昭和33年頃の東京の話。
本作が2006年の日本アカデミー賞でアホほど受賞し、相当な評価を受けた作品であることは知っていた。また原作の方は高校時代オリジナルを購読していた時、その当時なんやったかな、「龍」「MONSTER」「浮浪雲」「玄人のひとりごと」あたりを読むついでに読んでいたので、あの独特な絵柄で戦後初期を描いた作品であることは知っていた。だから今更なぜ、こんなどストレートなノスタルジック話が評価されるのだろうかと、見る前はその点非常に興味深かった。映画なりの表現方法で、印象深いシーンでもあるのだろうと。
まず冒頭の集団就職シーンからなんだな引っかかりは。(恐らく)東北地方のど田舎から上野にやって来た女学生が、あんな堀北真希のように薄化粧をしたかわいい美少女なわけ、ないだろうが。この時点で「あーこれ系か」と見るモチベーションが相当低下した。仮にあの少女が(最後まで関わる重要な役だが)、ええーーーと今なら誰かな、、、要するにドブス、例えば森三中の村上だったら(年齢的に問題あるな)俺はこの映画のツカミとして相当モチベーションが高まっただろう。「お~エグい!リアルだな~。」とね。
うん、俺にとって情報でしか知らない昭和33年というものはこんなものではないんだ。確かにこういう面もあったろう。物質的に豊かでないがために、豊かさを求めて前進していただろうし、物質が家にやって来た時の情熱はすごかっただろうし(俺の父親も町で一番にテレビが来た家だったらしく、その話はよくする。それぐらい衝撃的だったのだろう。)、近所付き合いも頻繁だったかもしれない。だがもちろんこの理想郷には裏がある。例えば夏はエアコンがないので死ぬ。日本は下水道の整備が遅々として進まなかったので、水洗便所の普及も遅く、家々の夏のトイレは絶対地獄だったはず。さらにボットンだと誤って落ちたりもしただろう。確かに近所付き合いは頻繁だが、その分関係を失った「村八分」状態も存在する。家での会話に近所の人々のうわさ話が入ってくる。現代でも、保守的など田舎の街で生活してみるとわかるはずだ。こんなもんの、どこがいいんだろうか。物質的に豊かになった結果、「物質的豊かさ」を渇望していた時代が良く見えるなんて皮肉な話じゃないか。俺はある程度物質的に豊かな現代を受け入れるし、近所と付き合わなくても問題なく生活できる現代社会ってのは、素晴らしいことだと感じる。要は、コミュニティへの参加を決めるのも自分次第ってことだから。
ストーリーを見てみると、各々のトピックも今やモジュール化されて最早コントの前フリ設定でしか使われないような、見ていてこっ恥ずかしくなるような猿芝居の連続。これが支持されたんだから世の中すげえな。よっぽど70年代の石立鉄男系ホームドラマ、「パパと呼ばないで」や「雑居時代」の方が感情移入できる。試しにこれ、月9とかで当時のをデジタル利マスターして再放送すると意外といけんじゃねえのか。
それになー、これが評価されんのであれば、じゃあ数年前にこういう事象(大人がノスタルジックにやられてしまう)を描いた「オトナ帝国」はもっと評価されていいよ。つーか、これで感動した人には「オトナ帝国」も見て欲しいね。それこそ入れ食い状態で感動するだろう。
見終わった率直な感想としては、これが賞として評価され、また見に行った多くの人々から「感動した」「懐かしかった」などの好評価を得ていると、見るに付け、ああ俺やっぱ、これはもう間違いなく、完っっっっっ全なる事実として、マイノリティ側の人間なのだなあと、これはかつて「ゴーストワールド」などのマイノリティ共感映画でも思い知らされた事を、マジョリティ共感映画で反面的に知らされるという手の込んだやり口で、思い知らされたのだった。その昔思春期頃は、この常にマイノリティ側に居てしまうという性格を、なんだかアウトローな感じでクールであると、そういう美意識は格好良いと感じて、ある意味マジョリティにすんなり身を委ねられる人々を蔑視していたのだが、今はもうはっきりと分かる。「俺はマイノリティである。」という事実!そこにはもう蔑視などなく、ただただ、そういう事実のみが存在している!それを否応なくリマインドさせられた2時間弱だった。
「あいつらは馬鹿だ。こんなもんで感動できるなんてお前、相当お手軽な感情なんだなあ。その頭空っぽ加減は最高にうらやましいぞ。」とかもう言う気は更々無い。これで感動できるのであれば、つーかマジョリティが感動しているんだから、それはそれで本作の役割は達成されているし、需給バランスもそこで成立してるわけだから、こっち側からどうこういう事でもない。つまり結論としては、「こんなもんを面白半分に見た俺が悪い。」ということになる。あいすいやせん。