許されざる者 ★★★★☆

1880年代、かつて列車強盗殺人で名を馳せたマーニーが、引退して10数年後に賞金稼ぎの殺人を実行する話。

ジャンルは西部劇だがど真ん中のそれとは少し趣が異なる。保安官(または正義のガンマン) VS 悪党という構図はそのままに、本来街を守る側の保安官を権力者のデフォルメとして据え置き、街の保守性を維持するために強権的に問題を解決する独裁者の如き扱いになっている。逆に悪党は、そういう保安官の強権によって泣き寝入りさせられた社会的弱者のかわりに、敵討ちを実行する正義側の扱いになっている。

このように立場が逆転することで、通常のガンアクションでは重んじられない殺人の重大さが強調されるように感じられた。通常だと最後の対決に至るまでの過程の中で、そうする必然性が十分説明されるため、見る側は思考の余地無くアクションはアクションとして捉えることができるが、本作のようにアクションの理由に十分な裏付けがない場合、その意味が際立つ印象になっていった。つまり、殺人や死がガンアクション的な必然でなくなったということだ。

だから、売春婦達の敵討ちが風聞とかなり異なるつーか、風聞はメチャクチャ大袈裟であるという現実に直面した際に、悪党側の3人は3者3様の受け止め方をするのである。最も合理的な反応をしたのがネッド、彼は死をもって償わせるほどの罪ではないと判断し、ついに引き金を引けずに舞台からも去ってしまう。ある意味これが一番リアルな反応だ。次にキッドの反応は、理不尽な殺人を実行することで、その重大さに気付かされるというものだが、これも変な話フィクションにおけるメッセージを示すものとしてよくあるパターンではある。

そして異様なのがマーニーの反応である。彼はこの正義が理不尽なものであると気付きながらも、ついにちゅうちょ無く殺人を実行してしまう。その理由は殺人の少し前、彼が死線を超えるかどうかの病気(高熱)から生還したことが影響している。当時の1000ドル(333ドル)がどれほどの価値かわからない以上、あの描写をターニングポイントと捉えるのが妥当だろう。

こうして意味の分からない殺人さえも実行可能となったマーニーにとって、西部劇的な最後のガンアクションは、通常のアクションとはかなり異なってくるのである。つまり通常の大ボスであるところの保安官の存在はシンボル力が薄まって、その周辺にたむろする「雑魚キャラの理不尽な死」が際立ってくる。あの時、保安官の指示に従いネッドをみせしめにした酒場の主人だけが、その殺人の理由を説明されたのみ(覚悟が必要うんぬん)で、まわりに居合わせた保安官の頭数合わせ要因は完全なる犬死に、無駄な死でしかない。この視点の変化が、一風変わった作品の印象に繋がっているように感じる。ヒューマンドラマ的な西部劇だった。

ティンカー・ベル ★★★☆☆

物作りの妖精として誕生したティンカー・ベルが、春を呼ぶために色々やる話。

エンディングテーマを湯川潮音が歌っているということで鑑賞。DVDの場合日本語吹き替え音声の、エンドロール2曲目に入っている。このオリジナルの英語verが本編の最後の方、妖精皆でメインランドへ向かう所で聴けるのだが、客観的に見て完全なるBGMと化していたオリジナルと比べると、声の違いが如実すぎた。

基本的に人間の生歌は、上手であったり、下手であったり、立体的であったり、薄っぺらであったり、それら様々な要素の想像しうる範囲での配合、ちょうどマトリックス分布図のようなイメージで捉える事ができる。例えば浜崎あゆみやコウダクミのようなavex系の歌手の声質は大体「ああいう感じ」であるし、少し前のモーニング娘。のようなアイドル系であれば「ああいう感じ」であるし、カートコバーン的なオルタナ系も「ああいう感じ」、ヴィジュアル系や演歌はもちろん「ああいう感じ」、・・・・・・、それぞれにマトリックスで完璧に一致はしないが、近い集団に位置する事が想像できる。

湯川潮音ってのは、その分布図の範囲外にいるような印象がある。彼女は子供の頃ウィーン少年合唱団的なやつに所属していたらしく、それが今のような声質の源泉になっているようだが、そういう出自の歌手があまりいないことから察するに、やはり特殊な存在である。少女時代のシャルロット・チャーチに近いが、シャルロット・チャーチがややクラシックにカスタマイズされている分、湯川の方が無駄を削いでいる印象がある。ファルセットもほとんどの女性歌手と違う。最近カラオケとの相乗効果でやたら高い裏声を用いる歌が多いが、湯川の場合本来の声域の声と裏声の質がかなり近いので、曲全体のトゲが無くなりやわらかく聞こえるようだ。

前述のマトリックス(俺ver)に属さないであろう声の持ち主として、思い出しただけだが「大場久美子」・「小林旭(初期)」がいる。「カヒミ・カリィ」はどうかと考えたが、あれは声質というよりwhisper的な方法の違いだと判断した。分類的には「A Girl Called Eddy」や最近の「相対性理論」に近いかもしれない。また「白木みのる」は特殊だが、体型からして想像の範囲外かというとそうでもない。

でここまでが序論つーか、序論が本論つーか、映画自体はまあなんだ、さもありなん。ティンカー・ベルとピーターパンは名前だけ知っててその物語は全く知らなかったので(つまりピーターパンは今も知らないまま)、その点知ったのは良しとしよう。内容については、日本で言うところの昔話のような教訓が含まれているので、子供に見せたら何らかの作用を及ぼすかもしれないが、こんなもんに作用されるような子供はクソである。

容疑者Xの献身 ★★★★☆

密かに好意を抱いている隣人の女性が衝動的に行ってしまった殺人を偶然に知り、彼女のために偽装工作をする天才数学者・石神の話。

これまで見たミステリー(数は少ない)の中でもロジックの内容はかなり良くできている。こういう系のサスペンスはロジック構築が全てとも言えるほど重要な要素であり、その点テレビの2時間ドラマレベルまでは御都合や飛躍がてんこ盛りで見てられないのだが、流石映画と思えるほどに隙がなかった。今頭で整理しながら書いているが、恐らく石神の作った筋書きに破綻は無いように思われる。・・・たぶん。

アリバイ工作と見せかけての死体すり替えを思いついてからの、ホームレス殺人を決行したのが大本の衝動的殺人の翌日ということは、石神自身が身代わりとして自首するというのも(警察の追求の程度によりけりだろうが)筋書きの範囲内だろうし、だとすると自分が警察に疑われて(学校に聞き込みに来たあたりか)から以降のあからさまなストーカー行為も説明が付くし、湯川が真相を話に来る直前まで、彼女達の身を自分の力によって守れたことと警察をまんまと欺けたということで罪の重大さなど屁でもなく、拘置所で石神は至福の時を過ごしていたことだろう。

犯罪の解決をy・容疑者Xの書いた筋書きをx・警察の捜査をd・とすると、ストーリーはy = dxで表される。この場合の変数はxのみであり、石神のコントロール下にある。xは 0 < x <=1 で、解yに対する定数dに影響を及ぼす。x = 1になった時点で y = d、つまり警察の捜査が犯罪を解決したことになる。石神が書いた筋書きは x = 1に至るまでを描いたものであり、彼の想定では他の変数は無いはずだった。

しかし実際は、天才物理学者湯川の介入(Yはわかりにくいので便宜上aとする)、女の気持ち(w)が想定外の変数として入ることで、式が y = (d + a)x + w となってしまった。変数aは事件の当事者でない以上、独自の変数として成立するほど影響力はなく、これも結局xに依存する。石神にとって一番の想定外はやはりw、最後に自首してきた女の気持ちだろう。それまで一貫してクールを決め込んだ石神が見せた最後の剥き出しの感情は、題字にもある「献身」が報われた感情というよりも、自分が作り上げた傑作の数式が、論理的でない予想外の要因で破綻してしまった事への絶望感に向けられていたように感じられる。

最後に作品としての評価だが、前述の通りミステリーとしてのクオリティは非常に高いのでその点は申し分ない。ただ不思議なもので、それが作品としての面白さに繋がるかというと、どうやらそうではないらしい。これは俺の主観的な問題なので当然映画的には「知らんがな」なのだが、破綻のない論理に面白味は見いだせなかった。全てを見ているからその中では神の如く、全ての状況を把握できる俺にとっては、石神すら想定しえなかった変数wも想定内、最後まで論理的な映画だったのである。登山のシーンだけ非論理的(=無駄)だった。


テスト

熊本城

今後もよろしく。

画像はどんな感じかなあ

自動でサムネイル作成してリンクがオリジナルサイズになると思ったがそうではないらしい。

→画像の編集項目に「リンクURL」というのがあるので、そこに該当ファイルを指定するといいようだ。

熊本城は自然の河川を外堀として利用している。最近西南戦争で焼失した本丸御殿が復元された。

改行

アメリカン・クライム ☆☆☆☆☆

サーカスの巡業のため、他人に子供を預けた事から始まる虐待事件の話。

本作は1965年の夏-秋にかけて起こった実際の事件を元にした作品である。この時代反ベトナムや公民権闘争によるリベラル思想の反動から、針の逆振れの如くキリスト教的保守主義も一方で強まったわけで、そんな中起きた実娘の妊娠というアクシデントは、冒頭示された敬虔なる南部バプテストの家族にとってとても深刻な事態だったと推察される。そんな中あらゆるストレスのはけ口となってしまったシルビアは運が悪かったとしか言いようがない。

つまり、ガートルードは決して生来の極悪人でもないし、明確な意図や理由があってシルビアを死なせてしまったわけではないことは、本作の展開を見た上でシルビアが息をせず冷たくなってしまった時の反応を見ればよくわかる。こういう場合に「ガートルード及びその子供達もある意味被害者である」と言えるほど俺は人間を信用していないし、結果から逆算すると断罪されるのは当然なのだが、様々な要因が重なって発生してしまった過程を見ると正直なところかわいそうな気もする。これがいわゆる虐待殺人の心理パターンかどうかは、時代や思想の背景があるしそもそも他人の子供に対してのものだからよくわからないが、現代に起こっている老老介護疲れでの殺人や無理心中に近い心理状態にも感じられる。

よってこの事件は以下の要因が重なって起きてしまった事になる。
・ガートルード及びその子供達が強烈に馬鹿であった。
・馬鹿のくせに(馬鹿だからか?)キリスト教には従順であった。
・そういう馬鹿に騙され他人に我が子を預けてしまった。
・シルビア及びジェニーが優しい子であった。
・最後に時代と生活環境。

また子供達には「服従の心理」の典型的なパターンが見られる。ミルグラムやジンバルドの監獄実験も恐らく同時代だったではなかろうか。子供達の行動の責任は唯一の支配者であるガートルードへと環流されるため、理性の歯止めが利かず、また集団で行うことでの同調・範囲の拡大・その場での責任の拡散も生じてしまい、本作のように悲惨な結果につながる。証言台で語ったそれぞれの口が言ったように、行為そのものは母親の指示であり、なぜそうしたか・できたのかは一様にわからないのである。この「わからない」というのがまさにキモ、理由が無いから制限も無いという心理構造は、こういうプリミティブな状況を客観視すると恐ろしさが際立つ。

作品としての評価だが、この見終わった後の胸クソ悪さはどうしても拭いきれない一方で、事件の心理や思考プロセスも理解できるため、例えば単純に「なんでシルビア警察とか児童相談所的なやつに逃げね~んだよ!馬鹿かお前は!自業自得じゃ!」と憤慨することもできず、そういう意味での理不尽さも無いわけで(さらに実話ベースだし)、結果個人的な八つ当たりとしてこの評価にした。作品自体は非常に興味深い内容だった。


レンタルサーバに移行&CMS変更

 春だ!新年度だ!(といっても勤務先は10月末決算なので新年度でも何でもないのだが)というわけで、サイトの設置先をこれまでの自宅サーバからレンタルサーバへ移行し、ついでにCMSもNucleusからWordpressに変更した。

 変更理由にはいろいろあるのだが、大きなものとしては、セキュリティを考えて毎回パッチを当てるなど、自宅サーバは運用が煩雑だ(勉強にはなるが)と考えていたところに、実家のマシンがウイルスに感染したとの連絡を受けて、サーバに使っていたマシンを送ってあげようと考えたところにある。

 CMSの変更については、NucleusもいいCMSではあったのだが、どうも最近更新が滞っているのと、いまいちマイナーで情報があまりないこともあって、思い切ってメジャーなWordpressに変えてみた。NucleusのプラグインにMovableType形式でエクスポートできるものがあり、それを使うとあっさり移行できたので(WordPressではMT形式エクスポートファイルのインポートができる)、興味がある人は参考にしてほしい。

 使い勝手はなかなかよい。設置は非常に簡単だったし、インポートもきれいに出来た。最近は筆者しか更新していないが元々3人のサイトであるため、3ユーザ作らなくてはならないが、それもインポートで自動作成できた。ただ、鬼畜学園のユーザ名がうまく漢字で入らなかったため、アルファベット標記に変更したことが残念。

 あと、コメントが自動表示されない(編集者の承認が必要)というのも知らなかった。おかげでせっかく頂いたコメントを3日も放置してしまった。すみません。

 ともあれ、心機一転で更新を続けます。