「見た映画については必ず感想を書く」という俺ルールについてのこれまでを振り返る話その3。
別に仁義シリーズから感化されて、狙ってこうしたわけではないが、結果的にシリーズものになってしまったので、今決めたが、このシリーズはPART5でもって完結させることにした。「感想の感想」をPART5まで引っ張るとはアホの限りだが、これまで培ったテーマに対する脱線力を駆使すれば、意外と簡単にいけると思う。
そもそもなぜ感想を書くのか。これは実際、書いてみると理由がよくわかる。なんらかの表現を見た後、その漠然とした印象を言語化するのは非常に難しい。実用書やドキュメンタリーであればテーマは明確であり、重要なポイントは論理的に導けるが、表現の場合、基本感想は「よかった」「ふつう」「つまんなかった」しかない。印象とはそういうものだ。
ただ言語化することで、その漠然とした印象が、説明可能なものとして表出されることがある。言語化にチャレンジすると、そうなることがたまにある程度だ。だから書き始めはとても苦しい。「なしてせにゃならんのか」と、自分で決めた枷に大抵の場合自問する。それを何とか越えたら、見終わった後思ってもいなかったような印象が、言語化してまとめる事で新たに持てるようになり、ひらめきや解決の瞬間は結構快感である。
また、これは個人の性格にも関係あるんだが、映画を見て見たら見っぱなしで一週間後、一ヶ月後には「見たこと」以外、あるいはそれすらも全部忘れるというのはもったいない。おぎやはぎの小木は年間百本近くの映画を見るそうだが、その内容は全く覚えておらず、そんな映画好きなのに「今までで一番好きな映画は?」「ロッキー!」これぐらい、逆に突き抜けていればそれでもいいと思う。要するに貧乏性であり細かいことが気にかかる性格にとって、インプットしたものをアウトプットで一々返していく事は、精神衛生上必要だ。
ではなぜ映画か。世の中には過去の蓄積も含めて膨大な量の表現がある。文章・絵画・音楽・映像・ゲーム・漫画など様々あるが、この中で「感想」として印象をまとめるのに映画は一番やりやすかった。なんらかのストーリーがあり、起承転結のフォーマットがある。なにしろ「始まって、必ず終わる」のである。例えばカンディンスキーの絵を見て感じた印象を、言語化するのは易しくない。展覧会の図録にキュレーターがこれでもかと、ベラベラベラベラ書いているが、あれ読んだことはないが「お前マジか」だ。
また映画は「つまんなさのリスクヘッジ」ができる。レンタルソフトの場合最近だと1本200円程度で入手でき、時間も概ね120分前後になぜか決まっている。見終わった結果つまんなくても、この程度の損失であれば、面白さを追求するのに十分許容できる。
以上が、まず映画を見ること、そしてその後感想を書くことの、動機付けになっている。どうだろうかこのでっち上げぶり。PART3にして未だ、我が書いた感想のまとめ的な事を一切やっていない。というわけで(この言葉も「閑話休題。」並に便利だな)、いよいよ本題に入るのか?、それは俺にもわからない、PART4に続く。