WWII前後、ニューヨークの舞台劇で成功しハリウッドに迎えられた脚本家が苦悩する話。
仕掛けは多い。疑い出すとキリがない。ラスト、ホテルを後にしたバートンが海岸にいると、突然女性が歩いてきてバートンの前に座る。するとまるでバートンが滞在したホテルの壁に掛かっていた、浜辺にたたずむ女性の絵と同じような構図になる。しばらくして、鳥が海に潜ってエンド。ここだけ見ても示唆に富んでいる。
デジャブのように、なんもない浜辺に座っていると、急に美女が歩いてきて自分の斜め前に座る、なんてのは現実としてありえない。だとすると、浜辺の美女はバートンの妄想だと言うことになる。海に潜った鳥は、その女性以外が現実である事を示している。脚本家であり、ストレスの発散時やダンスシーンでわかるように、「クリエイター」という意識が非常に強いバートンにとって、妄想が膨らんで現実と重なるのは、無くはない事だ。
するともう、このストーリーはわけがわからなくなる。細かい部分では、蚊・ホテルの異常な暑さ・外壁からしみ出る糊のようなもの、バートンの目にとまる奇妙な光景は、彼の妄想かもしれない。知り合ったばかりの女性が、バートンのような奇抜な風貌の男の部屋に、呼び出してすぐに来るだろうか。朝起きて、横を見るとその女性が血まみれで死んでいるなんて、クリエイターにとっては非常にエキサイティングな状況だ。ひょっとして、チャーリーや、ハリウッドに来たことすらもバートンの妄想かもしれない。チャーリーに渡された箱は、いわば「現実」のシンボルであって、バートンが「チャーリー」の私物である箱を「開けない」のは、そこに現実が詰まっているから、深読みすると、酷い戦争が詰まっているからという事になるかもしれない。
以上は俺の想像(妄想ではない)であって、コーエン兄弟の狙いは全く違うかもしれないし、そもそも狙いなんてなく、示唆に富んだ仕掛けを張り巡らせれば、見る側が勝手に解釈してより良い着地点を見つけるだろうと、見る側に評価を丸投げしているかもしれない。沈黙は金とはよく言ったもので、ある妄想を、雄弁な連中に想像させれば、勝手に良い方にまとまるのである。落語にもこういう噺はあった。見終わって調べてから分かったことだが、実際本作は1991年度のカンヌでパルムドールを含む三部門を受賞している。
この「カンヌ」つーのがわかりやすいつーか、映画を熟知した批評家連中にとって、本作は雄弁に語るのにうってつけな素材だったのだろう。そこまで見越してコーエン兄弟が製作したとすると、月影先生言うところの「恐ろしい子」になるが果たして。