やさぐれ姉弟が車で帰省中、へんなジープに絡まれてトラブルに巻き込まれるという前代未聞な話。
導入部分の自然さはよかったが、あの(ルイコスタ+レコバ)÷2のようなバカ弟が「ホラー映画ぽく穴の中をチェックしたい」とかぬかしやがった時から急激に冷めまくった。それが冒頭~10分ぐらい。早っ。
ホラーの導入としてはかなり大昔の作りだな。なぜ今更こんな方法をとったのだろう。もっと観客が納得できる方法はいくらでもあるのに。理屈立てて持っていってもいいし、それこそホラーだから「なんだかよくわかんないけど穴の中に入っちまったよ」でもいい。これさえデビッド・リンチとかで使い古されているが。それがあんた、「死体を見つけるのは市民の義務だから」だとよ。お前ら死んでいいです。
結局最後までどっちつかずな展開だった気がする。最後はなんだかゆる~い超能力者がゆる~いポジショニングで登場してよくわかんなかったし、まあどうでもいいや。
月: 2002年11月
日常の発見
普段何気なく生活している日常。しかし少し注意をしてみれば、意外な発見、いつもと違う一面が見えてくるものだ。
朝、会社へ向かうときに、家のすぐそばにある交差点を渡る。この交差点、今週から信号が分離式に変わった。それに気づくだけで、すぐ近くに小学校があること、子供にとって交差点は非常に危険な場所であること、信号を分離式にするだけでその危険性は格段に下がることなどを一瞬にして思い出すことができる。早朝にしてはいい頭の体操ができる。
駅に着き、ふと線路に目をやると、線路が黒光りし、固定しているボルトが銀色に光っていることに気づく。ああ、線路を交換したんだなと思いながらなおも眺めると、一つだけ、さび付いた古いボルトが残っていることに気づく。なぜ?これは取り替えられなかったのだろうか?そんなことを考えながら通勤電車に乗り込むと、退屈な通勤時間を無駄な悩みで潰すことができる。
通勤電車内にて本を読みながら時間つぶしをしていると(ちなみに俺が通勤電車にて読んでいた本は、先週は「DT」(みうらじゅん、伊集院光著)、今週は「公認野球規則二〇〇二」だ)、ふと目の前に美人なお姉さんが座っているのに気づいたりする。それだけで退屈な通勤時間でも妄想による暇つぶしができたりする。
とまあ普段生活をしている中でもいろいろと発見はあるのだが、まあ上に挙げたことなどは単なるつなぎであってどうでもいい。実は今日、ついさっき、一年半ぶりに炊飯器を使った俺は、ちょっとした発見をしたのだ。
ご飯ってうまいね。
というわけで、俺は今日からちゃんとご飯を炊き、ご飯とみそ汁の食事をとり、健康的に生きていこうと思います。応援してください。
なお、1000ヒット記念に、http://abeasami.com/sistercomplex/という転送URLを申し込みました。これからこのサイトは安倍麻美ファンサイトになります。でも別にコンテンツは変えません。
ロッキー3 ★★★★★
チャンピオンとして不動の地位に落ち着いたロッキー・バルボアの前に不逞な挑戦者があらわれた。
今回もまたバカな話から始まる。挑戦者はハングリー精神丸出しでストイックに練習、方やロッキーはあからさまに適当な練習風景。またこの挑戦者も特攻野郎Aチームのコングとそっくりな奴で、すごくハングリー精神丸出しぷりが似合う、いかすナイスガイだ。
結局ロッキーは一度このコングに負けるのだけども、そこに現れたのが前回までの前振り芸人アポロ。この前々世界チャンピオンのおかげでハングリー精神を取り戻し、あとはロッキーぽく熱く進行する。
でもまあ、なんつうかその今回はエイドリアーンなかったね。代わりにアイ・オブ・ザ・タイガーがテーマ曲になったのかな。
ロッキー2 ★★★★★
前回の激闘で賞賛されたロッキーがいろいろ。
話は前回の終わりの方から始まる。そしてロッキーはまさしく成り上がりもんといった感じで散財し、瞬く間に落ちぶれていってしまう。このへんなんか、現実でありそうな落ち着き方に忠実でいい。そこに追い打ちをかけるのがあのバカチャンピオンアポロ。このバカがいるおかげで物語は進行しているといってもいい。
でもまあなんつうかその、これもまたエイドリアーンだよね。
ロッキー ★★★★★
場末の拳闘場で日銭の試合を重ねていたやさぐれボクサー、ロッキー・バルボア。突然世界チャンプとの対戦が決定しててんやわんや。
ひとつのアメリカン・ドリーム寓話であると同時にこの作品によって監督・脚本・主演のS・スタローンもまたリアルワールドでアメリカン・ドリームを突っ走ることになるというこれまたひとつの、またスタローン自身にとっても金字塔でしょう。
まあなんつうかその、エイドリアーンだよね。
フィクションだと思ってもらえれば。
金曜日。今週も終わった。あっという間に終わった。定時までに仕事を終わらせ、時間が来ると同時に同僚のおじさんをおいてとっとと職場をあとにする。
最近、人と会話を交わすということが極端に少ないような気がする。いつも愚痴っていることだが、俺の職場には、俺の他には40歳のおじさんしかいない。ただでさえ話が合わない上に、このおじさんは中国人で、日本語がそれほどうまいわけではない。勢い、会話の内容といえば、おじさんが話す中国の話や、おじさんのお子さんの話を俺が聞くというスタイルとなる。俺を知っている人はわかると思うが、俺は普段自分が言いたいことをしゃべりっぱなしにすることが多く(それはそれでかなり問題があるが)、俺のどうでも良い話を相手がスルーして、「ねえ話を聞いてよー」と俺が返すのが一種のコミュニケーションとなっている部分がある。しかし、俺が適当な話をしたところで、このおじさんから「え、何?」と逆に聞かれてしまい、「いえ、どうでもいいことなので良いです」と返す以外なくなってしまうので、だんだん俺からしゃべるということが無くなり、最近では仕事の話以外は(これも同じことを3回くらい言わないと理解してくれないので結構ストレスがたまる)天気の話くらいしかすることが無くなってしまった。
そのほか、お客さんや、連携して作業をしている別会社の人と話すこともあるが、あくまで仕事の上での話、日常会話は無い。唯一まともに日常会話が出来るのが、週に一度だけ来る俺の上司とだ。はっきり言ってこれほど上司を心待ちにしている(しかも仕事以外で)部下もいないと思う。しかしこの上司も今月いっぱいで退職する。
いったい俺は何をしているのだろう、何処へ行くのだろう。最近一人になるとよく考える。どうやら仕事ではある程度評価されているらしいが、今の俺にとってはそれよりも人と触れ合いたい。仕事以外が空虚だ。忙しいならともかく、現在の暇な状態でそれなら救いようが無い。
恵比寿で途中下車し、バッティングセンターに寄った。一人で屋上に上がる。そこにいるのは暇を持て余した学生、バットを持ち込んでいる気合いの入った二人組、そして多分コンパまでの時間潰しなのだろう、男1人と女3人のグループ。そんな中、一人スーツでボックスに立つ。無心でバットを振る。90スイング中、納得のいく打球はほとんど無かったが、それでも体を動かすのは気持ち良い。ボールに集中するとくだらない悩みも忘れられる。
打ち終わり、乗換のため渋谷へ。金曜の夜だけあってたくさんの人がいる。蛆虫のように。カップルの群れとは逆方向に向かう。家を目指して。
帰り際に急に寂しくなり、何人かの友人に連絡を取ろうとしたが捕まらなかった。週末だし、急に連絡を取ろうとしても無駄だとはわかっていたが、一人で帰るのはやはり寂しい。帰りの電車内でカップルを見つめていると、自分の居場所はもう何処にも無いのではないかと急に考えてしまい、気づくと涙ぐんでいた。
寂しさを紛らわすためにワインを買って帰宅。とりあえず今の俺にはここしか帰る場所は無い。飲むととりあえず陽気になれる。落ち着いて寝ることが出来る。アル中の奴のような行動だが、俺の場合は基本的に週末にしか飲まないので大丈夫だろう。
土曜日も一人。日曜日も多分一人。土曜日も一人で飲んだ。日曜日も多分一人で飲むだろう。土曜日は何処にも行かなかった。日曜日は何処かへ行くだろう。土曜日はしゃべらなかった。日曜日は…、店員とはしゃべるだろう。ああ、旅に出たい。人と会いたい。何処かへ消えたい。
明日は原付でも買いに行こう。それで何処かへ旅に出よう。…そんなことを考えて何ヶ月も経つが、いまだに行動は起こしていない。自分の行動力の無さにうんざりする。
携帯の電話帳を見る。八割方は恐くて掛けられない。自分の交友範囲がどんどん狭くなっていくのを感じる。なんとかしなければ。引き篭もりの人はすごい。俺は人と会話が出来なければ耐えられない。引き篭もることが出来ない。外の空気を吸わなければ死んでしまう。ああ、出会い系サイトでも使おうか。メールは大嫌いなんだが。それ以上に自分を必要以上に卑下してしまう俺の性格では誰も相手にしてくれないだろうが。
月曜日、多分何事も無く一人のサラリーマンが出社するだろう。そしていつものように、張り付いた笑顔とむっとした顔を使い分けつつ、淡々と仕事をしているだろう。半笑いの生活。薄っぺらな生活。自分のプライベートなことなどもう忘れようか。しばらくお仕事マシーンとしてのスキルを上げることに熱中しようか。そんなことを考えながら、その日もキーボードを叩き、電話を取り、書類を書いているだろう。それの繰り返し。でもそれこそが「日常」なのだろう。「非日常」を演出するための手段。さあ、明日も「日常」を一生懸命に生きよう。
日曜日と香取慎吾と外国人
日曜日。することがない。暇だ。ああ。
そんな時は音楽聴いたり漫画読んだり「ああ暇だ」と一人で呟いたりするわけで、特に見たいものがあるわけでもないのにだらだらとテレビを見たりするわけ。そう、だらだらと。かといって、何故に俺の生活はこんなに充実してないんだ、と今さら嘆いたりするわけでもなし。まあ、こんなもんっしょ。
テレビにおける日曜日の午後~夕方の時間枠なんて、こんなだらだら人間のためにあるようなものだろう。この時間帯で積極的に見たいと思えるテレビ番組など、はっきり言って皆無、皆無、皆無。どうでもいいような芸能人の案内による旅番組なんぞを熱心に見る輩などいるだろうか(いや、いるまい)。せっかくの週末だというのにすることのない人間が、まあ、こんなもんっしょ、とか思いながら見るのである。テレビ側もそれを存分に承知しているから、番組内容は非常にゆるい。そして我々もゆるくて当然というスタンスで視聴するので、文句など出るはずもなく、そうやって世の中は進んでいく。
で一昨日たまたまテレビつけたら「天声慎吾」が。まあ見るでしょ、当然。ゆるい番組だし、こっちもゆるさを求めてたわけだし。だから、見る。何か出演者が外国人を何人笑わすことができるかという、ほかでも何回も見たことがあるような企画をやっており、心が相当ゆるい状態であった私はゲラゲラ笑う。ゲラゲラ笑った所でCMに入り、ゲラゲラ笑ったからもういいや、テレビ消そう、ということで消す。はい、おしまい。
そう、そこではい、おしまい、ゲラゲラ笑えてよかったね、で終わるのが我々視聴者である。出演者やスタッフにしても、日々の仕事をこなしたに過ぎない。だがある人々にとっては、この番組は日常とは程遠い体験になった。それは言うまでもなく、牛乳を口に入れさせられ、目の前で日本の芸能人がわけの分からないことをするのを見るはめになり、平たく言えば全国ネットでさらし者になった外国人たちだ。
この差は一体何なのだろうか。なぜ彼らはさらし者になって、我々はなってないのだろうか。なぜ彼らは香取慎吾やキャイーンを生で見ることができて、我々はブラウン管を通してしか見れないのだろうか。理由は簡単だ。彼ら、外国人、我々(てゆうか少なくとも私)、日本人。外国人である、ということに関しては、我々日本人は彼らの足下にも及ばないのだ。
そんなのずるいじゃないか、彼らは外国人ってだけで、我々より優れてるわけでもない。それなのに何でSMAPの一員が目の前で一所懸命ギャグをしてくれるんだ!などと不平を言っても無駄である。滑稽ですらある。負け犬の遠吠えとはまさしくこのこと、テレビの世界では外国人というのは、それだけで付加価値を有しているのだ。もちろん誰しもがデーブ・スペクターやセイン・カミュの領域に達することができるわけではないが、一昨日「天声慎吾」に出てた外国人たちはその世界の最下層であることは間違いないが(てゆうか素人だろ、というツッコミは無視)、何の付加価値ももたないそこら辺のやつよりはやはり価値があるのだ。
思えば私にも「外国人」という肩書きを欲しいままにしていた時代があった。アメリカに住んでいた頃だ。しかし私はその付加価値を有効利用することは全くしなかった。10年近くアメリカに住んでいたにも関わらず、口の中に牛乳を入れて、生でアメリカの芸人に笑わされてそれを吐き出すというような体験を何一つしなかったのである。外国人なのに、だ。悔しい。ものすごく悔しい。また始めからアメリカ生活をやり直したい、とすら思う。
というわけでみんなも付加価値はあるうちに使おうね。って俺に言われたくないか。
山の郵便配達 ★★★★☆
中国の山奥で郵便配達員をやっている親子の話。
これは各家庭の方針によってそれぞれ違うであろうが、俺の実家では晩飯のときに大体テレビを付けたまま飯を喰っていた。その場合プライムタイムに見る番組の選定に少し考えるべき所があって、要するにエロトークがあるような内容の番組を見るのは好ましくない。飯の席が大変気まずくなるからだ。よって当時かなりコアなダウンタウンファンであった俺は、月曜8時には「HEY HEY HEY」を見ながら飯を喰いたかったけれども、彼らはこの時間帯でも平気で地雷を撒くというのは前々から知っていたため、仕方なく同時間帯で無難な「世界丸見えなんとか」という番組を見ながら飯を喰っていた。
今思えばHEY HEY HEYなんて半分はクソな歌の集まりだし、DTも一番手を抜いてる番組だし、それが今でも続いているというのがよくわからん。一方で世界丸見えもまだ続いているようである。ちなみに昔のDTDXは、普段DTが交わらないようなゲストを呼んでの一時間トーク番組だった。それが今は下世話な不良債権芸能人の吹き溜まりになっているのは悲しいことである。
すげえ前置き長いな。まあその、かつて飯を喰いながらよく見ていた世界丸見えで、この中国山間部、過疎の山村特集というのがよくあって、その中でもこういう郵便に限らず配達系のドキュメンタリーは多かった記憶がある。
でやっと映画の内容だが、こういう淡々とした進行はいいと思う。特段イベントはなく、それよりも父子の情の交わりを描いた感じ、それが表情に表されるというのは清々しい。
ただ終わり方が納得いかない。これからやっと始まると思ったときにバッサリと切られた。本作にクライマックスなど求めてはいないが、じゃああの女はなんだったのよとか、これから彼はどうなるのよとか、その後の予想が頭の中でも巡らないぐらい、ブチ切られる。ここが口惜しかった。
エル・マリアッチ ★★★☆☆
ギターケースにギターを入れてる歌手と、ギターケースにマシンガンを入れている悪人。おれがあいつで、あいつがおれで。
監督とか脚本とかにロバート・ロドリゲスの名前があったのでたぶんそうなんだろうが、内容から見るにこれはあのデスペラードができる前に作られた作品だと思われる。配役もデスペラードに比べてしょぼいつーか、全員知らんし。
内容はもうハチャメチャ。理屈で考えたら矛盾だらけで、歌手はやたらとマシンガンの扱いに慣れているし、本来歌手よりも当然うまいはずのギャングどもが歌手に打ち抜かれたり、出し抜かれたりと、おいおいそりゃねえよいくらなんでもドジですよあんたとつっこみいれたくなるほど、あのギャングバカ。
しかし本作の場合そこは枝葉末節で、内容から察するこの限られた予算の中で見せたい部分は銃の打ち抜き方。始まりからしてかなりいい感じの映像になっているので、内容の矛盾なんて構わず酔いしれることができる。
その点、後半から映画の体裁を保ちだしたつーか、なんとか終わらせようということでなんかもう、無茶苦茶な話になってしまい最後の最後でその枝葉末節の長回しにより気にかかったてのがあった。
ソードフィッシュ ★★★★★
95億ドルが是非欲しい兄ちゃんと、それを手伝わざるをえない状況にさせられてしまうハッカーの恋愛物語。
まず内容以前に、映画の最初から最後まですごくカッチリ作ってある印象がある。物語であるから多少の理不尽や都合の良さはあるけれどもそれは流れの中で無視できる程度であり、たぶんハリウッド映画であるから莫大な予算があったと思うが、本作の場合かけるべきポイントに金をふんだんに使っているので見せたいポイントがいい感じに仕上がっている。それ以上に見ているこっちが物語に引き込まれていってしまうのがわかる。おもしろかった。
だからして、やっていることは長年培われたハリウッドエンターテイメント映画の形をとっているものの、やはり時代とともに洗練されている。最後の裏切り方にしてもしかり。爽やかな裏切られ方は後味が全く悪くない。これぞエンタテイメント。
冒頭で最近の映画はリアリティがないからつまんねぇよべらぼうめとあの男が語っていたが、そもそもハリウッドエンタテイメントにリアリティなんて前から無い。マシンガン撃ちまくりながら街中カーチェイスなんてHALOじゃあるまいし、現実に起こりうるわけがない。では映画の中でのリアリティといえば、それは登場人物がその映画の中の現実にどう考え、どう行動するか、それを見ている側が納得できるかどうかだと思う。その点本作はそれぞれが自分の思いに忠実に動いているので、要するに見ていてもどかしいということがない。これも鑑賞がスムーズに行った理由であろう。
その点アンチヒーローである虎ボルタ&ねえちゃんはテロにテロする組織を作り上げたし、ハッカーは娘ともらった金で二人旅、そこには演出上の正義感なんてのはなく、悪は最終的に罰されていないし、己が意志にそれぞれ忠実である結果だというのがいい。最後の虎ボルタの笑顔がこれでいいんじゃねえのと思わせてくれた。