1880年代、かつて列車強盗殺人で名を馳せたマーニーが、引退して10数年後に賞金稼ぎの殺人を実行する話。
ジャンルは西部劇だがど真ん中のそれとは少し趣が異なる。保安官(または正義のガンマン) VS 悪党という構図はそのままに、本来街を守る側の保安官を権力者のデフォルメとして据え置き、街の保守性を維持するために強権的に問題を解決する独裁者の如き扱いになっている。逆に悪党は、そういう保安官の強権によって泣き寝入りさせられた社会的弱者のかわりに、敵討ちを実行する正義側の扱いになっている。
このように立場が逆転することで、通常のガンアクションでは重んじられない殺人の重大さが強調されるように感じられた。通常だと最後の対決に至るまでの過程の中で、そうする必然性が十分説明されるため、見る側は思考の余地無くアクションはアクションとして捉えることができるが、本作のようにアクションの理由に十分な裏付けがない場合、その意味が際立つ印象になっていった。つまり、殺人や死がガンアクション的な必然でなくなったということだ。
だから、売春婦達の敵討ちが風聞とかなり異なるつーか、風聞はメチャクチャ大袈裟であるという現実に直面した際に、悪党側の3人は3者3様の受け止め方をするのである。最も合理的な反応をしたのがネッド、彼は死をもって償わせるほどの罪ではないと判断し、ついに引き金を引けずに舞台からも去ってしまう。ある意味これが一番リアルな反応だ。次にキッドの反応は、理不尽な殺人を実行することで、その重大さに気付かされるというものだが、これも変な話フィクションにおけるメッセージを示すものとしてよくあるパターンではある。
そして異様なのがマーニーの反応である。彼はこの正義が理不尽なものであると気付きながらも、ついにちゅうちょ無く殺人を実行してしまう。その理由は殺人の少し前、彼が死線を超えるかどうかの病気(高熱)から生還したことが影響している。当時の1000ドル(333ドル)がどれほどの価値かわからない以上、あの描写をターニングポイントと捉えるのが妥当だろう。
こうして意味の分からない殺人さえも実行可能となったマーニーにとって、西部劇的な最後のガンアクションは、通常のアクションとはかなり異なってくるのである。つまり通常の大ボスであるところの保安官の存在はシンボル力が薄まって、その周辺にたむろする「雑魚キャラの理不尽な死」が際立ってくる。あの時、保安官の指示に従いネッドをみせしめにした酒場の主人だけが、その殺人の理由を説明されたのみ(覚悟が必要うんぬん)で、まわりに居合わせた保安官の頭数合わせ要因は完全なる犬死に、無駄な死でしかない。この視点の変化が、一風変わった作品の印象に繋がっているように感じる。ヒューマンドラマ的な西部劇だった。