。今のように、核家族化・親の過保護とかモンペア・マイルールとか、掟をぶっつぶす価値観を世間が大ナタでぶった切っていた時代だ。今見ると昔懐かしかったり、在りし日の良き日本であるとか感じたりするが、制作された時代においては、極普通の生活を描いたに過ぎない。
その極普通が、なんつーか、表現するのが難しいんだが、極端に?極普通なのである。”普通””平凡”であることに完璧さを求めている。今ざっと部屋を見渡すと、俺の生活に必要なものがいくつも目に入る。それらは全て(記憶忘れもあるが)何時かの理由があって其処に在る。連続している。生活はアナログだ。本作で描かれた、画面に映される登場人物の生活の証は、証としてシンボリックに意味をなし、それ自体は生活ではない。この極普通はデジタルなものだ。冒頭、集合住宅の間から、右→左に何人か人が出てくる。あのタイミング・手前から奥に向かう画面構成・光のコントラスト、すべて瞬間であり、1である。そこから生じるデジアナの齟齬に、違和感というか、恐怖感のようなものを感じたのかも知れない。これでも上手く説明できてねえなあ。
で俺は、終始この完成された、完璧な普通の生活を見せられて、心は阿鼻叫喚、画面に提供される圧倒的情報量の処理にもがき、打ちのめされてしまった。林家の住人や、そのご近所みんなが宇宙人やロボットのように感じられ、むしろあの14型ナショナル謹製テレビにホッとさせられたのである。押し売りが持ってきた鉛筆は、なんか違う鉛筆かもしれない。芯が硬いとか言ってたし、トンボ鉛筆ではないし、サイボーグの鉛筆かもしれない。楢山行き決定の産婆の婆さんはエイリアンかもしれない。いや、それぐらい恐ろしかった。そんな中、「ナショナル」と書かれたテレビ、厳密に言うとテレビの箱は、俺が持っている膨大な直線のどれかと、ある所で交わってくれる。この安堵感は本作にして得難い休憩ポイントだった。
このように見方によっては、「シャイニング」とか「ファーゴ」の要素も含まれた得体の知れない恐怖感を感じてしまうが、単純に一本の映画としてみても相当面白いし、また恐い恐いと書いたが笑ってしまうシーンも多かった。笑いについては、漫☆画太郎の世界観に似ている。
タイトル「お早よう」に込められた意図と、日本的世間の交わりが本作のテーマだが、現代においてずいぶん解体された世間と、まだずいぶん残っている世間の残滓との乖離やギャップに悩むマイノリティの人間として、興味深いテーマであった。「余計なものがなくなったら、味も素っ気も無くなっちまう」「無駄があるから良いんじゃないかな」と語る兄ちゃんが、天気の話をするラストは、普遍的に通じる人間にとっての大切さを示唆している。