強盗殺人を犯し、詐欺をやりながら金を作って逃げ回った連続殺人犯、榎津巌の話。
世界の至る所には、過去から現在に至るまでこの映画のように人を(だましまくって/殺しまくって/レイプしまくって/)いくような輩がまれにいるものであり、そういう輩の実話はたいていの場合インパクトがあるので書き物や映像でメディア化されやすい。表面的には、そいつがどうやって逃げ回り、どういうきっかけで捕まったのかという部分が目立ってしまうのだが、肝心な部分はやはり「なぜそいつがそうなってしまったのか」を描くということだ。
これはこの映画の場合、榎津本人が及び知る範囲のものではない。なぜなら、その「なぜ」を知っているなら人として理性というブレーキがかかり、このような連続殺人の事態には到ってないからである。もしかしたら最初のしょぼくれた強盗殺人で歯止めがかからなくなり、ついに5人の因果なき人間を殺めたのかもしれないし、なにか原因があるのかもしれない。その一つが幼少期の父親に対する記憶なんだろう。または、戦後のアメリカ統治下での日本の惨状を見て「あーやってらんねーあほくさ」感が強まったのかもしれない。ただやはり、人として情が移るであろう旅館の女将をいとも簡単に金銭に替えられる神経は普通の人間にはわからんことだし、この映画で榎津を見てきても「そういう人間だから」という他ない。
以上はリアルでの話。この映画はノンフィクション(実話を元にしている)らしいが、父親と榎津の関係性を連続殺人の重要な動機と設定している以上、完全にそうとは言えない。ただそれがありきになってしまうと、尾形拳と三国連太郎という配役はかなりはまっている。こういうヘンテコな狂人を演じさせると尾形拳はぴったりだ。九州出身の自分からしても尾形拳の方言は結構パーフェクトだし、詐欺をやっているときは方言を隠し、本性を見せると方言丸出しになるのはリアリティがある。最初専売公社の二人を、一人は鈍器で、もう一人は包丁で殺すシーンが非常にえげつなくて、それ以降の殺人シーンが意外と簡単に片付けられてしまうのは、榎津の殺人に対する感覚マヒを意味しているのかもしれない。
そう、安い方の包丁を買ったり、何処で覚えたか弁護士や教授の真似したり、ババアに仕送りしたり、死体あんのにそこに住んでしまったり、二人ぶっ殺しつつも質屋には気前よかったりと、やっぱこいつ相当変なやつだ。ミヤコ蝶々がパチンコ屋で言ったとおり、道を間違ってなければ大人物だったかもしれん。
(後付け)
表題「復讐するは我にあり」とは、聖書の引用で「罪の裁きは神にまかせろ」的な意味があるらしい。榎津親子は長崎の五島出身だそうで、あのへんの平戸とか対馬とかは昔からキリシタン(隠れキリシタン)が多かったし、そういうのを含んだタイトルらしい。