地獄の黙示録 ★★★★★

ベトナム戦争中にアメリカ軍の敏腕大佐が消息を絶った。それを受けて探しに行くよう命ぜられる中尉。探しに行く過程で、そして大佐が見つかってから、中尉はどうなっていくんだろうか・・・?
大佐が中尉に理解して欲しかった事は何か。それは狂気と恐怖は紙一重だということだと思う。
 
大佐自身、ベトコンが狂気を狂気と認識しないところに魅せられ、そして自分もまた一時的に狂気に陥る。しかし一方で彼は自分が狂気であることを次第に恐怖し、また狂気であったと喧伝されることにも恐怖している。彼はベトコンのシンボルとなったため、恐怖を友にして表面的に狂気でありながらその事実に苦しんでいた。
 
そこで中尉に自分を解放して欲しかった。それは中尉が捕えられてから、生首や吊した死体、またシェフの生首を中尉の所にもってくるなど、狂気のポーズを見せておきながら、息子のことを気にかけたり、最後に「爆撃で殲滅せよ」という言葉を残したりと、それとなく中尉に示唆しているシーンから見える。
 
一方中尉は大佐の考えを理解し、大佐を殺した後、恐怖を友にしてベトコンをひれ伏させた。カメラマンの言葉「彼(大佐)が死んだら人々はなんと言うだろう。彼は優しく賢明だった。創造力に富んでいた。彼の真価を伝えられるのは俺じゃない。お前(中尉)だ。」カメラマンもやはり、大佐のジレンマを感じていたのである。
 
この映画は、戦争の恐怖の面を一貫して描いている。殺人の倫理は戦争映画で明示的に現れやすいが、生死の極限状態では、一見狂気で殺すように見えるが、その根底には恐怖があるのだろう。
 
恐怖を友にすることと狂気であることは異なる。大佐と中尉は前者。ベトコンは後者。ベトコンが二人にひれ伏したことで表面的には違いはわからないのだが、狂気は殺しを裁かないが、恐怖は殺しを裁こうとする。大佐が狂気に惹かれたのはここかもしれない。しかしやはり狂気にはなれなかった。狂気と恐怖、紙一重で大佐は恐怖に駆られたというところか。
ラストで大佐を殺すシーンと、狂気の祭の中でベトコンが牛を殺すシーン。また大佐がポーズとしての狂気の会話をテープに吹き込んでいるシーンは象徴的だった。

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