ナチュラル・ボーン・キラーズ ★☆☆☆☆

現代版ボニー&クライド。ミッキーとマロリーは、誰彼かまわずブッ殺しまくる猟奇殺人者として警察に追われるが、マスコミの過剰な報道により彼らの行動はカリスマ性を帯び、やがて彼らもそれに酔いしれる。警察は威信に懸けて逮捕したが、それはナチュラル・ボーン・キラーを呼び起こすきっかけにすぎなかった・・・。
クエンティン・タランティーノ脚本作品。監督はあのオリバーストーン。自分の主張を作品に盛り込み押し付ける弘兼憲史みたいなヤツだ。なのでこれは純粋なタランティーノ映画とは言えない。
この映画は友人が言うには、アメリカのメディアの異常な過熱ぶりを皮肉った「意味付け」のある映画らしい。
しかしねぇ、自分が見た時はそういう事前の情報、例えば宣伝広告とか見てないのでそんな押し着せの主義主張なんか、いざ映画を観てるときに感じ取ろうとか考えてないわけです。そんなのどうでもいいわけ特にこの映画は。俺の印象では題字通り「とにかくブッ殺しまくろう!」っちゅうことなんだから。
例えばオリバーストーン作品に「プラトーン」があるが、それはテーマそのものがベトナム戦争、いわば主義主張の塊。だからプラトーンは絶賛された。当時中学生の自分も少なからずベトナム戦争を考えたよ。ええ。
そう考えたのも束の間、せっかくのタランティーノのいい脚本骨子がオリバーストーンの過剰演出の前に砕け散っている。例えばマロリーがナイフを投げるシーンで瞬間的にナイフの動きを遅らせる演出、そのためにBGMをロックからクラシックみたいなのに変えるんだがこれがたまらなく古くさい。嫌になる。さらにマロリーとミッキーの出会いをこれも皮肉だかなんだかしらんが、テレビのどうでもいいコメディ仕立てにしている。これなんか最低。死にたくなる。
そうなると映像からなにから全て古くさく見えてくる。これは時代的古くささでなく、いかにも斬新さを狙った演出が見ていられないほどに古くさく感じるというものだ。これは最初から最後まで、とくにクライマックスの刑務所長が締め上げられるまで延々と垂れ流される。
オリバーストーンも題材によるなと思った。この映画はマスコミの過剰演出が反面のテーマなので、自らも過剰演出してみたのが裏目った。タランティーノが撮り直さねえかな。

RONIN ★☆☆☆☆

戦争・冷戦がなくなり、必要の無くなった戦争のプロが、雇われ殺し屋となる。そんな折、とある雇われ殺し屋にスーツケースを奪うという依頼が来たのだが、それが大きな災いとなる・・・。 
題字のごとく主役は現代の浪人(たぶん戦争とか冷戦とかなくなっていらなくなった人達)で、ある人物に雇われてスーツケースを手に入れようとする。そのスーツケースを色々な組織や国家が狙ってて、そこに裏切り、欺きなどがあるという、・・・・・まあなんというか題材としては分かり易さ全開だ。
浪人役の中に本作の目玉であるロバート・デ・ニーロとジャン・レノがいて、まあどっちがメインかと言えばデ・ニーロになる。というかこの映画は凄くデ・ニーロ臭いのである。まず題材が「奪い合い」。当然戦う。どうやって戦うかというと銃火器。バンバンバンバン。で一通り撃ったら逃げる。どうやって逃げるかというと車。そこには当然カーチェイス。カーチェイスにつきものの市民の逃げる様。店の品物をブチまける。延々この繰り返し。そうはいっても2~3回しかないけど。でラストに近づくにつれて、裏切り+欺きが増える。当然バンバン+カーチェイスも。
でラスト。特になんもない。予想通りハッピーエンド。デ・ニーロandレノ組の勝利。
ここまで淡々と書いたが、ほんとに何の感慨もない、爽快感もないふつーの作品という印象を受けた。こういう類の作品は雨後の竹の子の如くあるし、それの頂点にあると思う「ヒート」(確かこれもデ・ニーロ)を高校の時ぐらいに見てるんで、今更どうともないのはまあ自然ですな。
例えばこれが映画見るの初めて、とか言う人なら楽しめるのかも知れないが、如何せん自分は最早スレているので、なんもなければ素直には見れませんな。
いや例えば「普通さ」を狙った作品なら十分楽しめますよ。でもデ・ニーロ出てんだもん。もうなんというか分かり易いんだよ。
2時間返せとは言わないが1.3時間ぐらい返して欲しい。

マトリックス ★★☆☆☆

コンピューター関係の会社に勤務する普通のビジネスマン、○○はある日自分が狙われていることを知らされる。思いつくフシはハッキングぐらいのもんで、命の疑いには及ばない。しかし事は彼が思い描く「現実世界」とは別の「現実世界」、真の生身の人間が生きる話の事だった!本当の現実世界と、現実だと思っていたマトリックス、これが虚構と現実を徘徊するような話だったら面白そうだが・・・・。
コンピューターグラフィックスによる視覚効果をフルに活用した作品として話題になった。確かに素晴らしい。グニャグニャ動いたり止まったりオーバーラップしたりと、まあすごいすごい、ハイハイってなもんで、こう言いたい。「てくのろじいとかいうもんをみるためにえいがみてるんじゃあないよ」
つまり、・・・・・話がものすごぉくつまらんのである。どうしようもなくつまらんのである。その上さらに”俺のつくったテクノロジー”オナニストがいたらしく、その映像は目も当てられない。
わざわざ凄さを見せるためにカラテだか拳法だかの組み手や対決をかなり長まわしで見せて、あからさまに「この動きすごいだろ?!」というオーラをバシバシに感じるのである。それはいいって。ブルース・リーがやってるから。しかもテクノロジー無しで。
ストーリーも単純きわまりなく、裏切り、展開、帰結まであからさまに読める。気付いてしまうとこの映画は退屈なだけ。見ないがマシだった。
世間一般論に流されてはいかんとはこの事か。

白痴 ★☆☆☆☆

長い長い戦争の中で人々の心は荒み、娯楽は国家が提供するテレビ番組だけだった。そのテレビ局で作家として働いている男、このような現実感のない今にうつろな彼が、一方で虚飾の権化であるテレビに虐げられ、一方では白痴の女にリアルを感じる。
手塚眞監督作品。新感覚ヴィジュアリストなどと呼ばれていたが、はたしてそのヴィジュアリストが映画をつくったらどうなるか、しかも主演は浅野忠信、これはなかなか面白いのではとの期待はあった。
しかし・・・・。なんというかその、方向はわかる。どうしようもなく見るに耐えない映像を頻繁に用いることでアイロニックにその現実を描いていること、その現実に気付いていてもどうしようもない側と、気付いてないのか気付こうともする気力すらないのか、甘んじて享受するしかない一般人ども、これを際だたせるための演出なんだろうかもしれんが、はっきりいってウザい。
あんなどうしようもないテレビ局でのシーンをこれでもかと長回しで見せられると、もうそれはそれは耐えられない苦痛になり、それのどこが新感覚なんだよと疑いたくなるほどの古くささである。仮にアイロニックゆえの古くささだとしても、それに対する新感覚的新鮮さの感じられる映像が全く見られない。
あの爆撃か?う~ん、確かにすごいけどなぁ。凄いだけ。
浅野主演の「孔雀」の方がよっぽど新鮮さは感じるし、つきつめるなら松田優作監督の「ア・ホーマンス」ぐらいのツキヌケ方が欲しかった。うんこだった。

リストランテの夜 ★★★☆☆

兄弟で切り盛りするレストラン。兄は職人気質で腕は立つ料理人で、弟が支配人である。兄のその気性ゆえ、レストランには客がめっきり入らなかった。弟はレストランの成功者の老人に教えられて、スーパースターをレストランに呼んで再起を図ろうとするが・・。
まあなんと言おうか、とくにこうおもしろいっ!ってほどでもなく、めちゃくちゃつまらんってほどでもなく、ふつうに見る分にはそこそこ楽しめるのではないでしょうか。
よく言えばよ!よく言えば!日曜洋画劇場にかなり向いてる作品だ。家族そろってボーっとみれる超安心ムービー。
あでもキスシーン結構あったな。実家にいた頃、当時はレンタルビデオ屋も近くにはなかったんで、仕方なしにテレビの吹替を見ていた。そん時も例えばこう、おお!ジョニー!なんてすてきなジョニーなんでしょう!たぶんアンタがジョニーって名前の男の中で、まあそりゃJonny be Good のジョニーには負けるかもしんないけど、悲しみジョニーよりは間違いなく素敵なジョニーってヤツよ!
おおおマリア!愛しのマリア!愛しの女コマンドーマリア!・・・・とかもう、ああなるほどね、もうすぐね、そうかそうか・・・・。・・・・・。・・・・・・。それまで座って見てたのを寝ころんで見るようにしたり、もうそういうシーンになりますサインを送られた瞬間、俺と姉ちゃんは暗黙の前提のうちに「互いの顔や仕草が見えないモード」にチェンジしたわけです。
そしていざまあそういうグッチョングッチョンなシーンをお互いの呼吸を計りながらやりすごそうと思いきや、親がやたらと反応しやがる。「あら~」とか「まあ!」とかならまだしも、グッチョシーンが長ければ「チャンネル変えろ」って言うの。
ありゃ~・・・。まあ確かに親としては「チャンネル変えろ」が正統派の親かもしれんけどさ、その昭和バンカラ派のサインはつまり、肯定。そう、肯定したことになるのよ!ねぇアンタ!そこまで含んでその合図かよ?
もちろんそういう含みはなく、親としてただもうその場をやり過ごしたいがために彼らは極めて適切なパスを送るのだが、確かにそのパス正しい。正しいけど、点には結びつかないよって当時は思いつつチャンネルを変えていたものでした。
なんだかんだで長くなった。終わり。

狼~男たちの挽歌 最終章~ ★★★☆☆

殺し屋(チョウ・ユンファ)は、ある殺しの依頼で関係のない女を失明させてしまう。彼女に視力回復の手術を施すため、殺し屋は大金のかかった殺しを、これが最後に引き受ける。しかして依頼主の裏切りにあい、仲間の裏切りにあい、警察にも追われる殺し屋。バイオレンス友情?ガンアクション。
香港のバイオレンス監督、ジョン・ウー作品。シリーズものの最終から見るという筋にはずれてしまったことをしたのだが、過去のはなしとの繋がりらしきものはないので、すんなり観れた。
印象的なのはアクションシーン。まずかなりの割合で二丁拳銃を装備し、一人殺すにつき六~八発ぐらいバンバンバンバンバンバン~バンバンと撃ちまくる。これでもかっちゅうぐらい拳銃をハジくので、瞬発的な格好良さから、だんだん「こいつホントに殺し屋かよ」的猜疑心が生じてしまうのです。
俺が抱く殺し屋像はなんといっても一発で相手の脳か心臓をブチ抜く大胆で冷静な野郎なのです。それこそ殺し屋。この殺し屋もボートの上からターゲットを打ち抜いたのだが、まず一発目を脳にブチ込む。それに飽きたらず、二発目、三発目とブチ込むのです。まあ、用心に用心を重ねてということかもしれないが、やっぱ一発で決めて欲しい。
そうは言ってもアクションシーンの連続と、もう一人の主役とも言える刑事と殺し屋の対決シーンは凄い。特にラスト、なんだか友情なんか芽生えてしまって、たった二人で一個師団ぐらいのマフィアの軍団をブッ潰したんだから、友情ってすごいなぁっておもいました。

孔雀 ★★★☆☆

アサノは、沖縄の竹富島で生まれた。目に入ってきたものを特別な言葉に置き換えてすべて記憶できる特異な能力を持つ彼の心は、いつしか記憶そのものにむしばまれ、疲れきっていた。そんなある日、ふと彼は海に向かって走り出す。見渡すかぎりの青い風景の中で彼は記憶の闇から開放される。行きついた場所は香港の裏町だった。記憶から一切開放された(ほとんど何も覚える気がない)ゲイのマスターが経営するバーに流れつくアサノ。孔雀色のソファに埋もれながら彼は自分の居場所をようやく見つけるのだった。
今回はストーリー紹介をパブリックな映画サイトから引用した。というのもはっきりいってストーリーがよくわからんのである。最終的にアサノ、ケビン、まあめでたしめでたしで終わったようだが、それまでの顛末がよくつかめない。
というのもこの監督のクリストファー・ドイルという人、なんでもウォン・カーウァイの下で撮影監督をしていたらしく本作が初監督作品らしい。確かに彼の映像センスはこの映画の大きな要素で、ラストでアサノがこの映画で重要なファクターである海、この中に入っていい感じに振り向く、これは結構いいものだ。
如何せん内容がよくわからんだけに、まるで岩井作品を見たような、なんだか映像だけで(悪く言えば)誤魔化されたような感じがする。確かに本作も岩井作品もその映像の美しさに置いて凄いと思うが、やっぱ映画は脚本あってのもの、かえってそのことを確認させられた。

ア・ホーマンス ★★★☆☆

自分の過去を知らない風(松田優作)は、流れ着いた街でヤクザの抗争に遭遇、そして今や何の価値もない仁義を重んじる山崎に出会う。彼の漢気に感じた風は、孤立無援となった山崎に友情に似たものを感じる。
暗い。グニャグニャする。率直な感想だ。
松田優作監督・主演作品。1986年の製作らしいが、当時これが商業映画として受け入れられたのだろうか?松田優作の演者としての独特の存在感、物憂げな暗さはまさしく彼自身で、受け手としてもそれを見て優作を感じ、またそれを期待しもしたと思う。例えば「野獣死すべし」のために山籠もり、奥歯を2本抜いた、そんな感じのエピソードである。
そんな彼が監督として映画全体に関われば雰囲気が暗くなるのはまあわかるが、はっきりいって人物の心理がよくわからない。オレはわからないものをわかるわかるといえないし、それはみっともない。