市民課課長、渡辺(志村喬)は時間を”埋め”ていた。彼にとっての日々は、ただ過ぎてゆくのみである。そんな彼に衝撃的な出来事が起こり、それがきっかけとなって今までの人生の無意味さ、またこれからの生き方を模索し始める。今見ても何ら遜色ない黒澤作品の凄さは、人間の永遠普遍のテーマを正面から取り組むことにある。
いのちみじかし こいせよおとめ
人間にとっていきるとは何だろう。自己実現、成り上がり、歴史に名を残す、単なる時間潰し、諸説あるがこの映画のテーマのように、生きている時は”いきる”実はまあ、ない。残念ながら日々の雑然とした生活・憂い・享楽など数多のものに、その人間の本源的な問いは封殺されてしまうのである。特に安定的な社会では。
若ければ若いほど、生に対して真剣になりきれない、つまり死に対しても真剣になりきれない。若ければ本質的に死なない”だろう”と思っている。現に渡辺が”いきる”事を模索しだしたのも、直接的な死が真剣の舞台に登ってきたからである。結局我々が”いきた”心地を感じるのは、その日その日を真剣に生きる、とてつもなく難しいことだがこれしかないだろう。
映画ではこれらのテーマを蕩々と語る。”いきる”事のわからない渡辺は、とりあえずの快楽に走るふりをするが、生来の性分がそれを受けつけない。彼がたどり着いたのは「活きる」事、自分の範囲内でもがいてみせる事である。
しかしこれで話は終わらない。このような「活きる」姿勢を目の当たりにした市役所の職員、彼らもまた渡辺に習おうと決めたものの、できない。それもまた人間。生に対して真剣であることは相当のパワーと意志が必要なのである。
月: 2001年6月
たどんとちくわ ★★★★★
自分の思い通りにいかなすぎる世の中に、腹の中で不満が鬱積しているつかえないタクシードライバーと売れない小説家。日常のほんの些細な事がきっかけとなって、ついに不満が外に向かってしまう。その爆発の方法があまりにも身勝手で、これこそシュールな笑いといえるのでは。
まずはたどんの方。たどんとは炭団、燃料の類らしい。本編には全く関係ない。ただ「たどんって何だ」って思ったからなので。
タクシードライバーというものは基本的に愛想が悪い。そんなにタクシーに乗る機会はないが、いままで乗った印象で悪いと思うのである。チャリ乗っててイチャモンつけてくるのは圧倒的にタクシードライバーが多い。最近はMKタクシーみたいなのもあるらしいけど。
だから客が乗り終わった後で一人、乗り終えた客の文句を垂れ流す、これは考えられることだ。結構そう思う。しかしそのタクシードライバー的「礼儀」、それを突き詰めると本作のように客の前で悪態ついたり、場合によっちゃ拳銃で脅す、これは健全な礼儀の突き詰め方なのである。いや、殊笑いとすれば。だから面白い。
つぎにちくわ。売れない作家という設定はよくあるが、往々にして彼らが世間に”復讐”する、このワタクシの才能を認めない、いや蔑みさえしてくるような感覚を覚えるとき、その反抗のやり方はショボいものなのである。それこそ売れない作家たる所以だ。
初っぱなからそれを壊す。おでん屋にケチを付け、おでんに小便をぶっかける。自分以外の(表面上)楽しそうなバカどもに斬りつけ、異星人の血の雨を降らせる。彼にはそこら辺の凡人どもは異星人に見えるらしい。
たどんも、ちくわも、絶対現実に起こり得ないことではあるが、なんか起こりそうである、いや頭の中では既に色々な人のなかで起こっている事なんである。それを実行に移した両者、それゆえにシュール、腹からわき上がる笑いではないかと思う。
ALIVE(生きてこそ) ★★★★★
アメリカのある大学のラグビー部が、セスナで移動中吹雪に遭い機体は地面に激突!真っ二つになる。下界との交信手段はない。こういう状況でどういう風に人間が行動したのか、ノンフィクションというから凄い。
雪山遭難という絶望的な状況で、よくも12人だか生き残ったことにまず敬服する。
この映画のテーマは「生きる」という大テーマと、もうひとつに「カニバリズム」というテーマがある。自分は宗教、哲学、またそれが殊人肉主義となるとほとんど知らないのだが、こういうことはこの映画のような極限状態に追いつめられないと凡人には考えも及ばないようなことなので、もっともではある。
何処だかの原住民に、死者の肉を食ってその魂を食った者に宿すといった風習があるらしいが、これは宗教でも人間倫理の問題ではなく、あくまで「習慣」の話だ。いわば我々日本人が鯨を食うようなものだ。
遭難者は、不可知論者と言っていた奴を除いてはすべてキリスト教者だった。そういった確たる信念が在るような人が、その信教に抵触するような行為を犯すのはどういった心境なんだろう?自分は無信教であるから宗教上の呵責といったものは起こらない。だからよくわからん。
しかし彼らは人肉を食った。物語の冒頭で生還者の一人が事故から10数年後に振り返るところで、「あの状況にならないと、自分がどう行動するかなんて誰にもわからない。」と言っていたが、ほんとそうだろう。キリスト教者でさえ人肉食ったんだから、もうなにが起こるかもわからないし、自分がどう行動するかも及び知れない。ただ一つだけ言えるのは、恐らく「生」に向かって行動するだろうということ。
その結果彼らは全員じゃないにしても、とにかく生き残った。ラストで緑ある山々を見た時、またヘリコプターの音を聞いた時、まさに「生きてこそ」なんぼじゃ、と感じたんじゃなかろうか。
地獄の黙示録 ★★★★★
ベトナム戦争中にアメリカ軍の敏腕大佐が消息を絶った。それを受けて探しに行くよう命ぜられる中尉。探しに行く過程で、そして大佐が見つかってから、中尉はどうなっていくんだろうか・・・?
大佐が中尉に理解して欲しかった事は何か。それは狂気と恐怖は紙一重だということだと思う。
大佐自身、ベトコンが狂気を狂気と認識しないところに魅せられ、そして自分もまた一時的に狂気に陥る。しかし一方で彼は自分が狂気であることを次第に恐怖し、また狂気であったと喧伝されることにも恐怖している。彼はベトコンのシンボルとなったため、恐怖を友にして表面的に狂気でありながらその事実に苦しんでいた。
そこで中尉に自分を解放して欲しかった。それは中尉が捕えられてから、生首や吊した死体、またシェフの生首を中尉の所にもってくるなど、狂気のポーズを見せておきながら、息子のことを気にかけたり、最後に「爆撃で殲滅せよ」という言葉を残したりと、それとなく中尉に示唆しているシーンから見える。
一方中尉は大佐の考えを理解し、大佐を殺した後、恐怖を友にしてベトコンをひれ伏させた。カメラマンの言葉「彼(大佐)が死んだら人々はなんと言うだろう。彼は優しく賢明だった。創造力に富んでいた。彼の真価を伝えられるのは俺じゃない。お前(中尉)だ。」カメラマンもやはり、大佐のジレンマを感じていたのである。
この映画は、戦争の恐怖の面を一貫して描いている。殺人の倫理は戦争映画で明示的に現れやすいが、生死の極限状態では、一見狂気で殺すように見えるが、その根底には恐怖があるのだろう。
恐怖を友にすることと狂気であることは異なる。大佐と中尉は前者。ベトコンは後者。ベトコンが二人にひれ伏したことで表面的には違いはわからないのだが、狂気は殺しを裁かないが、恐怖は殺しを裁こうとする。大佐が狂気に惹かれたのはここかもしれない。しかしやはり狂気にはなれなかった。狂気と恐怖、紙一重で大佐は恐怖に駆られたというところか。
ラストで大佐を殺すシーンと、狂気の祭の中でベトコンが牛を殺すシーン。また大佐がポーズとしての狂気の会話をテープに吹き込んでいるシーンは象徴的だった。
パルプ・フィクション
ヴィンセントとジュイスは、マセールスをボスとするギャングの一員。マセールスから命じられ、あるスーツケースを取りに行くのだが、その間に起こる、またその後に起こるギャングの非日常風景を、時間軸をずらすことで、短編映画のおもしろさと同時に、各シリーズの顛末を強烈に印象付け、結局はすべてが一つに繋がる手法はこの映画ならでは。
クエンティン・タランティーノ監督作品第二弾。まず感じるのはその圧倒的スピード感。これは「鮫肌男と桃尻女」にも通じる、映画全体を通じてのスピード感だ(どっちがどっちに影響したかと言えば、まあ作られた年から考えるとパルプが先)。結末を早く知りたいというものでなく、映画の展開が絶妙でそれに酔ってしまってあっという間に終わってしまう。150分が短く感じるんだから凄い。
印象的なのは、殺しのやり方が色々あってその間をどうしようもない理屈と「ファック」の連呼で埋めてあるというタランティーノ流の面白さ。例えばチーズバーガーのヤツには仕事の殺し、カマ掘り野郎には怒りの殺し、ブッチは衝動の殺し、ヴィンセントは間違って殺し、そしてジュイスが行き着いたのは殺さない。その間にメタクソな雑談を交わし、気の利いたセリフがある。実はそれが一番大事だっちゅうぐらいにどうでもいい会話はあちこちにある。
殺す前に話して聞かせるという聖書の一節、要は「正しい行いをしようとする者を邪魔するヤツには懲罰的な制裁を課しても構わない、むしろそうすることが神の意思である」ということだが、自分が神懸かり的に死を免れると、神の存在を近くに感じたとかって急に殺しをやめてしまう。
この映画の中の人間にとって殺すなんて屁でもないことなんである。だから間違って殺したり、急に殺すのやめたり、またクソが終わってトイレから出たら殺された、なんてマヌケな死に方をする。
ギャング映画で重要なファクターである銃殺しが結構いい加減に扱われ、ヤク中を介抱したり、脳ミソをふいたり、バレーボールの格好をしているのが妙におかしい。なんだか日常のギャングとは違う、変な感じの奴らなんである。一番強くてかっこいいはずのボスが掘られるし。
一見非日常的光景に見えるこの話も最も日常的なギャングの光景で、どうしようもない仕事で気疲れしたり、突然神に目覚めるのもギャング的な格好良さの裏っ返しの格好良さ、「格好良いことはなんて格好悪いんだろう」の裏返しの格好良さのような格好良さをジュイスやヴィンセントに感じずにはいられない。
初見の衝撃はでかいと思います。是非見ることをお勧めします。
野獣死すべし ★★★★★
ある晩刑事が何者かに殺され拳銃を奪われる。そして隠れ賭博場での殺し。さらに銀行強盗騒ぎ。犯人の目星をつけた刑事が追跡するが・・・。
松田優作演ずる主人公は所謂キレ役で、見事にはまっている。その緩急というかキレ具合が異常だ。一般の人間はもちろん自分を愛する者をも躊躇なく殺し、相棒を殺し、果てに殺されるという、「殺し」と言うか「死」に対して躊躇がないとこが凄く印象に残った。
前半でも所々でわかるのだが、後半部で明らかとなる優作演ずる殺人鬼のトラウマ的殺しに対する欲求、その欲求が殺しの「快感」ではなく、殺しそのものを求めていること、またそれを演ずる優作の姿は鬼気としたものがある。
この映画で象徴的なクラシックの音楽、それには死のイメージがある。協奏曲なんていろんな楽器が組み合わさってなんだか死者を奉って迎え入れるようなイメージなのである。ロックの衝動とは対照的に、だから好きなんだが、まさしくこの映画にふさわしい音楽なんじゃないか。
初めて殺人を犯した相棒が恐怖しているシーンで、「君は人を殺したから恐怖を感じているんじゃない。人を殺すことに快感を覚え始めている自分に対して、とまどいを覚えているのだ。」「いいんだ。それでいいんだ。いいか、君は今確実に美しい。それは神さえも、否定できない事だ。」優作が語りかける。相棒役の鹿賀丈史はアフロヘアなのだが、それはもう確実に美しい。本当に美しい。このシーンは本当に衝撃を受ける。
レストランでウェイターの鹿賀が、優作に「なに見てんだコラ」とふっかけたあとに、優作得意の「死んだ目」で睨まれたじろぐシーンなど、何気ないが印象に残る。見せ場はもちろん何気ないシーンでさえも圧倒的な存在感。凄い。
この演技は、演技を超越して松田優作の人格のひとつに既に存在するものだからこんなにはまっているのかもしれない。
2001年宇宙の旅 ★★★★★
人類創世記、ヒトは武器を手にして文明を築いた。時は流れ2001年。宇宙まで進出した人類は月に黒い石版を発見する。果たしてこれは何なのか?そして人類はどうなる?スタンリー・キューブリックの描いた一つの未来の形。
この映画の核となる黒い石板は3回登場する。1回目は「人類の夜明け」のところで、それまでなんの知恵も持たない初期の人類に、黒い石板が「道具を使う」という知恵を授ける。その知恵を持って、道具を使える人間が圧倒的な優位に立ち、その後進化していくという意味がある。あの武器ぶん投げ→宇宙船の場面転換は、圧倒的な科学進歩を描いているということだ。あの一瞬でそれを描く発想は素晴らしい。
2回目は2001年の宇宙、月の地中に黒い石板が埋められていたのを人類が発見した。つまりそれは、人類が「月に到達し地中の石板を掘り起こせるほどの文明を得た」と言うことを意味する。
3回目はHALコンピューターを超越した人間が、木星で遭遇する。
要するに黒い石板の意味は、人類を作り出した神が人類の発展の度合いを確認し、そして最終的に人類の中から最も優れた人類を抽出することにある。ここまでの話で自分としては、新人類の誕生を描いたものだという解釈を得た。
ただ話はこれで終わらないらしい。地球はその選ばれた人類に与えられる玩具らしい。しかし選ばれた人類である人間(ボウマン)が、確かにコンピューターを超越したが、同乗の宇宙飛行士を宇宙に放つという、自己の恨みを晴らすために利用したために、最終的に誕生→消滅の無限ループにさらされてしまうという。つまり、最後の石板が突如老衰した選ばれた人類の前に現れ、赤ん坊のシーンに移るのは、神が欲にまみれた人類を、やはり抽出するのにふさわしくないものとして、罰を与えているのだ。
これをみてすぐ思いついたのが、手塚治虫の「火の鳥」と「ジョジョ」だ。火の鳥のテーマは突き詰めると「輪廻転生」「因果応報」だし、ジョジョのテーマは人間賛歌。とくに第二部の最後、カーズが人類を超越した人類となり結局、生の無限ループに陥る、第五部のボスが「死ぬ→死ぬ前」の無限ループに陥るシーンは、もろにこの映画の影響を受けているんだろう。そういうふうに考えてもういっぺん映画を見ると、非常に深い映画だ。
鮫肌男と桃尻女 ★★★★★
桃尻トシ子は親戚の叔父の経営するホテルの従業員。刺激のない生活に嫌気がさしている。そこに突然現れたヤクザとなぜか一緒に逃げる。
凄い映画だった。全体に漂うスピード感だけとってもこれまでの日本映画にあまりないものだ。日本文化と相まって、これまでの日本映画はゆったりと流れるテンポのものが多く、それが一方では泥臭さにもなりまた一方では趣きとなって多数の傑作が生まれた。
しかしこの作品のスピード感は現代っ子監督ならではの感覚だ。これは大げさに言えばハリウッドの既存のエンタテイメントに対する挑戦状だろう。
鮫肌=浅野忠信、トシ子=小日向しえ、という主役がまずいい。浅野は言うまでもなくかっこよく、小日向しえという女優は初めてみたんだが、この人もこの映画の雰囲気にかなりあってて、「演技せねば」的素振りを微塵も見せずあくまで自然にやっている。二人の行動も車の中の会話も、ほんとにどうでもいいことでそのどうでもいい中に魅力が溢れている。世を跋扈するエセ女優は死んで欲しいと思う。
浅野の鮫肌は原作のイメージにしっくりきて、もうこれ以上はいらないってほどに彼だけで満足できる。男でも松田優作と浅野忠信には惚れる。
脇役もすばらしい。鮫肌を追いかけるやくざのボスが岸辺一徳。若頭が鶴見慎吾。鮫肌の元相棒が寺島進。とくに岸辺一徳がいい感じ。原作の田抜以上に田抜っぽい。鮫肌とのトランシーバーでのやりとりなんかもう、凄くいい。映画でああいう感じって、ほんとあるようで無いんだよな。
肝心なのは映画独自のキャラの山田だ。これを演じたのは我集院達也(若人あきら)。太字にする理由もわかるだろう。主役を食わんばかりの楽しさだ。しかもたぶんありゃ演技じゃない。監督にも「そのままでいいです」とか言われたんだろう。
この石井克人監督、もとはCM監督らしいがそのCMでもアスパラドリンクのCMの第一作目に我集院を起用してるし、次回作「PARTY7」でも浅野・我集院を起用している。よっぽど気に入ったんだろう。そりゃ気に入る。
映画が原作を超えてる大きな部分は、この山田だ。彼(というか我集院)の笑いがこの映画にピッタリ、それを汲んで映画ができていることが凄い。これで終わりかと思ったらまたクライマックスでおいしいところを山田がもっていくし。もう山田がメインと言ってもいいぐらいだ。
これは世界に通じるエンタテイメントだ。日本が世界に通じるのはアート作品だけじゃなく、エンタテイメントもあるという一本でしょう。
ウディ・アレンの影と霧 ★★★★☆
霧が濃いある夜、わけもわからず自警団の連中に呼び出された男、彼は連続殺人魔を捕まえるという大それた羽目になってしまった。一方サーカス一座の芸人女、彼女は恋人の浮気に腹を立て街を徘徊していた。流れに任せて動く両者、運命とは身を任せるものなのか、それとも切り開くものなのか?
まず驚いたのは、本作が1992年の作品であること。モノクロ映画で、しかも話の筋やディティール等、戦前の喜劇のような作風なのでそれがかえって新鮮だった。そういえば見てるうちに「こいつマルコビッチっぽいな~」と思って見ていたんだが、なるほどそれなら合点が行く。
本作は男(ウディアレン)とその周りの人々とのやりとりから、彼ら独自の観念を男にぶつけて、見ている側にもその観念を認識させることで全編がつながっている。連続殺人魔自体は話の本筋ではなく、それを元にした人々のやりとりが本作の見所だといえる。
コメディ仕立てがかえって普遍的なテーマをサラッと投げかけ、気付くまもなく次から次に、そしてそんな中に男も女も自分なりの答えを見つけ出し前進する。この奇妙な霧の濃い夜の話、それはとんでもなくイレギュラーなひとときでもあり、また日常の出来事の積み重ねでもあるようだ。
blood the last vampire ★★★★☆
小夜がオニと戦う。
48分と非常に短い映画で、実際すぐ見終わってしまう。それだけにストーリーもそんなにひねったりすることなく、まあアニメらしいといったら至極アニメらしい映画ではある。ただこの映画が他のアニメ映画と異なる点は、それが単なる映画としてでなくて、”未来のアニメの習作”的ポジションで作られている点だろう。
アニメにCGを合成するのは(というかコンピューターでアニメをつくる)、3・4年前からあったようなことで、例えば「青の6号」とかはもう、フルCGでできたようなアニメでストーリー云々かんぬん以前にアニメの可能性というか、実写との棲み分けのような、これまた”未来のアニメの習作”だったわけである。
でまあそれを凝縮して48分で見せたのが本作で、これが寺田克也の絵をもうバリバリに使いまくり、妖怪大戦争になってる。妖怪が咆哮をあげるシーンは実写映画以上に映画映画しててかっこいいし、アニメならではの素材よろしく、この世のものでない映像が血をブシャーっとぶちまける様、大層なものを見せてもらった。
一応ストーリーの含みもあるわけで、小夜がぽつりと漏らす一言に後々わかる含みがあったり、初っぱなで「オリジナル」というフレーズがありそのタイトル、これはつまりそのあああれかと、そうしたらばラストに自分でぶった切ったオニさんを愛でる小夜の図、ということも納得できるわけである。
アキラののりが好きなら、面白いんじゃなかろうか。