1984年頃、労務者が暮らし仕事を得る通称”山谷”地域における、労務者とその周辺の話。
本作において「労務者」は「労働者」と区別して表現されている。明確な定義付けは恐らくなされていないと思うが、労働者がたとえば「資本家 対 労働者」「春闘」などで語られるような、団結力で権力と同等に闘い権利を主張する人々(平たく言えばサラリーマンなど)だとすると、労務者は本作で見た限り、資本家(経営側)と直接闘争することが無い。ストーリーは労務者の春夏秋冬を撮り続け、その生活や労働の実態を描写することで構成されるが、労務者が直接闘うのは、彼らが日頃仕事の世話をしてもらう「手配師」であったり、その仕事先の「下請け雇用主」であったり、資本主義の構造下ではむしろ労務者に近い人々に対して闘争が行われる。
これは見事に、かつての帝国主義時代の植民地で、植民地住民の間に無理矢理差別構造を作って管理を容易にしたり、江戸時代の身分制で農民・商工人の下に穢多・非人を置いて不満を下に向かわせた武士社会と、同じような構造が用いられていて残念すぎた。そして現代においては、相対的剥奪感によって中産層と貧困層を分断する形で現在進行中の問題でもある。
そして労務者の不満を資本家まで至らしめないための防波堤として、国家から警察、民間から右翼やヤクザが彼らの近くにいつもいた。警察にとってヤクザは排除すべき存在であるが、状況によっては都合良く黙認される場合がある。飯場やドヤ街のような、個々人の気質などで犯罪が日常的に行われる地域では、税金で賄われる警察力で治安を維持するよりも(維持は不可能)、彼ら労務者から直接ピンハネする代わりに管理を委託する形での、ヤクザによる暴力での統制の方が、体制側にとって都合がよい。
従ってよほどの脱法行為が行われれば警察は介入する(せざるを得ない)が、それ以外は基本的にヤクザと同調し、彼らを「生かさず殺さず」の状態にする。本作のメインはこの「資本家以外 対 労務者」の闘争シーンなのだが、この構造が厳然と存在し、彼らの叫びがうやむやにされるのが理解できるので、再度書くが残念すぎた。大元の部分で労務者を搾取しピンハネする、本作で出てきたところの精神病院やビルを建てるゼネコンなどは、高い壁で囲まれ、法律面では警察及び司法に守られている。この時代は山谷や筑豊など限られた地域での事だったが、現代ではヤクザや手配師が派遣会社に名前を変え、非正規雇用の範囲拡大で全国各地に薄く広く及んでいる。
実際彼らの立場にならなければわからない、経験しない事もたくさんあった。彼らはよく並ぶ。そして混雑する。朝は手配師の所で混雑する。仕事が終わっても酒場で混雑。シャッターの下からヌルリと侵入して窓口に駆け込む。混雑して、なんかの給付手帖のようなものを受付に投げ込む。厳寒の年末に収容所で並ぶ。収容されなければ道端で凍死する。とにかく印象深いのが「混雑」と「混沌」である。
そして汚い。汚いは語弊がありまくるが、なんつーか、色彩が無い。服はもちろん、街並みも、労働環境も、飯ですらも、モノトーンである。だからこそ、夏祭での歯の抜けた笑顔や、ぐでぐでの踊り、旅芸者のおやまにちょっかいだすおどけ方が、とっても悲しくもあり、美しくもある。
急にディズニーランドが頭に浮かんだ。いやディズニーに用はない。USJだったかもしれない。その中で、行ったこと無いので分からないが追加料金をいくらか支払えば、1時間とか1時間30分とか平気で並ぶアトラクションに、専用口から並ばずに乗ることが出来るという。
「お金を払えば」「並ばずに」、か。なんかこう、今回よくよく感じたのは「並ぶ」とか「混雑する」とかは、まさに搾取なのである。本来提供する側がコストを払って解消すべき問題を、受益者側が負担させられている。「俺様は自らの意志でうまいラーメン屋様に並んでいるのであって、自由市民の人権発動バリバリである!」とか「並んでいるときはDSでなんたらいうRPGをやっているから or なんたらいう本を読んでいるから、時間の無駄でも搾取でもない。むしろなにもせず並んでいる連中に比べて時間を効率的に利用しており、しかも並んだ結果の便益は同等に享受できるわけだから、俺って利口ちゃんなのよ!」とかとか、そういうことじゃないんだよな。よくわかった。「並ぶ・混雑する」構造そのものが搾取であるのは、本作を見て理解できた一番の収穫かもしれない。
そこで俺よ。さて目の前に並ぶ状況が、ある。
1.搾取と分かってそれにしたがう。なんだかんだで利口だね!
2.搾取だから並ばない。並んでいるやつはきちがいである!
3.「お前ら並ぶな!搾取と闘争せよ!」と一人声高に叫び、人々にきちがいだと見なされる。
選択肢は基本この3つしかない。 YESか、NOか、YESをNOに変えるか、だ。
しかし実際3つとも正解ではない。書いたとおり、「並ぶ」状況がある時点で全負けだ。資本家とは「並ぶ」「混雑する」を作り出す側だとも言えるかもしれない。結果俺は、並ぶ状況があり、並ばざるを得ないときは、黙して並ぶのである。
ただこれには一つだけ、解決方法がある。「並ぶ・混雑する」に参加しないことだ。そもそも並ぶ状況があることに、一番の問題がある。現実には非常に困難だが、なるべくなら「自らの意志で、並ばず・混雑しない」ことが肝要である。
話は大きく反れ、テーマは定まらなかったが、このような思考の機会を与えてくれたことはこの映画を見て良かった点である。DVDなどソフト化はされていないため、なかなかお手軽に観る事は難しいが、興味深い作品であった。
山谷制作上映委員会
http://homepage3.nifty.com/joeii/
今回は明確な意志でもって見に行ったので、覚え書きついでにいくつかの関連事項を記載する。
・俺とヤマ
売春の社会史を調べていて、日本の売春の歴史を遡ると自然と吉原へ向かう。そこからまず「飛田新地」の存在を知る。飛田は大阪にある、吉原と同じかつての赤線地帯であり、大戦前は公娼制度のもと遊郭が林立して風俗街を形成したという。飛田には大正時代に建てられた絢爛豪華な建物がまだあるようで、重文?に指定されているものもあるようだ。しかもここは江戸時代の吉原・張見世システムが伝統として現代に残っているらしく、嬢が店のショーケースのようなものに出張って客を待っていて、その横にはおなじみ遣り手婆もいるらしい。機会があれば見物に行ってみたい。
その「飛田新地」を調べていると、そのすぐ側に西成あいりん地区があるというのがわかった。正直この、「あいりん」という言葉をつい数ヶ月前まで全く知らなかった。で同じように吉原にも「飛田 – あいりん」に相当するものがあり、それが山谷、通称ヤマだったのである。
・映画の上映環境について
その調べる過程で、本作が不定期ながら上映されている事を知り、ちょうど良い頃合いだったので見に行くことにした。場所は中野のPlanBという、中野駅から中野通りを南に20分ぐらい行った所にある。地下鉄丸ノ内線のなんとかという駅が最寄り駅だが、どうせ中野に行くのであれば、まず北口のブロードウェイに行ってからの方が良いだろう。
会場はコンクリートの打ちっ放しに100人程度収容できそうな、地下室?のような場所で、LIVEハウスとも少し違う、小演劇などを行うような場所かもしれない。とにかくそこに、奥に段になった備え付けの木製長椅子と、横にパイプ椅子を10ぐらいと、中央をゴザに座布団という素晴らしい試聴環境で、まあ通常映画を上映するような場所ではない。それが逆に、本作が映画館から締め出されているという証の裏返しにも感じられた。客数は60-70ぐらいか。こんな極めて情報少ない映画にも、人ってなんらかの方法で知り集まるもんだなあ。
地下に下りるとすぐ受付、そこで当日券1,200円支払った。事前に予約連絡をするか、今回受付でもらったチラシを持参すると1,000円に割り引かれるようだ。
上映は16mmか35mmかはわからんがフィルムを映写機で回し、プロジェクターのスクリーンに投影するというシステムだった。画面サイズは問題なし。上映中フィルムのカラカラ音が聞こえるが、映画が始まると音声でかき消されるので特に問題はない。途中フィルム交換でインターバルがあった。映像はフィルム特有の暖かい印象であり、フィルムノイズも目立たず保管状況は良いと思われる。
音声は残念ながらアナログのままで、今例えば1980年代のNHKアーカイブスを見るとわかるように、こもり気味で聞き取りづらい。さらにプチプチノイズも多く、あまり良くない状況だった。当然現代のようにインタビュー音声にテロップが挿入されるような事はないので、聞き逃したら終いである。特に台湾の人?の話はなまりがきつく、何を言っているのかさっぱり分からなかった。音声はリマスタリングする必要があるように感じられた(今後も上映していくならば)。